第42話 【相談事 -2-】
―――数時間前・柊八束宅。
長い夜はもう終わり、夜が明けた。亜結樹は氷峰の元へは帰らずに、海鳴について行った。海鳴にギュッと握られていた手を離さず、ずっと八束の家を目指して歩いた。
八束の家に着くと、締め切ったままのカーテンから朝日がわずかに覗いていた。お互いに「少し歩き疲れたね」と顔を見合わせながらソファに座り込んで、手を繋いだまま深い眠りについてしまった。
二人が寄り添い合って静かに寝ていると、仕事を終えた八束がそこへやって来た。彼はただいまも言わずに、玄関先に靴が増えていることに気づく。リビングへ向かうと、静かに寝息をかきながら微笑んで亜結樹に寄り掛かかる海鳴を見下ろす。なんで亜結樹がここへ来たのか疑問に思ったが、二人がソファで寝ているところを邪魔しないようにその場を離れた。
「俺も、ミネに近づいたわけだし……お互い様か」
そう一言呟いて、彼は寝床についた。
海鳴はしばらくソファで眠った後、亜結樹より早く目を覚ます。八束が帰っていたことに気づき、咄嗟に彼の部屋へ向かう。亜結樹と一緒にソファで寝ていたところを見られていたかもしれないと思い、寝ている八束を起こそうとした。だが、彼は寝ていた。寝たふりをしていた。
「……なんだよ。寝てんの?」
「…………」
「俺、またあんたに言えない秘密抱えちゃったよ……ごめん」
海鳴のその言葉は、確かに八束の耳元に届いていた。海鳴が部屋のドアを閉めて立ち去ると、八束は目をゆっくりと開けた。亜結樹と一緒にいる海鳴になんの疑問を持たなかったわけでもない。ただ、亜結樹と一緒にいる海鳴を見て、自分の考えに及ばないところまで海鳴はたどり着いてしまった。ということだけは感覚的にも直感で理解した。
亜結樹は海鳴と八束の家で朝食を摂っていた。
海鳴は亜結樹のために目玉焼きを焼いて、食パンを焼いてあげて、亜結樹の朝食を振る舞った。
「美味しそうに焼けてるね。いただきまーす」
「俺はいつものこれ」
海鳴は向かいに座っている亜結樹にそう言うと、ガゼットパウチを開ける。口にくわえながら、黙々と海鳴の料理を食べている亜結樹を見て、彼はまた微笑んでいた。
「なぁ、まだ帰らねぇよな?」
「うん。食べ終わったあとも、もう少しだけ一緒に居たい」
「あいつ、起きてこねぇから、なんかゲームでもしようぜ」
「あんまり遊んだことないけど、いいね。楽しそう!」
二人は食事を終えると、ソファに座り直す。リビングの隅っこのケースの中に入っているゲーム機を取り出し、数年前に流行っていたアクションゲームをやり始めた。
海鳴はゲーム機をテレビに繋いで電源を入れた。音量は少し小さめにして、隣に座っていた亜結樹にもコントローラーを渡した。
八束が起きてリビングに来たらゲームをやめるという決まりで、二人は上機嫌で遊んだ。
――海鳴の心の底から笑っていた顔を見たのは、初めてかもしれない。
――海鳴の心を一瞬でも動かすことができたのは、あたしの存在が――。
――海鳴と恋人以上の関係を作り出してしまった……のかな……。
亜結樹は頭の中で学校に入り始めた頃に見た、彼の濁った瞳に映る偽った笑顔と比べた。
恋じゃなかった。暗がりの校門前で彼の言葉を思い出しながら、亜結樹は必死になって海鳴とゲームをしていた。この時間が少しでも長く続きますように。そう祈るような気持ちで。
―――数時間後・柊蔀宅。
「速水に会ってみないか?」
「速水……ああ、あの人か」
「お前が何度も告白に失敗したあの人だ」
「んだよ、その言い方。ああ、確かに忘れらんねぇよ」
「お前……やっぱストーカーなのか?」
わざと目をきょとんとさせて氷峰を誑かしてみせた。
「は? 違ぇよ! やっぱって何だよ!」
そう軽く怒鳴った氷峰を見て蔀は微笑んだ。と、思ったらすぐ笑うのをやめて続けて話す。
「今、俺と同じ施設で働いてるんだ」
「そうだったのか。てか何で今会うって話なんだよ……」
「お前まだ心のどっかで好きなんじゃないのかなって思ってな……。一度会って話をしてみないか?」
「は? な……、今は亜結樹のことで頭が一杯なんだっていうときになに考えてんだよお前。ふざけんな!」
「告白しろなんて一言も言ってないぞ。亜結樹と肉体的な付き合い方しか出来ないお前に対して、速水は必ずお前の心の支えになってくれるはずだと言いたいんだ。少しは理解しろよ」
「そういうこと……」
――上から目線でもの言いやがって。
氷峰はため息をつき、頭を掻きながら――、
「それで? 速水さんは俺をどうしてくれるって? 俺と会ってどんな反応すんのか想像ついてんの?」
若干苛立ちを見せながら相槌を打った。
「それは俺にもわからない」
蔀は即答した。
「お前、何考えてんだよ」
「ひとつ考えが浮かんだんだ……。クローンとも家族になれたら良いと思っている」
「家族?」
「クローンと人間は一緒に同居しているだけであって、法律でも家族とは認められていない。かつてお前の実の父親が提唱したあの事件の後に、この組織は誕生したんだ」
「ああ、うん……」
「それで、その法を俺は変えたいと思っているんだ。だから陵さんの跡を継ぐのは俺だと信じていてくれ」
「……」
「まだ先の話だ。ただ、今はお前と速水が亜結樹と一緒に過ごせればいいと思ってる」
「……」
「お前は事実上両親を失っているんだ。亜結樹がいなかったら本当に孤独なんだ。俺は親友としてお前を一人にしておけない」
「ありがとう。でも余計なお世話だよ」
「そうか……。速水には俺からお前に会うように説得しておく」
「ああ、わかった。俺もいつでも会える状態にしとく。それじゃ――」
氷峰が椅子から立ち上がる。すると――、
「お前の話はあれで終わりか?」
蔀は足を止めるように言葉を紡ぐ。目を逸らしていた氷峰が――、
「ん? ああ一応話せるだけ話したし、お前にしかわからないこともあっただろうし。あと――」
蔀の顔を三度見て、微笑んだ。
「……?」
「自殺止めてくれてありがとな……。八束にもそう言っといてくれ」
氷峰は一ミリとも表情を変えなかった蔀を見るとまた微笑んだ。蔀は「俺の顔に何かついているのか」と微笑んでいた氷峰を見て、怪訝そうに話しかけた。会って話したいタイミングがたまたま同じだったことも、氷峰の中では安心感に繋がった。蔀と話しているうちに心の中で溜まっていた悩みが溶け始めていた。
「……ああ」
――ミネが俺に笑顔を見せたのは何年ぶりだろうか。
中学時代に一緒に帰った頃も、彼は無表情のままだったのに。
ただ、親友としていつも傍らに蔀はいた。いるだけだったのに。
本物の彼の笑顔を見たのは久しぶりだった。
――近いうちに、速水に話しておかなきゃいけないな……。
――家族か……。
―――夜・氷峰宅。
蔀と会って相談事をしたあと、家に着くと亜結樹が「おかえり」と言って玄関前まで来てくれた。
氷峰は亜結樹の返事がいつもより明るい気がして、目をきょとんとさせた。
「どうした?」
亜結樹が家に帰らなかったことを怒る理由はない。自分も家に帰らず蔀に連絡を入れて、夜遅くまで一人で酒を呑んでいたからだ。昨夜は亜結樹のいない部屋で、蔀から受け取った過去の書類を眺めていた。それで今朝、蔀からの相談事も受け入れた。亜結樹は素直に話しだした。氷峰が蔀の家に行ってる間のことを。
「今朝、海鳴に朝ごはん振舞ってもらったり、一緒にゲームしたりして過ごしたの!」
「そうか……」
「あ……昨日帰らなかったこと、言わなくてごめんなさい」
「いや、謝らないでくれ。俺も今朝は……」
蔀に会ったことを今話すべきだろうか。言いかけた口が止まった。氷峰はそのままリビングへ向かい、亜結樹の側を素通りした。
「今朝は?」
「……晩御飯、チャーハンでいいか?」
「……うん」
――ミネ、なにか考え事してるみたいだな……。
――いつもなら、なんて声掛けてたっけ。こういうとき……。
氷峰は台所に立つと手際よく具材を並べて、それを適当な大きさに切り始めた。フライパンを回す手がいつもより重く感じる。頭の中では蔀からの相談事。速水紫苑という女性に会わなければならない話を思い返していた。
――あいつ……俺の話理解した上で物言ってんのか?
――俺を孤独にしたくないとか、お前が言えた義理かよ……。
――まぁ、でも新たな提案だし……。しばらくは亜結樹に黙っておくか。
「チャーハンできたぞ」
「いただきます!」
亜結樹は軽く両手を合わせたあと、チャーハンを一口食べた。
――あれ……なんかいつも食べてるチャーハンより味が濃い気がする……。
氷峰も亜結樹に続けて、自分の作ったチャーハンを食べた。
「なんかしょっぱいな……」
「ミネ、なんか考え事してたでしょ? 料理しながら」
「……はは」
亜結樹にそう言われて苦笑いをした。彼も感情が顔に出やすい人だった。
蔀に悩みを話して少しは気持ちの整理ができたと思ったら、今夜のチャーハンの味付けは失敗に終わった。なぜなら蔀がまた悩みのタネを持ってきたからだ。
「なぁ、亜結樹」
「……何?」
黙々と食べ進めてる亜結樹に話しかける。
「俺のこと、今でも好きか?」
「え……。うん……好きだよ」
亜結樹は返事をするのに少しだけ間が空いた。氷峰の唐突な質問が、一瞬の隙を突いてくる。
脳裏でその言葉を聞いた瞬間、校門前での海鳴とのキスを思い出してしまった。夜明け前で薄暗くて海鳴の表情は捉えづらかったけど、ほんの一瞬唇が触れた感触があったのを覚えている。あのとき海鳴は泣いていたような気がした。たしかに彼は泣いていた。氷峰に海鳴とキスをしたことを話したら、彼はきっと怒らずに自分のそばを離れるに違いない。亜結樹はぼんやりと頭に浮かんでいたことを話す。
「じゃあミネは、あたしのこと好きなんだよね?」
亜結樹の言ったその好きという意味について氷峰はすぐ返事をした。
「ああ、好きだよ。ずっと一緒にいたい」
「あたしじゃなくて、俺のことも、好きだよね?」
「好き以上になんて答えればいい……」
「それは……」
亜結樹は迷っていた。自分の性について悩んでいたことを改めて話し出した。人称を変えて話すのはもうそろそろやめたい。そう思い始めたのも、海鳴のおかげかもしれない。亜結樹は何も言わずにそのまま食べ終わった食器を片付けに行く。台所の水を流す音だけが響いて、氷峰の顔を直視できずにいた。亜結樹は氷峰がそれ以上の言葉を言えないのをわかっているようだった。
――あたしの心はどっちを求めているんだろう……。
――……ただ、愛してくれればいいだけなのに。
海鳴に言われた言葉を思い出す。海鳴が亜結樹に対して思い描いたこと。
『母親の愛』というものが、自分にはあるということを。
その感情を氷峰にしてやらなければいけないんじゃないかって考えたら、どうやって彼を愛せばいいのだろう。
「これも頼む」
「……」
亜結樹は食器を無意識に無言で受け取った。氷峰は台所に立つ亜結樹の姿を見て、なにも思わなかったわけではない。亜結樹を自分の家族の一員として受け入れればいいのだろうか、と。
――俺と速水が会ったら、そのあと亜結樹はどうなる?
――結局亜結樹が俺とどうなりたいかじゃないんだな……。
蔀が『クローンとも家族になれればいい』と話してくれた考えが、今はまだ半分ほどしか理解できずにいた。
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