第54話 【夏の儚い空と憂い -2-】
―――夜・キュプラモニウム施設内。
蔀は白衣を着たまま、陵のいる最上階の会長室まで足早に向かった。彼の中ではもうすでに謎は解けかけていた。海鳴のいるべき場所はあとここくらいだろう。もしいないとしたら施設内のどこにいるのか。
隔離した場所には組織の間でも守秘義務というものがある。蔀が知らない海鳴の居場所――陵と一緒にいないとしたらどこにいるのか。それを知っているのも陵莞爾しかいない。
なぜなら海鳴が陵のクローンだからだ。海鳴の居場所を知る方法は直接本人に尋ねる他なかった。
ドアをノックする音で誰が叩いているのか陵はわかった様子で「入っていいよ」と気兼ねなく応えた。
「海鳴はどこにいるんですか……」
亜結樹から連絡をもらった後、蔀は施設内をうろうろしていた。今日という日は仕事を放り出してしまい、申し訳ないと思いながら速水に任せっきりにしていた。そんな自由が許されるのは組織を取りまとめてる陵のお陰ではある。
柊司秋が不在の間、陵は蔀の上に立つ存在でありながら、組織の中で一番彼を
「言わなきゃダメ? どうしても?」
陵は首を傾げながらからかうように返事をする。対する蔀は――、
「勿体ぶらないで言ってください!」
声を張り上げて陵に詰め寄る。苛立ちを隠せずにいた。
「仕方ないなぁー。海鳴は今クローン養護施設のにいるよ」
「そんなことはわかってます! 部屋の番号を教えてくれませんか?」
蔀の返事になかなか応じない陵は、話をすり替えた。
「ねぇそれよりさぁ……海鳴がどこにいるかより大事なことあるんじゃないの?」
「弟のことですか……」
蔀はその場で面をくらった顔つきになり、額を手で覆い頭を悩ませた。陵にからかわれている自覚はあるようだ。
「彼はね、昨晩からずっと海鳴につきっきりだよ。施設の人が帰そうとしても側を離れなくてさぁ。困るよね、ほんと。俺なにか余計なこと言っちゃったかなぁ……アハハっ」
「あいつに直接なにを吹き込んだんですか……。――――っ!!」
陵は座ったまま椅子をクルクル回転させながら高笑いしている。蔀はそんな彼を止めようと躍起になる。黙り込んだまま机を思い切り叩いた。
「わっ! 物に当たらないでくれる? ただ俺も許せなかったからちょっとだけ意地悪言ったの。それで君らが無理やり返してきたナイフを渡しただけ。それで――」
陵は物音に驚くも顔色一つ変えずに流暢に喋り続ける。
「あ、ナイフ渡したのギャグだと思ってる? 俺の気持ちだから。そう、本性だよ本性。これは観察であり俺の心が傷つけられたから傷つけたくなったことの表れであり、俺の本性に基づいて――」
蔀には彼の言いたいことの一つや二つ、理解できそうなはずではあるが、今はそれどころではない。
陵の言葉を無理やり塞いだ。塞いだと思ったら――、
「いいかげん部屋番号を――」
「102」
彼の応答は早過ぎるくらいだった。「鍵は開いてるよ」と言葉が付け足された。
蔀は番号を訊き出した途端に風を切るように会議室を出ていった。
――あいつには伝わらないさ……正真正銘の単細胞だからな。ただ……――。
海鳴と返しにいったナイフが何の象徴であるかを蔀は感じ取っていた。
八束の前で正解を言っても彼は理解してはくれないだろう。
海鳴といたら正解がわかってしまうのではないかと恐れていた。
――ただ海鳴が傍にいたら……死生観が変わるかもしれないからな……。
蔀はクローン養護施設内の102号室に辿り着くと、呼吸を整えてから静かに戸を開けた。
部屋の中は二列に並んだ蛍光灯の明かりが付いたままだった。掛布に伏せている八束の丸くなった背中が見える。
「おい、寝てるのか?」
「……」
八束の返事はない。海鳴の様子も窺うと、彼も目を閉じたまま眠っていた。
弟の八束の様子を探ろうとして近づくと、彼の手には陵から渡ったナイフが握られていた。
「おい、起きてるんだろ? そんなもんお前には必要ないだろ……」
蔀はそう言いながら陵の私物であるナイフを八束の手から引き離してぶんどる。
八束は顔を伏せたまま黙り込んでいる。少し汗ばんで濡れた前髪が蔀と似ていた。
彼は虫の息をしていたが、全く蔀の方へ向く気配がなかった。今の彼は返事をする気力すらないのか。
――少し暑いな……。
蔀は部屋の窓を開けて換気する。海鳴の体調を考えているせいか冷房機の温度設定はやや高めであったと、部屋に入ってすぐに理解した。
「あのイカれた科学者になにを責められたのか俺は知らないが、どうせお前の考えてることなんて、ろくでもないことだったんだろ」
蔀は窓を開けながら八束に問いかける。カーテンが緩やかに靡いて真夏の夜の空気が部屋中に流れ込む。
「ろくでもない……だと?」
八束はやっと顔を上げて兄である蔀の冷徹な顔を捉えた。か細い声に何処か含みのある唸るような声は、いつもの八束の声であった。
「どうせ昔のことを思い出して、海鳴なら気づいてくれる……そう思って失敗したんじゃないのか?」
蔀の耳に伝わっていた情報は、海鳴が酒を飲んで気絶したということだけあった。それにもかかわらず、ここまで八束の気を奮い立たせるような煽り方ができるのは兄である蔀だからこそである。
「……んだと?」
八束は眉間に皺を寄せて蔀を睨んだ。そんな彼の表情を見た蔀はほくそ笑んだ。
いつもの八束が正気を取り戻してくれたと察した。
――誰のおかげで今のお前がいると思ってるんだ、全く……。
「海鳴の容態はその点滴が切れたら目を覚ますだろう……」
「そっか……」
八束はふと自分の手元を見て周囲を見渡し始める。目をキョロキョロさせていると蔀が一言呟いた。
「気づいてなかったのか……ナイフなら俺が持ってる」
「あ、ソレさぁ……あー、やっぱなんでもねぇわ……」
八束はなにか頭に浮かんだ一瞬の気持ちを言葉にしようとして、諦めてしまう。
「なんだよ……言葉にできないのか?」
「っるっせーな……その……海鳴がいなかったら……俺――」
海鳴の目を閉じた顔があまりにも綺麗だったから――じっと見つめながら言おうとした言葉は――自殺。
「お前には死ぬ覚悟なんてなかったはずだろ……違うのか?」
「けどさァ……なんでだろ、この気持ちがさァ、もしそのナイフに込められてるってんなら誰が証明すんのかなァ……俺にはわかんね」
「だろうな。わかんなくていいさ……」
蔀は白衣のポケットに突っ込んだナイフを取り出して数秒間見たあと、ふたたびしまい込んだ。陵にナイフを返すついでに伝えておきたい言葉はあるのか、言い返せる言葉はないものか考えた。
正解は自殺することではない。蔀はこのナイフの持つ意味に少なからず気づき始めていた。考え込んでいると、海鳴の腕に装着されていた点滴が空になった。と、同時に海鳴の意識が回復する。
「ん……。あれ? 八束……と……蔀さんまで――わっ!?」
「海鳴――っ!! ごめん……ごめん……」
八束は声を上げて海鳴に抱きついた。海鳴に隠していた涙ごと込み上げてくるなにかが彼の中にはあった。
「や、八束……ちょっ……わかったから一旦放してってば」
海鳴は一瞬で八束が謝ってきた理由を理解していた。ただ蔀がきている状況はすぐには把握できなかった。
「なァ、キスしていい?」
「ダメに決まってるだろ! 蔀さんも見てんだからっ!!」
急に体温が上昇して顔を赤くする海鳴と、笑顔を取り戻す八束をよそに、蔀は軽くため息をついた。
二人が
数年前に一度自分の性に疑念に思ったことがある。
――相変わらずなんだな……。
――俺にだって恋愛感情を想起させるものがあっただろうに……。
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