第57話 【それが意味するもの】

 ――明け方・柊蔀宅


 スマートフォンのバイブレーションがベッド脇の机の上で鳴り響いていた。いつも設定してある目覚ましのアラームよりも早かった。

 昨夜海鳴と八束の帰りを見送ったあと、その足で帰宅の途に着いたのは深夜過ぎだ。蔀は眠気に苛まれつつ受話器の通知をタップする。相手は陵だとわかっていた。電話がかかってくる理由も明確だった。


「はい……」

 ――『もしもし? お前なんで俺の私物持って帰っちゃうんだよ。返してくれる? それとても大事な物なんだよ』

「私物……ああ、すみません……」


 なぜか枕元には陵のナイフも置いてある。これを見て色々と思い耽るのをやめられず、眠る直前まで手放せなかった。このナイフに込められた意味を――八束には伝わらなかった陵の本性とやらを暴きたかった。

 そんなことより今日は休日のはず。組織に所属する人間だって人なのだから休暇は必要だ。それなのに陵はこんな朝早くから電話を蔀にかけてきた。よほど大事な物なのだろう。


 ――『今から施設に向かってくれる? そのナイフ会長室で受け取るから』

「今からですか!? ちょっ――」

 ――『俺は待たないよ? 訊きたいことならそこでちゃんと話聞くから。それじゃ頼むよ』


 その一声で潔く電話を一方的に切られてしまった。なにも言わずに事は進んでいく。

 とりあえず、あのナイフを持って陵に会いに行けばいいということだ。ここで陵に反抗したって組織の一員である以上彼には逆らえない。今は素直に彼の言葉に従うべきだ。

 蔀は朝食を食べる時間を惜しんで、すぐさま施設へ向かった。


 ***


 車を施設の駐車場に停めて、施設の最上階にある会長室に辿り着く。

 スーツ姿の陵はソファに腰掛けて腕組みをしてじっとしていた。蔀が入ってきたにも関わらず、伯父である司秋のように目を瞑っているをしている。ふたりのあいだにはただならぬ空気が立ち込めていた。蔀のナイフをただ素直に渡したくないという思いが直感で伝わっていて、陵が静かに目を開けて一呼吸したところで目が合った。


「今度はそのナイフが誰に向けられるのか、楽しみにしておくといい」

「まだ懲りないんですか……」


 蔀は言いたい言葉を整理しながらスーツの胸ポケットから例のサバイバルナイフを取り出す。陵に渡す前にそのナイフをしばし見つめた。


 ――今度は俺の番……なのか?


 陵は返せと言わんばかりに手を差し出す。蔀は仕方なくナイフを返した。


「君はこのナイフを受け取ったとき、なにを思ったの?」


 ナイフを受け取った陵は、折りたたんであった刃先を出したりしまったりを繰り返しながら蔀に尋ねる。


「……前にインタビューであなたはクローンには愛が必要だと仰ってました……。ですが、そのナイフが意味するのは愛だけじゃないと思いました。俺は人間に対する愛憎だと思いました」

「……その言葉、君が語るには十年早いよ」


 ナイフの持ち手には陵の名前ともう一人の名前が刻まれていた。文字はインクが掠れていて微かに名前の部分だけ判別できた。蔀はナイフの持ち主の名前だとしか思わなかった。蔀の知らない彼女の名前。翠白慈みすしろちか――陵の昔の最愛の人の名前が刻まれていた。

 愛に憎しみがあると人は昔からよく言っていたものだが、もしクローンが人間の言葉を信じずにそのナイフのように反抗してきたとしたら組織はどう対処するのだろう。人間同士でさえ従わずに争うのに。


 蔀はまだなにか言いたそうな素振りを見せる。陵が今の言葉にもっと二の句が告げなくなるような言葉を被せてくるかと思いきや、一言だけで収まってしまった。いつもの流暢な口調の陵ではなかった。ゆっくり言葉を畳み掛けてくるような感じだ。

 質問を投げかけるチャンスだというのに、躊躇してしまう。

 愛憎には様々な感情が混沌としているというのに、その答えがたった一言で片付けられてしまうのは惜しいと思うのに、今の陵に対して争う気力は持ち合わせていなかった。蔀は組織を立ち上げた一人――氷峰駈瑠のことを尋ねようとして諦めてしまった。


「あの……」

「ん? なに?」

「いえ……こういうとき、いつもの陵さんならそのナイフの意味について色々と語るのではないかと思って……」

「あははは、そうだね。でももう愛憎のその言葉一つで答えは出たんじゃない? それとも……」


 陵はナイフをポケットにしまいながら――、


「キュプラモニウム解体の足音が刻まれているかな? このナイフに……」


 蔀の顔を見るなり不適な笑みを浮かべた。


 陵の背中を刺す逆光のおかげで顔がはっきりと直視できなかった。彼の表情は暗がりを増していて、より一層不気味だった。


「そう……ですか。そうかもしれませんね……」


 二度とそのナイフの意味を聞くなと陵に堰き止められているようで、もうこれ以上の言葉は言い返せなかった。

 氷峰にあのナイフが渡ったときも、八束に渡ったときも、陵はそれに愛憎を込めていた。そう単純に考えればそういう事実なのだが、蔀はそれだけじゃないことを理解した。「組織を解散させる」と海鳴が伝えたときのように、陵は従順なクローンが自らの手で組織の終わりを告げるのをまるで予告しているのだろう。蔀はあのナイフに込められた意味を考えながら会長室をあとにした。


 氷峰や八束が自殺に追い込まれたことを振り返ってみる。そこには亜結樹や海鳴の存在が確かにあった。それでも過去に苛まれているふたりが亜結樹と海鳴を置いて深い底に潜り込んでいった。ふたたび顔を水面に浮かべる頃には、亜結樹や海鳴を引き寄せ合うことなんてあるのだろうか。ましてや自分は蚊帳の外から四人の関係性を観察しているだけで輪に入れていないのだから。亜結樹のことを――海鳴のことを組織の一員として見届けなければならない使命感が付き纏っている。


 外に出るとちょうど夏の入道雲が湧き上がり、昼過ぎには俄雨が降り出しそうな勢いだった。


 ――速水はミネとちゃんと向き合ってくれるだろうか……。


 車を走らせながら、ふと脳裏に彼女の姿が浮かんだ。蔀は速水に期待していた。彼女は亜結樹の存在をどちらの性としても認めている。それが蔀にとっては心強かった。これからのこと――家族になるということ。その意図をどれだけ氷峰と亜結樹に理解してもらえるかが鍵となっていた。

 これから父親に会う準備を進めなければならない。せっかくの休暇だというのに心は休まらなかった。弟の八束に自分の家にくるように約束しなければならない。八束は海鳴が一緒ならひとまず安心だろう。


 ――海鳴に親父のことを話しておく必要はないか……。


 夏のだる暑さに息を凝らしながら玄関の鍵を開けて部屋に入る。ほてった体を冷やすべく、リビングの冷房をすぐつけた。暑苦しいスーツの上着を脱ぎ捨てて、ワイシャツ一枚のままソファに横になった。ほんの少しのあいだでもいい。蔀は休みたかった。


 ――夕方までに起きられればいいか……。


 蔀はそのまま深い眠りについた。

 寝ているあいだ、自分がまだ幼い頃の記憶と夢とが混じり合った。二卵性の双子の弟である父親と伯父が、仲悪そうにしている夢を蔀は見ていた。

 司秋の弟である枝燕の手紙の内容を振り返っていたり、険悪な環境を想わせる薄暗い部屋の中での対峙。枝燕の顔も怖かったが、それ以上に伯父である司秋の顔が不気味に思えた。司秋の姿は人であるか物であるか――なにかと心中したような顔つきをしていた。これは悪夢ではない。ただ、それはとても幼い頃の自分の記憶にとって、とてつもなく辛い夢であった。

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