第11話 【研究 -2-】
――五月下旬。梅雨入りの時期がもう直き来る。
霧雨が降る中、亜結樹はいつも通り男子の制服を着て登校した。
彼女は傘を差さなかった。教室に入ると、今日も立花の姿はなかった。
亜結樹は立花にはまだ会えていない。立花が学校に来なくなってから、二週間が過ぎた。亜結樹はいつも通り、海鳴に挨拶をする。
海鳴は空返事をし、彼女の目をぼーっと眺める。
朝のせいだと亜結樹は思っていたが、海鳴は、ここ数日ずっと元気がない。
亜結樹が立花を気にするように、海鳴も立花を気にする亜結樹のことばかりを頭の中で考え込んでいた。
「海鳴、そんな顏であたしを見つめないでよ」
「どんな顏?」
そう言った海鳴の表情は、機嫌を損ねた陵と瓜二つだ。陵の様に、目の下に隈があるわけではないが、無愛想な顔つきをしていた。心ここにあらずといった所だ。
「……まぁいいや」
亜結樹は軽い溜め息をつくと、自分の席に着く。
「何が?」
「ん? 海鳴のこと、もう放っておく」
「はは……何だよそれ。あー俺もうだめかも」
海鳴は頬を机に付けながら嘆く。わざとらしく、亜結樹とは反対側の窓に向かって声を発する。海鳴の態度を見た亜結樹はむくれる。そのまま彼女は黙って、一限目の授業の教科書を鞄から取り始める。机に頬を付けたままの海鳴が、窓の外を眺めながら――
「これから雨……降んのかな……」
と、呟いた。
「?」
亜結樹も横向きの海鳴を通して、窓の外を見る。
「あ……傘、持ってきてないや」
亜結樹は呟いた。その言葉を聞いた海鳴は、起き上がり亜結樹の目を見て――
「傘貸す」
と、勢いよくぴしゃりと言った。
「え……?」
「お前、俺の恋人だろ? 俺に甘えろよ」
「甘えろよ……って友達以上かもしれないけど」
「恋人未満? ありがちな台詞だよねそれ。まだそんな考え持ってる奴いるんだ。俺は認めないね」
海鳴は亜結樹を見下しているようだった。海鳴のその本性に亜結樹はまだ気づいていない。
「……わかったよ。借りるね。ありがと」
亜結樹は優しい声で、海鳴の目を見て言った。
亜結樹は海鳴に『恋人同士』と口では言っているが、彼のことを好きになる理由を何処か探している。彼のことを、もっと知らなければならないとも思っていた。今の海鳴は、亜結樹のことを一方的に『恋人』と繕っていた。それが本心であったとして、亜結樹と海鳴の仲を快く思わない人物が、お互い存在している――傍らに存在している事を、海鳴は亜結樹以上に理解していた。
―――放課後。
雨が勢いよく降り始めた。
下駄箱付近で海鳴は約束したように亜結樹に傘を渡す。そして――
「じゃ……」
海鳴は手を挙げ亜結樹に声をかけると、そのまま急いで靴を履き始める。
「え? 一緒に帰るんじゃないの?」
「は? 恥ずかしいじゃん! 相合い傘なんて」
靴を履いた海鳴は、亜結樹のきょとんとした顔を見て耳を赤くし、亜結樹のあどけない表情に照れを見せた。
「そうなの? だって恋び――」
海鳴は亜結樹の言いかけた言葉を聞かないように、逃げるように雨の中を走り去っていった。
「あ……」
――よくわからないな……。
――海鳴……本当はあたしと一緒にいたいんじゃないのかな。
――あ……でも、やっぱりダメだよね。付き合ってる人がいるんだもんね。
亜結樹は海鳴から借りた傘を差し、帰路に就く。
―――同時刻・氷峰宅。
インターホンの音がした。
氷峰がドアを開けると、濡れた傘を片手に持った蔀が現れた。
「こんな雨の日にわざわざ悪ぃな……」
「用が済んだらすぐ帰る」
蔀はそう言うと、玄関に入り傘立てに傘を入れて家に上がる。
「まぁゆっくりしていけよ。亜結樹にはお前と会うこと話してねぇけどさ」
「別に亜結樹に話す必要はない……」
二人はリビングに向かい、食卓用のテーブルに向かい合わせになって座る。
「書くもんは書いたけど……」
氷峰はそう言いながら、蔀に渡す書類を食卓に広げた。続けて――
「ていうか郵送できねぇの?」
一言愚痴を零した。
「手渡しが原則だ。細かいことはいい……」
蔀は書類を確認しながら呟いた。
「……なぁ」
「何だ……」
「俺……一生、亜結樹の面倒見なきゃなんねぇの?」
「何だ今更……。一緒に過ごすのが嫌なのか?」
「嫌とかじゃねぇけどさ……アイツ、お前が思ってる以上に性に対して悩んでんぞ」
「悩んでるから何だ。お前が相談相手になってあげればいいじゃないか。彼女は少しずつだが成長している」
「亜結樹の事、なんか他にないのかよ」
「他にないのか……って。精神面はお前が一番よく知ってるはずだろ。一番近くにいるんだから」
「お前だって少しの間、一緒にいたんだろ?」
氷峰にそう言われた蔀は軽く溜め息をつき、体勢を立て直す。
「亜結樹は海鳴とよく一緒にいるそうだな……」
「あぁそうみてぇだな」
氷峰はあっさりと、返事をした。
「何か他にないのかって聞くから答えてやったのに何だ……。驚かないのか」
「ん? ああ、だってアイツ一度家に来たし……ちらっと顔見たよ」
氷峰はそう言いながら、両手を後ろ首で組む。
「そうなのか。あと、海鳴は亜結樹に惹かれているらしい……。確証はないが」
「……」
蔀のその言葉を聞いた氷峰は、蔀を睨んだ。
――惹かれてる……か。言い方が気にいらねぇ。
「惹かれるというのは好意を持っていてそれが恋かどうかはわからない」
「は? 何言ってんだよ……好意ってのはなぁ――……」
――恋なんだよ、それ。
「……」
氷峰の文句を蔀は無表情のまま、確かに受け止めた。
彼には氷峰の言いたい事が理解できた。
「あのさ……俺、アイツの体の事考えたら、男子と一緒にいる方が安心すんだよな……けど――」
蔀は氷峰の言葉を塞ぐように――
「今後は亜結樹の事を男性だと思って接しろ」
「は? それどういう意味で言ってんの?」
「そのままの意味だ」
「……おい。……俺がどういう人間か知って言ってんだろうな?」
氷峰は、若干苛立ちを見せていた。だが、唯一の親友を罵倒するほどの感情は、持ち合せていなかった。 蔀は書類の項目を見て、氷峰がまだ同性愛者である方向性が強いと考えた。そして、亜結樹については――。
――恋愛感情が芽生えていない。そう考えた。
「お前……海鳴に嫉妬してんのか?」
「いや……何だよそれ。そうかもしれねぇけど――」
氷峰は苦笑いしながら返事をし、続けて――
「だったら“カイメイ”の担当の奴が“カイメイ”に『亜結樹には近づくな』とか言って
あんのかよ?」
と、告げた。
「俺に聞くな……。それは俺にはわからない。とにかくお前は亜結樹の事だけ考えればいい……」
蔀は書類を鞄にしまうと用意されていた水を一口飲んだ。
「……好きになるのに理由は要らねぇ……か」
氷峰は突如呟いた。
「……?」
「亜結樹は理由を欲しがってんだよ」
氷峰はそう一言付け加え、水を一口飲んだ。
「そうか……」
蔀は相槌を打つだけで、それ以上、氷峰のその言葉に触れる事はなかった。今、その言葉に対して何か疑問を投げかけたとしても、氷峰はちゃんと答えてくれないと思ったからだ。
「……お前に話しておきたいことが二つある」
「何?」
「八束と会う気はないか?」
「何だよ急に……。別に……今はねぇよ」
「そうか」
氷峰は八束が海鳴と同居していることを知らない。蔀はそのことを氷峰に話すタイミングを見つけられないでいた。
「あともうひとつ……亜結樹と海鳴の関係性についてだ。仮定の話だが――」
蔀は先日、速水から聞かされたことを氷峰に語りだした。
―――数日前・研究室。
二人はデスクの椅子に座り込んで、向かい合わせになって話し込んでいた。
「陵さんが考えている事が全て正しいとは思いたくないが……それが想定内だとしたら、あの人は海鳴を何の為に作り出したんだ……」
蔀は速水から、陵が彼女に語った事をじっくり聞いた。そして疑問を発する。
「……陵さんは、自分の研究の話し相手が欲しかったんでしょう……恐らく」
「今は、そう考えるのが正しいか。『海鳴が亜結樹に惹かれる』という発想はなかったな……」
「柊さんでも、想像つかない事ってあるんですね」
「まぁ、俺は亜結樹のことしか考えてこなかったからな」
「どんな事考えて、彼女を育てていたんですか?」
速水は両膝の上で拳を作ると、蔀に真剣な顔をして問いかける。
「そうだな……。一言で言えば、無欲に育てたつもりだった」
「無欲……」
「亜結樹が生まれた時、陵さんに『どちらかの性に転換したら、研究材料が無くなる』と、脅されたようなものだから……俺は亜結樹をありのままの姿で育てたつもりだったが、俺の性格を押し付けていたかもしれない」
蔀は腕を組んで顎に手を添えながらそう語る。
「柊さんの性格って……」
速水は人差し指を立てて上を見上げる。
――仏頂面だけどココア飲んでる大らかな人?そのギャップしか知らないけど。
――さっきの話聞いたら……蔀さんは――。
「マイノリティの話か……君に話した事はないな。いずれわかるよ」
蔀はそう言って椅子から立ち上がり、白衣を脱ぐ。そして、それを畳んで鞄に入れる。
――亜結樹をアセクシュアルにしたいという気持ちは変わらない。それに――。
――俺は、誰に対しても恋愛感情や性愛感情を抱かない……俺は――。
――昔、それに気づいたのは允桧だけだった。
――彼女は、気づくのだろうか。
「あ! 柊さんはどちらの性にも属さないという考えの持ち主ですね?」
「――!」
「亜結樹を無欲に育てたつもりでも、彼女は性に対してまだ浮遊している状態ということは、つまり柊さんも性に対して白黒はっきりしていない。違いますか?」
「はは……。そういう考えもあるかもしれないな。でも俺は自分の事をはっきり男だと思っている。その考えは否定するよ」
蔀は苦笑しながら言い放つ。
速水の真剣に考える様子を見ていたが、そろそろ帰ろうと思い、身支度を始めた。
「そう……ですか」
速水は一言嘆いた後、椅子から立ち上がってクリアファイルの中身を確認すると、それを鞄の中に入れた。ふと鞄の中を見た速水は思い出したかのように――
「あ、借りていた本お返しします!」
声を上げた。
「ん? ああ、わかった」
蔀はそう言いながら速水のデスクに近づく。速水は振り返り、蔀に借りていた本を渡す。
「ありがとうございました」
速水は蔀に微笑んでお礼を言った。
「ああ……」
「今の世の中って同性婚が認められてるんですよねぇ……。それなのにクローンとの結婚は認められてないんですよね……」
――悲しい現実……。再生したら二度目は地獄の様に思えるわ。
――不慮の事故で亡くなってしまった者なら再生は希望になるかもしれない。
――だけど、自殺した者が生き返ってまで成し遂げたい事って何かしら。
――生まれ変わるって意味が今では全く意味の違う、恐ろしいものに変わってしまった。
――精神だけではなく、肉体そのものが蘇る――つまり生まれ変わるということ。
――好きな人と居られたとしても、ただ居るだけなんて虚しい。
――それに決して、その相手とは家族にはなれない。
――そもそも生前の記憶まで蘇らせる事はできないのだから、受け入れる同居人はどんな気持ちで、クローンと接しているのか……。クローンの存在価値は、人間と同等に扱うのが組織の理念であり、そこに私は共感した。けどクローンと人間同士の結婚が認められていないなんて……。キュプラモニウムも、もう少し国の法に訴えかければ良かったのに……。再生って夢の様に思えたけど、現実は違う。生命倫理を根本から捻り曲げた組織の向かう先は……――。
――そして、クローンと人間には深い溝がある。差が生まれてくる。
――腹部に抱えた傷跡が存在する見た目としての差――再生された己の新たな人生を、悦喜する――或は失望する様を、人間に曝け出す精神的なものとしての差。
「結婚か……。セクシャルマイノリティの考えはその昔から変わらない…。クローンとの共存の課題は目に見えない部分があるな……」
――畏怖クローンという存在が出てきてしまったのは亜結樹で二度目だ。しかも組織はこれを失敗と認めず、研究課題に仕立て上げた。俺は允桧の事を畏怖クローンと名付けた陵さんの考えは正しいと思った。人間の性は男性と女性のどちらかしかない。だからこそ畏怖という言葉を用いて超越した性の存在の呼称を編み出したのではないだろうか。しかし、畏怖クローンを自分で作り出しておきながら軽蔑する理由は何だろうか…。允桧と亜結樹の肉体には何か、因果関係があるのかもしれないな。
「今、共存とおっしゃいましたが、そもそも人間と、再生された人間――つまりクローンと呼ばれる人間を区別している時点で、結局社会は、お互い不平等な生き方を擦り付け合っていますよ。人種差別とまではいかないかもしれませんが、同じ様に感じる人はいると思います」
「そうだな……お前は知っているのか? 組織が発足し始めた頃の話だが……言い方は悪いが――」
蔀が重たい口を開いてある事を話そうとした時、速水の言葉が覆い被さった。
「知ってますよ。言葉にしたくないなら言わない方が身の為です。組織の人間はクローンをそんな風に見てはいけません。あくまで人間を再生させ、クローンとなった人々に新たな人生を歩ませるのが私たちの役目であり、それ以上のクローンと人間との悶着には手を差し伸べてはいけません……」
「俺より冷静な組織人間だな……」
――荒れ狂った大人共が不正にクローンを組織から引き取り、クローンの若者を性欲を満たす為だけに利用していた事件がその昔あった。人間を対象にした性犯罪の刑罰が重くなったからなのか、クローンに対してなら何をしても良い――許されると思っている人間もいるという事実。俺が高校生の時にも似たような事をした奴らがいて
――允桧や俺はその被害者だったわけだが……、俺の伯父が組織の会長である事を加害者に知られたり、允桧という畏怖クローンの存在を世間に知られては不味いという理由で、陵莞爾というあの男が密かに事件を揉み消した。
二人は意見を述べ合いながら、身支度を済ませて研究室を後にする。
長い廊下を歩きながら、平淡な会話をしていた。
「柊さんは、クローンとは結婚したいと思わないんですか?」
「思わない。そもそも恋愛というものがわからない」
――いや、俺は『愛し方』がわからない。
「そうなんですか……。柊さんの性格少し見えてきたかもしれません」
「……本当か?」
蔀は意地悪そうに少し表情を歪ませた。普段無表情な彼が初めて、速水に対して内情を
「さぁ……どうでしょう」
速水は無表情のまま、しらばくれた。
「それじゃ、ここで」
「はい。お疲れ様でした」
二人は施設の正門前で、別れた。
―――現在・氷峰宅。
蔀は氷峰に、数日前に速水に聞かされた事を述べた。聞かされた氷峰は――
「お互いの良い所を打ち消し合う関係? あいつらが?」
半信半疑といった所だ。
「俺も想像つかなかったんだが、どちらかというと海鳴が亜結樹に歩み寄っていると仮定しているらしい」
「お前、カイメイの事よく知らねぇんだろ?」
「そうだな……。アイツは性格が陵と同じで、俺と相性が悪い……という事だけはよくわかった」
蔀は軽い溜め息をつきながら、そう言った。
「ふーん。俺、“ミササギ”って人のこと知らねぇから、“カイメイ”の事もよくわかんねぇわ」
氷峰は、頬杖を突きながら軽く目を閉じて言った。
「とにかく、書類の項目を見た限りだと、亜結樹はお前に対してまだ、恋愛感情を持っていない」
「そうなの? ……んなわけねぇよ」
「だから、亜結樹を男だと思って接してみろと言っているんだ」
「だから何でそうなんだよ! ……アイツ、声は女だし胸だってあるし……」
氷峰は困惑していた。机上で片方の拳を固めていた。
「下半身は?」
「……――ッ!」
氷峰は、蔀のその言葉に頬を僅かに赤く染め始めた。
「お前、クローンと同居することは……亜結樹と初めて会った時に話しただろ?」
「……クローンはそういう関係を望んでいるって話か」
「キスはしたんだろ?」
蔀は淡々と氷峰を問い詰める。
「ああ。強引だったけど」
「ま、お前がまだ、男好きなのも女性不信なのも理解している。亜結樹に対して、それ以上の関係になるかどうかもお前次第だな」
「それ……まだわかんねぇっての」
氷峰は恥ずかしそうに、返事をする。
「亜結樹と一緒に過ごす事はお前の将来の為でもあるはずだ。だから亜結樹もお前といる事に、意義を求めているという事だ」
「将来って……ちょっと無理言い過ぎじゃね?」
「お前の父親なら何て言うだろうな……。亜結樹が陵さんの所や、組織の人間が熟知していない赤の他人の所へ渡るよりは、ましな話なんだと思う」
「ふーん……わかったよ。色々考えてみるわ。デートとかさ……」
「あと、亜結樹の学校生活に関して、俺は一切触れないからな。以上だ。それじゃ――」
蔀は椅子から立ち上がり、上着を着て廊下に出る。氷峰は慌てて後を追い――
「ま、待てよ!」
蔀を呼び止める。
「……」
「あのさ、カイメイが亜結樹に手ぇ出すって事は考えてねぇのかよ?」
氷峰は思っていた事を蔀に言い放つ。亜結樹の事を考えて気が焦った。
「仮にそれが起きたとしても、それは彼女自身で考えさせるんだ。お前が二人の間に手を出したら彼女が混乱するだけだろう」
蔀は即座にそう告げる。靴を履き、傘を傘立てから取り出すと、ドアを開けて氷峰の家を静かに出て行った。彼がいなくなった後、氷峰は首筋に手の平を宛てがい、眉間に皺を寄せながら溜め息をつく。溜め息をつきながら――
「やっぱ……カイメイって奴、気になんなぁ……」
一言そう呟いた。
――止まない雨はない。いつかは晴れる。でも雨は彼にとって喜びの象徴だ。
雨の中を走っていた海鳴は、亜結樹への想いで心が踊っていた。立ち止まって雨に打たれる。そして上を見上げ、目を細めた。彼は八束の紺色の傘を手放すことができたのだ。自分の為に亜結樹を――八束を利用した。海鳴は八束に対して、優越感を感じていた。彼は亜結樹を心から好いていることを素直に喜んでいた。
何の躊躇いもなく素直に傘を亜結樹に渡せた。
走り終えて家のドアに立つと、笑顔が消えた。
インターホンを鳴らさずにドアを開ける。彼の制服はびしょ濡れだった。
重たいブレザーにのし掛かってくるのは、八束の身勝手な愛情だ。
玄関に立ち止まり、八束が廊下に出てくるのを待った。
黒いタンクトップにグレーのジャージを着た八束が、ドアの音に気づいて廊下に顏を出した。
「お帰りー……――! お前……傘は?」
八束は、濡れた海鳴の姿を見て軽い声で言った。
「……貸した」
虚ろな瞳が八束を捉えた。
「誰に?」
八束は急に低い声で唸り、海鳴を睨む。
「……亜結樹」
「……!――」
八束はその言葉を聞いた途端、足音を立てながら、玄関に立ち尽くしていた海鳴に近づいて、海鳴の顏の真横に手を突いた。彼を覆い隠すような体勢になる。
「……許さねぇぞ?」
「ちょっと何……近づいたら服濡れるよ?」
海鳴は八束を見上げる。
「構わねぇ」
八束はそう言うと、無理矢理海鳴の顎をくいっと掴み上げ、彼の口を塞いだ。
「――ッ! ―――ン―……離……せ――!」
八束の腕が華奢な海鳴の体を押さえ付ける。
「……何で傘貸した?」
「理由が知りたいの? わかるだろ? 少しくらい考えたら?」
海鳴がそう言うと八束は黙って、海鳴を押さえつけていた腕を離し、リビングへと向かった。
「……」
「シャワー浴びてくる」
海鳴は靴を脱ぎ、更に濡れた靴下を脱いで浴室へ向かった。
八束はソファに座り込んで頭を抱えた。
――“アユキ”って奴が、どんな奴かは知らねぇ……。けど。
――間接的に俺の傘をそいつに渡すなんてなんか……。
――なんか胸くそ悪ぃ。
***
海鳴は風呂から上がるとタオルを首から下げてリビングに戻る。リビングには先ほどからずっと黙ってソファに座り込んでいる八束がいた。
「晩飯どうすんの?」
「……」
海鳴の言葉に返事はない。八束は立ち上がると海鳴の目の前に立ち止まり、彼を見下ろす。
「何?」
「……お前、アユキって奴に気ィあんだろ?」
「どうかな……向こうは友達以上恋人未満とか言ってたし、俺はその付き合い方に
「てめぇはどうだって聞いてんだよ」
八束は話をはぐらかす海鳴に苛立ちを見せる。
「だから……もし気があったってどうしようもないだろ?」
――そう。どうしようもないんだ。俺と八束が別れるなんて事、誰が許すと思う?
――俺がお前の所へ来た理由――お前が一人にならない為に俺はここへ来たんだ。
――俺はお前を一生懸命慰めるって……三年前、蔀さんと約束したんだ。
――それに陵さんは施設から俺を連れ出す時こう言ったんだよ――。
――性的な物にしか見られなくなる存在になること……それがクローンの役目だってね。
「どういう意味だよ」
そう言うと海鳴の腕を掴む。八束は心の中で――
――てめぇはアユキのこと好きなのかどうなんだよ! はっきり言えよ!
と叫んだ。
「離せよ! 今からセックスなんてしないよ? お互い嫌な気分でするもんじゃないだろ!」
八束は海鳴に制されて、掴んでいた腕を手放す。
「……だな……悪かった」
大人しく小さい声で嘆くと、リビングから出ていく。
「……」
海鳴は八束の少し猫背になった後ろ姿を見ながら、鼻息を少し漏らす。八束は海鳴が他人に気が向いたとして、無理矢理抱けばその気になるのを止めてくれるとでも思ったのだろうか。人を好きになるのはそんな単純なことじゃないと、海鳴はその時考えていた。だがその考えは海鳴以外当てはまらない。
八束自身は海鳴のことをシンプルに好いている。
海鳴は八束のその感情をどこか置き去りにして、今まで彼を抱き締めていた。
「俺なんか、まともな食事したことねぇのに……なに食うの我慢してんだよ」
冷蔵庫からガゼットパウチを取り出し、ガラスコップに水を一杯入れるとその両方を持って食卓の椅子に座る。彼なりの食事を済ませた。
八束は海鳴が食事をしている間もその後も、自分の部屋から出てくることはなかった。
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