その8

「痴女ってなんだよ」


 僕は呆然としてそんなことをつぶやいた。

 すると桜田門サクラがすっと立ち上がった。

 それから僕の肩に手を乗せてこう言った。


「痴女は、人間に化けて世界征服をもくろむ――未知の生物。それ以上のことは、我々公安もよく分からん。が、まずは礼を言う。ありがとう」


 僕は声が出ず、無言で大きくうなずいた。

 桜田門サクラは、かすかに笑ってうなずいた。

 それから彼女は急に、感情を押し殺したいつもの顔に戻った。

 そして言った。


「貴様は、国の最重要機密『エキサイター』の感染者だ。警視庁に連行する」

「えっ?」

「ちょっと待ってくださいよ」


 マリンさんが、あわててやってきた。

 桜田門サクラに向かって、噛みつくようにこう言った。


「エキサイターは海自のもの。それに彼と初めに接触したのは私。横取りしないでくださいっ」

「国内の騒乱は公安の管轄かんかつだ。自衛隊こそ邪魔をしないでほしい」

「これはイレギュラーな事態です。管轄とかバカなこと言わないで」

「そもそも国家機密を盗まれて、イレギュラーな事態を引き起こしたのはバカな海自だろう」

「なによっ」

「なあ、楠木キョウ。今言った通り、海自は国の最重要機密すら盗まれるマヌケぞろいだ。一緒にいると危険だぞ」


 桜田門サクラはそう言って僕を見た。

 マリンさんが即座に言った。


「キョウくん、ヨコスカは素敵な街ですよ。今度は私が街を案内しますね」

「ふんっ。またそうやって色仕掛けか」

「あら本心ですよ。公私混同、キョウくんとは楽しませてもらってます」

「楠木キョウ、この女は凄腕のスパイだ。ダマされるなよ」

「そんなこと言うけど、あなただってスパイですよね?」


 マリンさんは僕の腕にしがみついて、くすりと笑った。

 桜田門サクラの顔に激しい怒りが満ちてきた。

 マリンさんと桜田門サクラは僕を見て、同時に言った。


「キョウくん、またデートしましょう?」

「楠木キョウ、私と来い!」


 だけど僕は、どちらも選ばなかった。

 ふたりの必死さを見て冷静になったというのもあるけれど、マリンさんとのデートの件で、なんだか裏切られたような気分になっていた。情けなくも腹がたっていたのである。

 僕は冷たくこう言った。


「そんなに機密が大事なら、小早川イオリを探せばいい。僕は海自にも公安にも行かない。コシノクニを動かないよ」


 そしてホテルを後にした。

 ふたりは、その場に立ちつくし、ため息をついていた。――




 しばらく歩いていると、マリンさんが追ってきた。

 彼女は僕の横を歩いた。

 上目づかいで僕を見て、それからこう言った。


「ねえ、キョウくん。私に協力して」

「協力?」

「小早川イオリは完全に消息を絶ったの。公安が消したんじゃないかって話です」

「消したって?」

「見たでしょう? 彼女たち公安の拳銃は、とても引き金が軽いんです」

「………………」

「だから協力してください。海自に来なくてもいいです。その代わり、あなたの力を国防に使わせて」

「……うん」

「ありがとう。あなたの安全は私たちが保証しますね」


 マリンさんはニッコリ笑ってそう言った。

 僕は訊いた。


「姉さんやシンコ、友達の安全は?」

「何も知らない限りは安全です」

「それって、俺がこんな体になってしまったことや、海自や公安のこと、痴女とかいうヤツらのことも、全部、姉さんたちには秘密ってこと?」

「ええ」

「はあ」

「もうひとつお願いがあります」

「なに?」

「キョウくん、私を信じてくださいねっ」


 マリンさんはそう言うと、僕のほっぺたにキスをした。




 ※


 翌日の朝。

 僕とシンコは、教室に向かう廊下で学年主任にバッタリ会った。


「楠木、生徒会長の件は考えてくれたか?」

「えっ? はあ、まあ、いやあ」

「なんだハッキリしないな」

「いえ、そのっ」

「まったく。おまえはやればできるんだから、もっとしっかりしろっ」


 学年主任は、僕を廊下の端まで押した。

 そこで説教をはじめた。

 シンコはさりげなく逃げて、先に教室に行った。

 その後、僕はようやく解放されると小走りで教室に向かった。

 教室に入り、あわてて席についた。

 すると僕の隣の席には、いつもとは違って、黒髪の女子がいた。

 首をかしげると、彼女はこっちを見た。

 それから無表情で無感情にこう言った。



「転校生の桜田門サクラだ。よろしく」

「えぇっ!?」

「自分はこう見えて、貴様と同い年だ。なにも問題はない」

「問題はないって、そんなあ!?」


 僕はアホみたいな顔をしてアホみたいな声をあげた。

 そしてそのまま硬直した。

 桜田門サクラは、にやりと笑った。

 ちょうどそのとき、担任がやってきた。

 担任は大らかな声でこう言った。


「おーい、席につけえ。出欠席を確認するぞお……っと、その前にだ。今日は転校生がある。桜田門サクラくん、ああ、もうそこに座っているんだね」

「はいっ」


 桜田門サクラは、ぴしっと手をあげて、それからみんなに微笑んだ。

 クラスの男子がどよめいた。

 やがて担任が大きく咳払せきばらいをした。

 そして言った。



「実は、もうひとりいる。佐世保マリンくん、入りたまえ」

「佐世保マリンです。実は私、楠木キョウくんの彼女・・です。キョウくんと同じ学校に通いたくて、えへへ、転校してきましたっ」


 マリンさんは満面の笑みで、僕に手を振った。

 クラスメイトの視線が僕に集まった。

 隣の席で、バキッとなにか割れた音がした。

 桜田門サクラが、ものすごい笑顔でペンをへし折っていた。

 担任が呑気に言った。


「あー、じゃあ出欠席を確認するぞお。それと楠木と佐世保はあんまりイチャイチャするなよなあ? 席は離れたところにするんだぞ」

「はーい」


 マリンさんは、僕からすごく離れたところの廊下側の席になった。

 僕と目があうと、彼女はバチッとウインクをキメた。

 僕は、うーむとうなったまま窓枠にもたれかかった。

 校庭を見た。

 体育教師がストレッチをしていた。

 そして彼女を見た瞬間、僕は激しい耳鳴りに襲われた。

 体育教師は艶めかしくもスケベな姿となっていた。


「先生が痴女ォ!?」


 がく然として桜田門サクラを見た。

 すると彼女は、ぼそっと低い声で言った。


「ヤツらは、すでに潜りこんでいる。見つけたらすぐに教えろ。0.5秒で始末する」

「………………」

「佐世保マリンに言ってもいい」

「でも彼女はっ」

「勘違いするなよ。あいつは冷血無比なスパイマスター、私より残酷だぞ」

「まさか」


 僕は救いを求めるようにマリンさんを見た。

 するとマリンさんは、すっと立ち上がった。

 担任に気付かれることなく教室を出た。

 僕が首をかしげていると、桜田門サクラは言った。


「校庭を見ろ」

「えっ?」

「もう始末したか?」

「あっ!?」


 マリンさんは校庭にいた。

 そして彼女の足もとには、体育教師が倒れていた。

 僕はこのとき、マリンさんが凄腕のスパイであることをようやく理解した。

 そして自分が危機的状況にあることをあらためて実感した。

 が。

 しかし。

 それなのに僕は。

 校庭のマリンさんから桜田門サクラに視線を移して、挑むようにこう言うのだった。


「おびえるもんか」



【第1章 完】


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