第18話 【夏の海での面影 -2-】


 ***


 夕日が沈み、もう辺りは暗闇に包まれた。

 夜の海は怖いと小さい頃に読んだ絵本はそう語っていた。

 だが俺は今、八束と二人で浜辺の突き当たりの壁伝いに歩きながら、たわいもない会話を繰り広げていた。


「で、お前が亜結樹ちゃんと一緒になったのは兄貴が一緒になってくれって頼まれたからなんだ」

「あぁ。断るに断れねぇ理由があってな」

「そっか。……なぁ」


 氷峰は前に進む足を止め、八束の方へ振り返る。


「何?」

「どうして俺と二人っきりになるなんて言い出したんだよ。お前とはもうそういう付き合いはしねぇからな」

「違ぇよ。俺はもうお前に一生会えねぇんじゃねぇかって、そう思ってさ……今話してぇ事いっぱいあふれてんのに――!」


 ――話したい事は、自分の中で、解決していなくてよ……。

 ――謝りたい事が一杯溢れているのに、何から話していいかわからねぇ。


 八束は氷峰の後ろ姿を追いかけるように、砂浜を蹴る。サンダルに砂が入り込んで足の裏の感触が汗と混じってザラザラする。腹の中で蠢いている濁った感情のように、足裏にまとわりついてくる湿った砂粒をタオルで払いのける。


「なぁ待てって!」


 八束が懸命にそう大声をあげると――


「……あっち、行くか」


 氷峰は海の家のある方の明るい方を指差しながら、壁際の細い路地へと八束を誘った。人集りのある方は昔っから苦手だった。けど今は一人じゃない。

 海の家はまだ営業中で、橙色のランプの明かりが裏路地の道を微かに照らしていた。

 亜結樹と海鳴はどこまで歩いて行ったのか、気になる所だが、心配しているのはそこではない。


「なぁ、もう俺に謝らなくていいからなー…」

「は? な、何だよ急に……っ! いや待てよ! ふざけんじゃ……――」

 ――ねぇよ。俺が思ってること先取りしやがって……。


「海鳴のこと……俺は知りたいけど、お前があいつの代わりに亜結樹に対して謝ったのって――」


 そう話しながら、手元は一本のタバコを取り出し、口に咥えた。


「俺にも謝っていた気がしたんだよなー……」

「……んだよ、別に……そんなつもりで……――」


 ――バレバレじゃねぇかよ。恥ずかしいってんだよ。


 八束はあのとき、戸惑うことなく頭を下げて謝った。

 互いに連れているパートナーのクローンが通っている学校で、偶然出会ったにもかかわらず。

 数年ぶりに見た氷峰の顔は過去を引きずっているように見えたから、尽かさず謝った。その場での海鳴の感覚は余所だった。


「あ、タバコ……吸い始めたの?」


 岩壁にしゃがみ込んで、氷峰の顔を見上げる。


「ああ。苦手か? ……だったら止める」

「あ? いやいいよ。ただなぁー。あー思い出したくねぇもん思い出しちゃったなー俺」

「何だよ? 思い出したくないものって……」


 氷峰は目を丸くした。両膝を抱えながら眉をひそめて愚痴をこぼした八束を見下ろすような形になる。


 ――このタバコの香りでも嗅いで思い出させちまったってのか……。

 ――もしかして……。


 氷峰は吹かしていたタバコを携帯灰皿の中に入れて、ふと思い立ったことを口にする。誰のことだろうか。このタバコの香りは……俺が偶然好むものが彼と同じだったと言いたいのだろうか。


「華木か……」


 その一言に八束は顔を一瞬埋めるが、氷峰を見上げてほくそ笑む。


「……俺、まだ忘れらんねぇのかも。ミネのお陰様で」

「そりゃ悪かった。でもこれは吸うつもりでいる……」

「いいじゃん。似た者同士」

「どこがだ……やめてくれ」


 ――俺と華木が似た者同士……って言ったのは、もそう言ってたな。


「ハハっ……俺にしかわかんねぇかも」


 夜の潮風がベタベタするのを気にすることなく、二人は穏やかな会話をしていた。

 そこへ四人組みの若者等が、彼らの所へ歩み寄って来た。


「あれェ八束さんじゃないスか」


 一人の男が声をかけてくると、その声に反応した八束は――


「あ? 誰だお前等……」

 と、とぼけた声で呟いた。


「隣にいる人って新しい彼氏っすか?」


 もう一人の男が、氷峰を指差してヘラヘラした顔で言った。するとそれに嫌気がさした氷峰は――

「?」

 ――八束の昔の知り合いか?


 指差してきた相手を睨みながら腕組みをしていた。


「彼氏でも何でもねぇわ。てか何? どちらさんですか?」

「忘れたとは言わせねぇぞ。華木の面子には散々な目に遭ったからなァ――ッ!」


 一人の男が、突然八束の顔面を足で蹴り飛ばした。氷峰は思わず声を上げた。


「――! おい! いきなり何なんだよ‼︎」

「あんたには関係ねぇよ。引っ込んでろ!」

「……」


 氷峰は頭の中がもやもやしていて、口の中で歯ぎしりをしていた。

 蹴り飛ばされた八束に一瞬目を遣る。


「ってぇ……久々……」


 八束は体勢を崩し倒れこんで口元に手を添えていた。


「おい立てよ」

「ちょっと憂さ晴らし付き合えよ」

「……んだと?」

「なぁ華木はどうしたんだよ?」

「知らねぇ……」

「は? お前付き合ってたんだろ?」

「……別れたよ」


 ――もう昔のことだろ? なんだよ今更。


 八束は相手を睨みながら立ち上がった。


「つーか前からキモいと思ってたんだよ」

「あ?」

「華木がバイなのは知ってたけど、こいつマジで男にしか興味もてねー体してんだよ」

「さっきからうっせーな……俺のこと恨んでるつらしてねぇくせに……」


 ――縁切ったのに、こいつらはどっから俺のこと知ったんだし。俺の事晒された?

「恨んでるとかの話じゃないんスよ」

「ただただムカつくだけなんで。ヤっちゃんとか呼ばれてて調子こいてんじゃねぇし」

「だーかーらー、もう別れたっつってんだろが!」


 その八束の罵声もむなしく、彼らはゲラゲラ笑っていた。

 氷峰は相手の様子を黙って睨んでいたが――


「華木がどうかしたのか?」

「あ? あんたは黙ってろっての」

「あいつが何処行ったか知らねぇけどよ……」


 別の男が物悲しそうな声で呟いた。


「八束さんがあいつと別れなきゃなァ……――!」

 もう一人の男がそう言うと八束に殴りかかってきた。

「――ッ! ……の野郎!」


 殴られた反動で、八束は相手の両肩の服を摘み上げて頭突きをかます。


「ッ――痛っ!」

「おい八束やめろって!」


 氷峰が声を張り上げたところで、彼らの暴走は止まらなかった。

 次から次へと火の粉が舞うように、八束が彼らの消化剤になる。

 それを近くで見ていたら、彼も喧嘩のとばっちりを食らう。


「あんたもどうせ八束のお仲間なんだろ?」


 そう声をかけてきて一発殴られてしまった。


「……」


 だが彼は仕返しをしなかった。

 氷峰はひるむことはなかった。ただ無性にふつふつと苛立ちがこみ上げてきて――


「あのバカはいつまで殴り合いを続けるつもりなんだよ……」

 と呟いて殴ってきた相手の顔を睨み付ける。


「喧嘩を止める方法教えてやろうか?」

「…な、なんスか?」


 氷峰の凍てついたジトジトとした面影と目が合った。


「お前らのムカつく相手の『元彼』が教えてくれたんだ……」


 そう静かに言いながら、胸ポケットからあるものを取り出す。

 その動作を見た男は青褪めた表情をし、八束の方へ走り去ろうとする。

 ――やべぇやべぇこいつ……華木さんのこと知って――!


「火ぃついてないっての」


 そう言うと、走り去ろうとした男の手を掴み、そのやり方の振りを他の相手にも見せつけた。

 氷峰の行動に八束と三人の男は喧嘩をする手が静止した。

 静止した理由はその彼に手首を掴まれた男が悲鳴を上げたからである。


「ミネ……何やって……んだ……よ」


 八束は小声で目を丸くして呟いた。

 氷峰は男の掴んだ手の甲に、上から煙草で押さえつけた。だが火は着いていなかった。

 何に怯えたって、彼等は当然華木という男を知っていたから、背筋が凍りつく思いでその場に佇んでいた。


「俺は華木という奴と同級生でいた。年上だったけどな……。もうあんたらの知ってる八束はここにはいねぇよ……華木がどうかしたのか?」


 氷峰は据わった目で睨んでいるわけでもなく、物静かな口調で絡んできた不良に話す。


「お前には関係あるわけ……。てかあんた何者だよ……。か、帰ろうぜ、な、なぁ」


 一人の声が荒げると、周囲の数人の男達は怯えながら頷き、二人の元を離れていった。


「……どうかしたとしても俺が……⁉︎」


 ――俺が? ……どうするって?


 氷峰の口が止まる。八束は氷峰の行動を見て昔の自分を振り返ってしまった。


「な、なぁ……ミネ、……変わんねぇな。俺今、ビビったわ……」


 何を思い出させたのか、今は何も語らずにいた。

 語らずとも、二人は互いに過去を背負い合っている。今も亜結樹と、海鳴の傍で。


「怖い思いさせて悪かった。お前の前で煙草吸うのは止めとくか……」


 そう言うとがらりと表情を丸くする。火の着いていない捩り伏せた一本を携帯灰皿に押し入れた。


「お、おう……」


 八束は曽ての仲間の仕打ちを目の当たりにしていたことを思い出していた。白髪の短髪男の面影を――。


「あいつらかき氷でも食ってっかなぁ……。そろそろ合流しようか」


 氷峰はそう言って携帯電話を取り出し、電話を掛けた。

 相手は――。



 ***


 そろそろ花火でも上げられる時間帯だろうか。賑やかさは夕闇から半減していた。

 海鳴と亜結樹は海の家に来ていた。

 亜結樹は海鳴が氷ならシロップなしで食べられるのではないか……なんてことを思いつつ――


「海鳴もかき氷食べるでしょ?」

 と言って座る。氷峰と八束と合流する最後の二人だけの時間を楽しんでいた。


「んー俺はどうしようかなぁ……氷だけ頼む奴なんて聞いた事ねぇな。亜結樹、何味食べんの? 買ってくるよ」


 座っている亜結樹の側で海鳴はそう言った。


「じゃぁ、イチゴ味にする。ありがとう」

「ん、わかった。じゃちょっとここで待ってて」


 海鳴はそう言って亜結樹の側から立ち去った。

 売店に数名並んでいる行列に並ぶと、携帯電話が鳴り始めた。


「はい――」


 ――もしもし。ミネだ。


「? あれ……何で俺に電話かけたんですか?」


 ――やっぱ今、亜結樹と一緒じゃないのか?


「何でわかるんですか? 今ちょうど、かき氷買いに離れたばっかです」


 ――あーなんかそんな気がした。俺と八束も今からお前らの場所まで行くから待っててくれ。


「ああ、うん。てか、その……(怒ってるのかな? ミネさん……)」


 ――亜結樹を一人にさせんなってバレーの後言ったじゃねぇかよ……。


 海鳴の胸中をすんなり言わされてしまった。氷峰の落胆した表情が頭に浮かんだ。


「ご、ごめんなさい! かき氷買ったらすぐ亜結樹の所まで戻るんで! それじゃ――」


 ――あ、おい! 勝手に電話切んなっ……て。遅かったか……。


 氷峰は静かに携帯電話を振り下ろした。嫌な予感しかしない。


「やばいな。別れなきゃ……よかった」


 ――身勝手な性格はこいつと一緒に過ごしてるからなのか? いや――。


 氷峰はしゃがみこむ八束を横目でチラリと見遣る。


 ――彼奴の身体にはクローン特有の傷痕がなかった。というかクローンなのか?

 ――彼奴は普通にクローンで細身の体にコンプレックスを持っていることは言ってたし……。

 ――今度、蔀に聞いてみるか……海鳴のこと。


「ミネ……」

「何?」

「どっちに電話かけたの?」

「会話聞いてりゃわかるだろ」

「……ハハっ……だな」


 ――海鳴か……。


 八束は口元の切り傷を舐めながら苦笑いをした。

 この状況を海鳴に見せたらどんな反応を示すのだろうか。しかも亜結樹という人の目の前で。


 ***


 亜結樹は海鳴が戻ってくるのを待っていた。一人で木製のベンチに腰をかけて待っていた。


「……言いたいこと、伝えたいこと……あったはずなのに。言わなくてももう気付いてるのかなぁ……」


 亜結樹は一学期の間、苛められていたことを耐え抜いたと讃えたかった。そして、立花との別れがきっかけで、海鳴との距離がぐっと縮められると思って海へ来たはずなのに、それは互いが恋でも愛なんかでもない、単なる友情であったと互いに悟り始めてしまった。


「遅いな……かき氷買うのにそんなに時間かかるかなぁ……」


 不安でいる所、ある男が声をかけてきた。


「ねぇ君一人?」

「え?」

「あっちのビーチでライブやってんだけど見に行かない?」

「あ、え、えと、待ち人がいるからここから動けないんです!」


 亜結樹は堂々たる面持ちで大声で断った。だが――


「いいじゃんまた後で会いに行けばいいっしょ? ほら行こうぜ」

 もう一人の男が亜結樹の手首を強引に引っ張りあげた。

 その男の動作に恐怖を感じた亜結樹は手を振り上げたが――


「……や、やめてください」


 先ほどの断り方から一転し、小声で、自分の掴まれた手首を握りしめた。

 体格のいい男二人に囲まれて、また元の位置に座り直してずっと、二人を睨みつけていた。

 圧迫感なのか、このとき氷峰と八束がいたら、この状況を一掃してくれるに違いないと思っていた。ただ、今、海鳴が来たらどうしてくれるのだろうか。


 ――早く……来てよ! 海鳴!


「亜結樹ー買ってきたぞ! 俺は氷だけな……って――」


 両手にかき氷の入ったカップを手に、顔面が痣だらけの二人の男と目が合う。


「あ? 彼氏いたんだー」

「帰ろーぜ。なんかひ弱な男っぽいし、喧嘩のしようがねぇわ」


 そう言った二人の男は亜結樹を囲んでいたのをやめ、海鳴を睨んだまま立ち去った。


「ああ……あ……あ、亜結樹、だ、だ、大丈夫?」


 両手に握っていたカップの温度が、全身にまで染み渡るように冷え切っていた。


「海鳴の方こそ目の下が青いよ? 大丈夫?」


 海鳴は震えながらイチゴ味のかき氷のカップを亜結樹にはいと言って手渡した。


「い、いや。なんかあのさっきの二人見たらいけない想像しちゃってさ……俺の考えすぎ」

「いけない想像?」

「いやぁ……何て言うかな。あの二人の怪我見たらさ、どっかで乱闘あったんだろうなぁって。俺ああいうの見るのは平気でも実際目の当たりにしたら何もできずに立ち去ると思うんだ」

「あー……そうなんだ。ていうか、海鳴見ただけで立ち去ってくれたじゃん、怖そうな二人」

「え? てか亜結樹、何もされてない? 俺が買い出し行ってる間に」


 ――俺を見られただけで立ち去ったのか? ん? そうなのか……。


「うん。大丈夫だよ。『ライブ行かない?』って誘われただけ。手首掴まれた時は怖かったけど……」


 ――いいタイミングで海鳴に会えてよかった。


「え! 怪我してない? 大丈夫かよ本当に!」


 隣に座って氷だけのかき氷に、ザクザク音を立てながら、海鳴は言った。

 本当に心配しながら話しかける。


「うん、本当に、大丈夫。あ、イチゴ味美味しいなぁー」


 亜結樹はそう言って、また一口かき氷を食べた。


「なぁ……ちょっと聞いていいか?」

「何?」

「俺にミネさんから電話来たんだ」

「!」

「お前には来なかった? 電話……」


 海鳴の一言に、どきっとした。亜結樹は氷峰に信用されていると思っていた。思っていた上で待ち合わせの連絡が、自分ではなく海鳴に来たことに動揺してしまった。


「ううん。来てないよ。それがなんか気になるの?」

「いやいやお前がなんか気にしてねぇのかなって思ったの」

「……それは……そりゃ……あ――」


 ――一緒に暮らしてるし、いつも連絡してくれるとは限らないから……気にはなったけど。

 ――気にはなったけどそれって……だって――。


 亜結樹が何か言おうとしたとき――

「――そりゃ、愛を求めてるから心で繋がってるんだーっていうと思ったんだけど……」

 海鳴が、亜結樹の伝えたいことを思う存分吐いてしまった。


「え? 愛? 心が繋がる?」

「ほら、お前言ってたじゃん。俺と二人で夕日眺めながら話してたこと。あれが今回の一件なのかなぁってさ」

「あぁ、そっか……そんなこと言ってたね」

「自覚ねぇの? てか忘れたの⁉︎」


 そう大声を出した海鳴に対して、亜結樹は思いっきり左右に首を振った。


「ごめん。好かれることが愛に繋がるだなんて……なんか大きいこと言ってるような気がして」

「あははっ……何で謝んだよ。あ、氷溶けかけてるぞ」

「あ! 早く食べなきゃ! こんな暑い日なのに!」


 二人は笑いながら、氷峰と八束が来るのを待ち侘びていた。



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