第56話 【夏の儚い空と憂い -3-】

 ―――同時刻・柊八束宅。


 氷峰は亜結樹を連れて八束の住んでいるアパートに訪れていた。

 玄関の鍵が開けっぱなしで、しかも明かりも点いたまま。八束と海鳴が揃って不在。不審に思うどころか彼は亜結樹の心配性を心配していた。氷峰は八束の家に上がり込んだ。


「勝手に入っていいの?」


 亜結樹がおどおどしながら言う。彼に手招きされて亜結樹も靴を脱いで上がった。


「昔だったら無視すべきところだけど、海鳴もいないんじゃお前もこのまま帰ってくるの待ちてぇだろ」

「そう……だけど……」


 亜結樹が期待していることを彼は強調した。学校で会えていない分だけ寂しさは募っていく。しかし亜結樹はその寂しさは氷峰にとって邪魔なのではと考えていた。


 ――海鳴がいない理由を心配して、あたしのことを心配してる。

 ――ただそばにいるだけで安心させたいのかもしれないけどそれは――。

 ――それはあたしにとって苦しいよ、ミネ。


 食卓の上には空のグラスが一つ倒れた状態で置いてあった。氷峰は違和感を感じた。不自然な空間を見渡してから亜結樹に一言伝えた。


「あいつ……海鳴になんかやらかしたのかもしれねぇな」

「やらかしたって……なにを!? 変なこと言わないでよ! ミネはすぐ危ない妄想をするんだから」

「ごめん……っていうかグラスが倒れてんの見てたらさ……八束がきっといたずらでもしたのかなって」


 倒れていたグラスを起こす。グラスは酒臭かった。


「海鳴は水以外飲めない……グラスは倒れていた……まさか八束さんがそんなことするわけ――っ!?」


 亜結樹は目を見開いて氷峰に詰め寄る。海鳴と八束とのあいだになにがあったのか知りたかった。ふたりの関係が崩れるきっかけになったのがもし自分だとしたら、と亜結樹は思いを巡らせる。だが目の前にいる氷峰の前では口にできなかった。


「俺がいたら海鳴と一緒にいたくねぇか?」

「それは……。ねぇミネはさ、海鳴のこと嫌なの?」

「んー……どうだろうなぁ。今更だけど俺はあいつのこと好きじゃねぇけど、別に嫌ってわけでもねぇ。ただ……」

「ただ?」


 亜結樹は息を呑んだ。好きでも嫌いでもないならなんだろう。氷峰の次にくる言葉は揺るぎないものだった。


「いけ好かねぇのに……ちょっと哀しそうな目ぇしてるなぁって思ってる」

「哀しい目……か。ミネは鋭いね。もしかしてあたしが海鳴のこと好きなの気づいてたの?」

「好きって……そういう好き? 恋愛目的の?」

「うん……」

「別に気づいてたとしてお前は俺のパートナーなんだし、離れたくても離れられねぇよ」


 氷峰の毒気のある言葉が煩わしさを彷彿とさせる。亜結樹はわざとらしく頬を膨らまして黙り込んだ。重たい深刻な空気を少しでも明るくしたかった。


 ――離れたくても離れられないなんて、そんな関係でいいと思ってるの?


 心の中ではそう思いつつも、顔には出さなかった。

 氷峰は亜結樹の顔を見て思わず笑ってしまう。ふと、脳裏で亜結樹と海鳴がふたり並んで微笑んでいる姿が浮かんだ。


「海鳴は……八束なんかと一緒にいるよりお前と一緒にいる方がなんか幸せそうだよ」


 氷峰はそう一言呟いた。


 ***


 氷峰はグラスを台所まで運んだ。食卓の椅子に座り込んでいた亜結樹はじっと海鳴がくるのを待っていた。

 ふたりは自分たちの家に帰らず、八束の家に留まることにした。亜結樹が海鳴が帰ってくるまで帰らないと強く懇願したからである。氷峰が八束の顔を見るのも仕方のないことである。

 しばらく経って、八束と海鳴の声が遠くで聞こえた。


「蔀さんのお陰で施設から送迎してもらえたのなんて三年ぶりだよ、俺」

「三年前か……お前がこの家にやってきたとき以来ってか」

「そーだね……。あれ? 鍵開いてるし、八束忘れたの? 靴があんだけど……って――っ!?」


 氷峰と亜結樹が玄関を覗き込むように廊下に顔を出す。亜結樹は海鳴と目が合った途端――、


「海鳴!!」


 海鳴に飛びついた。


「――あ、亜結樹、なんで!?」


 隣にいる八束を置いて亜結樹は海鳴を包み込むように抱き締めた。


「おい、ミネ、なに勝手に家に上がり込んでんだよ! 知り合いじゃなかったら警察沙汰だぞ」

「いやぁ、悪ぃな。うちの子が心配性なもんで」

「あ? 保護者面すんな」


 八束は玄関に上がるや否や氷峰の胸ぐらを掴もうとして、一旦立ち止まる。頭の中で思っただけで行動には移さなかった。リビングに四人揃うと海鳴が八束に文句を言った。


「ていうか八束、家の鍵閉め忘れんなよな……俺が救急搬送されるときなんで忘れんだよ」

「わかったっての。いちいちしつけーな! 気をつけるよ!」


 四人が揃うのは一年前の夏、バイクで海に出かけたとき以来だった。

 氷峰は軽くため息をつきながら困った顔つきで八束を見る。


「海鳴の身になにがあったか詳しくは訊かねぇけど、お前気をつけろよ。海鳴を心配してんのはお前だけじゃねぇからな」


 そう言って亜結樹の目を見て話す。


「…………」


 八束は黙ったままこくりと頷いた。氷峰に指図される筋合いはないと感じていたことがブーメランのように帰ってくる。ただ海鳴への興味が行き過ぎただけのことだった。そう今は思いたかった。

 亜結樹と海鳴は前を向いて学校へ思いを馳せて楽しげに話しているというのに、ふたりとは対照的に氷峰と八束は暗闇を彷徨っていた。

 氷峰は海鳴と会えて喜びを露わにした亜結樹に声をかけた。


「亜結樹、夜も遅いしそろそろ帰ろう……」

「えー、海鳴ともっと話すこといっぱいあるのにー」


 亜結樹は駄々をこねる素振りを見せながら氷峰に言い返すが、甘くはなかった。海鳴は氷峰の鬱々とした顔をちらりと見るなり、亜結樹に優しく声をかけた。


「俺またちゃんと学校行くから、学校でまた続き話そ? な?」

「……うん。約束ね」


 亜結樹は差し出された海鳴の小指の意味に応えるように指切りをした。

 氷峰はふたりのやりとりを見てなにも思わなかったわけではない。氷峰は亜結樹と海鳴の姿に昔の自分と允桧とを重ねて見ていた。氷峰は亜結樹が自分の傍から離れていく気がして、少し寂しさを感じていた。


「じゃー、またな」


 氷峰は平坦な声で言うと亜結樹を連て八束の家を出た。

 夜道を歩きながら氷峰は亜結樹に話しかける。


「なぁ亜結樹。明日休みだし、ちょっと大事な話があるんだ」

「大事な話?」

「俺と亜結樹にとっての、な……」

「…………」


 氷峰は不安そうにそっと亜結樹の手を握った。亜結樹は一瞬どきりとしながらも怪訝そうに彼の手を握り返した。真夏の夜のむせかえるような暑さに不安と期待とが混ざり合っていた。

 家に着くとひんやりとした冷たい空気がふたりを包み込んで、これからのこと――大事な話をするための心の準備が整うような気がする。

 氷峰は相変わらず自宅のベランダで煙草を吸っていた。

 彼の背中を見て亜結樹は彼のいう大事な話がなんのことなのかあえて想像するのをやめた。

 明日、氷峰は亜結樹に初めて速水紫苑の存在を話すと決めた。

 互いに恋焦がれる気持ちを煙に巻いて。

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