その7

 目が覚めた。

 僕は見知らぬ和室にいた。

 両手を縛られ天井から吊されていた。しかも全裸である。


「うっ、うぅ」


 うめきをもらすと、薄暗い部屋の隅から、じわりとイオリが現れた。

 彼女は、恥じらうような上目づかいで僕を見ると、もじもじしながら寄ってきて、しかしそこからは一転して大胆に飛びつき、僕の首に腕をからませた。


「キョウちゃあん、はぁん、はぁああんんん」


 イオリは、僕の髪を引っつかんで、あえぐくちびるに吸いついている。

 バネでできているような引きしまった太ももで、僕の腰を締めつけている。

 まるで昆虫のように、両手両足で僕の体にしがみついている。

 そして、慌て興奮するその口からは、息継ぎのたびに僕の名前がもれる。

 これじゃどっちが男で女か分からない。

 イオリは、天井から吊された状態の僕に、しばらく本能のまま、むしゃぶりついていた。


「……会いたかったよお」


 荒々しく長い抱擁ほうようの後、イオリは僕の目を見てそう言った。

 それから急に恥じらい、顔を背けると僕から離れた。

 ほっぺたをピンクに染めて、乱れた金髪をいじっている。

 ちらちらと僕を見ては、じわりと笑い、目があうと羞恥にもだえて目をそらす。

 今までとは、まるで別人のような仕草である。

 僕がこの急激な変化に戸惑とまどっていると、イオリは照れくさそうにこう言った。


「ごめんね、キョウちゃん。エキサイターを注射してから、キョウちゃんを視ると自分を抑えきれないの」

「………………」

「でも、今は大丈夫。キョウちゃん成分をたっぷり摂ったから落ち着いてるよ? いわゆる賢者モードだよお」

「……なぜ痴女化した。いや、そもそもの話をすれば、なぜエキサイターとかいう国家機密を盗んだんだ?」

「イオリが公安のエージェントなのは知ってるよね?」

「ああ」

「公安の極秘任務で盗んだの。だけど、イオリに命令した上官は痴女だった。イオリはダマされてエキサイターを盗んでしまったの」

「それを信じろと言うのか?」

「公安の上層部には痴女がいる。海自にもいる。痴女は、すでに侵食しつつある。だから、イオリはエキサイターを自らに注射し、独自で動くしかなかった」

「じゃあ、僕に注射したのは?」

「だって、ひとりじゃ不安だったし、それにエキサイターを注射したばかりのイオリは、痴女の高ぶりをおさえることがまだまだ下手で、キョウちゃんを視たら体が熱くなって頭が真っ白になってしまったの」


 イオリは、じんわり笑ってそんなことを言った。

 虫がいいといえば虫がいいが、しかし、いじらしくもある。……。



「でもそれは分かったけど、僕を退学させたのは、なんなんだ」

「うん」

「なんかここんところ、色々とおかしなことばかり起こって、今もなんか縛られててそれどころじゃないけれど、でも、そもそものことを言えば、まずそれだよ、ああ思い出すとだんだん腹が立ってきた! イオリ、なんで僕を退学に追いこんだ!! 『暴行された』というウソまでついて、僕を退学させたのはなぜなんだ!!!」

「キョウちゃん、怒ってる?」

「当たり前だ!」


 僕は跳びはねるように叫んだ。

 今までずっと言えずにいたけれど、僕の彼女に対する怒りはおさまっていない。

 僕は、イオリに唐突に罠にかけられ無実の罪で退学させられた。

 そのことを、ずっと根に持っているのだ。


「なぜだイオリ!」

「それはね、キョウちゃん」


 イオリは、急にしおらしくなった。

 その急激な変化に、僕は言葉をつまらせた。

 やがてイオリは力なく、神妙な顔をして語りはじめた。


「イオリはね、キョウちゃんを退学させて、どこまでも転落させて人生の落伍者にしたかったの。誰からも期待されない本当にどうしようもない人にしたかったんだよお。ねえ、キョウちゃん。そうすれば、みんなキョウちゃんに愛想を尽かしていなくなる。イオリしかキョウちゃんのそばにいなくなる。そしてキョウちゃんだって、イオリがいないと生きていけなくなる」

「………………」

「ねえ、キョウちゃん。イオリがやしなってあげる」


 そうささやいたイオリの瞳は、狂気に満ちて見開いて、やや丸みをおびたそのほほは、不気味に笑っていた。

 僕はイオリが言ったことの内容よりも、この表情に恐怖した。

 僕の知るイオリは、こんなヤツじゃない。

 すらりとして女の子にしては背が高いほうで、胸もあるほうだけれども、それなのにイオリは童顔で健康的すぎて、まるでスポーツ選手のように色気がまったくないヤツだった。

 だいたい僕のことが好きとかいうのも初耳だし、今までそんな素振りをまったくみせなかったのだ。はっきり言ってシンコに告白されるよりも、いや、姉さんの彼氏に告白される以上の衝撃である。


「昔は、こんなやつじゃなかった」


 僕がため息をつくようにそう言うと、イオリは不気味に微笑んだ。

 そしてささやいた。


「だってキョウちゃん、ヤンデレ好きだったよ? キョウちゃんずっと漫画やアニメのキャラに夢中で、ヤンデレキャラが好きで好きで好きでっ、ヤンデレのことを嫁キャラだって言ってたよ?」

「だから変わったのか」

「うん、イオリは勉強したんだよ。それだけキョウちゃんのことが好きなんだよお」

「でもっ、人間は好きとか愛してるとかそんな動機で、簡単には変われないよ。その人間が正気である限りはね」


 そう言って僕は、ふいにうそ寒いものに襲われた。

 イオリは、はたして正気だろうか。


「なあ、イオリ。本当にエキサイターは大丈夫なのか? おまえもしかして、あの "痴女" とかいう謎の生物になりかけてるんじゃないのか? ちゃんと今までのような論理的な思考はできてるか?」

「もちろん。今までと違うのは、欲望を抑えるのが難しくなったことだけだよ。ちゃんと考えて行動できてるよお」

「今、僕をこうやって縛って監禁していることも?」

「ううん。実はキョウちゃんとここに来たのは計算外、キョウちゃんを視たら我慢できなくなっちゃった。でも、それ以外は用意周到、完璧な作戦だよっ」


 イオリは、じんわり笑って、僕のくちびるに吸いついた。

 その後、いきおいよく口を離すと、僕の胸に指をわせながら甘えてこう言った。


「サクラは単純だから警官をすべて署に集めた。だからこうやって、うちの蔵に入ることができた。ねえ、ちゃんと賢いままでしょお?」

「あっ、ああ」


 僕には、それが喜ばしいことなのかなげくべきことなのか分からなかった。

 僕は戸惑いながらも質問を続けた。


「じゃあ、サクラの車に爆弾を仕掛けたのは?」

「サクラがキョウちゃんとなんかい感じになりかけてたから」

「あのとき、僕たちを見てたのか?」

「キョウちゃんのことは、ずっと視ているよお」

「死ぬところだった」

「キョウちゃんは、エキサイターの痴女ウィルスで強くなってるから大丈夫。それにたとえ手足が吹き飛んだとしても、イオリがちゃんと介護してあげる。むしろ喜ばしいことだよ?」

「……。博士を殺したのは?」

「イオリは殺してないよお」

「え?」

「だって、キョウちゃんをずっと視てたもん。博士を殺すヒマなんかないし、それにどうせ殺すならサクラのほうだよお」

「だったら誰が?」

「上層部に痴女が潜りこんでいる――って言ったよね? たぶん、そいつら」

「うーん」


 話の整合性はとれている。

 ウソをついているようにはとても見えないし、それにウソをついていたとしても、ここまで論理的なウソをつけるということは、イオリは明晰めいせきな知能を失っていない。やや狂気じみた発想をしているのだけれども。


「ねえ、キョウちゃん?」

「ん?」

「好き」

「うっ、うん」

「キョウちゃんもイオリのこと好き?」

「……そんなこといきなり言われても分からないよ。ほんとビックリしてる」


 相手を全裸で吊しておいて、告白する無法もないだろう。

 僕は、イオリの恥じらいに満ちた表情と、自分のマヌケな姿とのギャップに、笑いをこらえるのに必死だった。いや、笑ってる場合ではないとそれは分かっているけれど、それでも不謹慎ふきんしんな笑いがこみあげてくる。若干、相手が幼馴染みだという気安さもある。


「イオリ、すこし時間をくれないか?」

「うん。じゃあ次に会うときは、イオリを押し倒してね」

「次に会うとき?」

「ねえ、キョウちゃん。マリンはサクラとは違って優秀だよ。そろそろここに辿たどり着く」

「だったらイオリ、ちゃんと事情を説明するんだ。彼女たちは、きっとキミの味方になってくれる」

「えへへ。キョウちゃんは、ほんとお人好しだね。そういうところが好きだけど」

「うん?」

「サクラもマリンも、イオリを見た瞬間に殺すよ。何も訊かずに0.5秒でね。それにイオリも、あいつらを視たら、きっとこらえきれなくなる。キョウちゃんとイチャイチャしたあいつらを、たぶん殺しちゃう」

「………………」

「だから逃げるね。あいつらにはキョウちゃんから説明をして」

「……うん」

「じゃあ、これはプレゼント」


 イオリはそう言って、僕の手にリモコンを持たせた。

 僕が首をかしげると、イオリはイタズラな笑みで言った。


「蔵にトラップを仕掛けたよ。それは解除リモコン」


 イオリは、蔵の隅まで下がると壁のスイッチを押した。

 すると僕を大らかに囲うように、たぶん赤外線センサーだと思う、そんな赤いレーザーが現れた。イオリは裏口の木戸を開けると、首をねじむけこう言った。


「キョウちゃん、大好き」


 その言葉と同時にイオリは闇に消え、それから、

 ドゴンッ! ――と、激しい音がした。


「公安だ!」「海自よ!」


 扉を蹴破り、サクラとマリンさんが飛びこんできた。

 そして彼女たちが入ったその瞬間、赤いレーザーは青く変わり、ふたりを照準した。僕にも照準した。さらには追い打ちをかけるように、無機質な声が蔵に響きわたった。


『2名の侵入者を検知しました。セキュリティ発動、誤作動の場合は速やかに解除してください』



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