その3
露天風呂で、桜田門サクラにバッタリあった。
僕は、湯から出ようとした。
だけど、彼女が入口で頑張っている限りは難しい。
僕は少し考えた後、脱出をあきらめた。
風呂のド真ん中にいるのも居心地が悪いので、おそるおそる桜田門サクラの横に行った。彼女は、顔を背けて僕の体を見ないようにしていた。そのほっぺたは赤かった。それどころか耳まで赤くなっていた。
――意外と可愛いところがあるんだな。
僕は、
彼女の隣の少し離れたところに座った。
すると桜田門サクラは、びくんとなった。
背中を丸め、両手で自身の肩を抱いた状態で、くやしそうに僕を見た。
しかし、すぐに背筋を伸ばし、鼻を天に向けてこう言った。
「貴様、さっき首をかしげたな。なぜだ?」
「だって」
「言え」
「だって、僕に見られて動揺してたから」
僕は、ついしゃべってしまった。
ちらちらと見える胸の谷間に心をかき乱されていたからだ。
ちなみに桜田門サクラは、僕よりもしどろもどろで、ずっと目が泳いでいる。
「桜田門さんは公安の
「じっ、自分は動揺などしていないっ」
「でも声が裏返ってるし」
「うるさいっ。それにスパイらしいスパイなどいるかっ」
「うん?」
「『いかにもスパイです』ってプロフィールのスパイなど、いるわけないだろう。そんなヤツは、真っ先に疑われて役に立たん」
「言われてみれば、たしかにそうだけど」
「
「うん」
「そのイメージから遠く離れた人物が、本物のスパイだ」
「なるほど。だから男が苦手なんだ」
「苦手ではないっ」
桜田門サクラは声を荒げた。
僕は肩をすぼめた。
だけど、なんだか彼女に対して精神的に優位に立っている。
そんな気がした。
「ごめんごめん。でも、桜田門さんって僕と同じ年でしょ? スパイになるには随分若いと思うんだけど、ひょっとしてスパイの家系?」
「バカか。そんな家系があったら世界中からマークされる」
「それもそうか。まあ、小早川イオリの家もそんな風じゃなかったし」
「中学の全国一斉テストだ。公安は、その成績を見てスカウトする」
「ああ、そういえばイオリは良い点を取ってな」
「ただ高得点というだけではダメだ。解答の傾向が条件に一致した場合、スパイに適していると判断される……らしい」
「じゃあマリンさんも?」
「海自の登用試験は、まったくの謎だ。そもそも警察と海上自衛隊は、ルーツが異なる。だから同じ日本の諜報機関ではあるが、体制がまるで違うのだ」
「そうなんだ」
「我々警察と陸上自衛隊はアメリカ、海上自衛隊はイギリスがルーツ。だから気をつけろよ。マリンは、イギリスの流儀にどっぷりだ」
「あはは、なんだよそれ」
「二枚舌外交・三枚舌外交に奴隷船貿易。世界史で習ったろう?」
「はあ。しかし、桜田門さんって意外と……って、言うと失礼だけど、なんというかお話上手いよね。僕はもっとこう
「ふふんっ。貴様はマリンに
「え? 共同作戦じゃなかったの?」
「我々公安部とマリンの電子情報隊は、どちらもスパイ組織だ。共同で作戦本部を作るといっても、いろいろある」
「へえ、そんなんだあ」
僕はそんなテキトーな相づちを打って、大きく伸びをした。
桜田門サクラは、話してみればロボットでもなんでもない、ちゃんと血の通った女の子だった。いや、ずいぶんと上からの目線だとそれは分かっているけれど、しかし、彼女がドギマギしていることが、僕の心に余裕をもたらしていた。
こんなに綺麗な子が、男が苦手だなんて、驚きよりも愛おしさがこみあげてくる。
「だから、自分は別に男性恐怖症ではないっ」
「いや、そこまで言ってないけど。というか、思っただけだけど」
「顔を見れば分かるっ」
「うーん。でも、
「そんなフォローのしかたは嬉しくない。それにそもそも『スパイっぽく見える』ことがマズいのであって、男性経験豊富なことは悪いわけではない」
「うーん、それもそうか。マリンさんはモテそうだし、男の喜ばせかたも熟知してそうだしなあ」
僕はそんなことをぼんやりつぶやいた。
すると桜田門サクラは、可愛らしくほっぺたを
それからしばらくの後、彼女は、じわっと不敵な笑みをした。
やがて桜田門サクラは、勝ち誇ってこう言った。
「貴様、私のことを随分とバカにしてるがな。こう見えて私は、実は経験豊富だぞ。経験した男性は1000人を越える」
「1000人って、桜田門さん17歳だよね? 売春やってたの?」
「やるかっ!」
「だって、1日1人としても3年かかるでしょ」
「うるさいっ。とっ、とにかく自分は処女ではないっ!」
「いやっ」
こいつ絶対処女だ。
こんな虚勢の張りかたをするヤツは、まず間違いなく処女である。
僕は鼻で笑って断定した。
すると桜田門サクラは、すこしおびえた。
それから、さすがに傷ついたみたいな顔をした。
「ごっ、ごめん」
「なにがだ」
低い声で短く言われた。
その後、彼女は精一杯の笑みでこう言った。
「ちなみに、マリンは処女だ」
「えっ? なにを急に!?」
「処女の女スパイなど居るわけがない……そう思うだろ?」
「うっ、うん」
「だから逆にスパイなのだ」
「そんな勝手な決めつけ、嬉しいけどっ」
「マリンはアジアで五指に入る凄腕のスパイ、公安は徹底的に調査した。あいつは処女だ。この分析にまず間違いはない」
「そうなんだ」
「おい貴様っ。なにを、ほっとしている」
「いや、だって」
好きな子が処女だと聞いて、ガッカリするのもおかしいだろ。
「なんだ貴様。私とマリン、随分とあつかいが違うんだな」
「いやそんなつもりはないよ」
「これからは、キョウ。私のことを『サクラ』と呼べ」
「はい?」
「あの女よりも優位に立ちたい」
「えっ?」
「キョウ」
「ぁん?」
「サクラと呼べ」
「うーん」
「拳銃なら持ってきているぞ」
「さっ、サクラ……さん」
「呼び捨てにしろ」
サクラはそう言うと、タオルを抱いて立ち上がった。
思いっきり僕を見下して、ニヤリと笑った。
それからくるりと背を向けると、背筋をピンと伸ばして露天風呂から出ていった。
口をぽっかり開けて、その丸見えのお尻を見送っていた僕は、やがて、
「ずいぶん一方的な女の子だな」
とつぶやいて、それからつけ加えた。
「しかも着やせするタイプだ」
※
翌日の学校。
マリンさんとサクラは遅刻して、3時間目の終わりにやってきた。
昼休みになるとサクラが突然言った。
「マリンを信用するな」
「え?」
「いいか。今後、マリンとふたりきりで会うのは止めるんだ」
「なんだよいきなり」
「上官に『楠木キョウを見張れ、そばを離れるな』と、命令された」
「それは昨日も聞いたけど。あれからなにか問題でもあったの?」
「問題などない、すべて解決する」
サクラは、吐き捨てるようにそう言った。
思いっきり見栄を張っている。
「とにかく、ふたりきりで会うのは止めろ」
「うーん」
「分かったか」
「あっ」
ちょうどこのとき、メールを受信した。
チラッと見ると、マリンさんからだった。
「どうした?」
「うっ、うん。ちょっとお手洗いに」
僕は、スマホを持って教室から出た。
もちろんサクラには、マリンさんからのメールのことは言わなかった。
マリンさんからのメールには、「屋上で待ってます」と書いてあった。
僕はさっそく屋上に行った。
マリンさんは僕の顔を見ると、いきなり言った。
「キョウくん、いいですか? サクラさんと、ふたりきりで会ったらダメですよ」
「え? キミたち、どうしたの?」
「サクラさんに同じこと言われました? そうよね、当然ですよね」
「ちょっと待ってよ、サクラとなにかあったの?」
「……。昨晩の博士ですけど、私たちと別れた後に爆弾で殺されたんですょ」
「ええっ? 僕を治すはずだったのに!?」
僕は悲鳴のような声をあげた。
マリンさんは、やさしく微笑み、それから僕の手をぎゅっと握った。
そして言った。
「今朝、私とサクラさんは、博士の殺害現場に呼ばれました。公安と海自の合同捜査、現場検証に立ち会ったのです。ただ、合同捜査といっても、私たちは別の組織。現場は
「そんなことがあったんだ」
「これは『ぬいぐるみ型爆弾のピーポー君』、その残がいです」
「ああ、警察のマスコットキャラだね」
「公安がよく使う爆弾ですよ」
「えっ!? それが博士が死亡した現場で爆発したの!?」
「ねえ、キョウくん。公安の人間といえば?」
「サクラ」
「彼女が容赦なく撃つところを何度も目撃してますよね?」
「あっ、うん」
「あれが彼女の仕事です」
マリンさんは、僕の目をじっと見つめてそう言った。
僕の胸に手を乗せて、くちびるをねだるようにあごをあげている。
僕はノドのつまった声でようやく言った。
「さっ、サクラが殺したのは分かった。でも、どっ、どうすればいいんだ?」
「教室に戻って何事もなかったように過ごしてください」
「そんなあ」
「落ち着いて、あなたならできます」
「………………」
「そこに座って、私のお弁当でも一緒に食べませんか? 戻るのはそれからでもいいですよ」
※
教室には、お昼休みが終わるギリギリに戻った。
マリンさんは、少し遅れて戻ると言った。
教室に入ると、サクラがいきなりやってきた。
僕の胸ぐらをつかみ、僕だけに聞こえるように、低い声で鋭く言った。
「マリンに何を言われた。会ってきたのは分かる。私はプロだぞ」
「……………」
だけど僕は答えなかった。
するとサクラは教室を出た。
もう授業開始のチャイムが鳴って、廊下には誰もいない。
僕は彼女を追いかけた。
サクラは、階段の前でマリンさんにバッタリ会った。
「おいっ」
サクラは、マリンさんの腕をつかんだ。
そうやってトイレに向かった。
「佐世保マリン。貴様、楠木キョウに何を言った?」
「あなたは冷酷な殺し屋。事実ですよね?」
「……。昨晩、博士が来るのを知っていたのは、自分と貴様だけだ」
「ええ」
「自分は殺してない。だから佐世保マリン、貴様を逮捕する」
サクラはそう言って、マリンさんを突き飛ばした。
マリンさんは、女子トイレの扉に叩きつけられた。
「せいやあ!」
サクラが跳び蹴りで突っ込んだ。
だけどマリンさんは、素早くそれをかわした。
女子トイレに逃げこんだ。
もちろんサクラはその後を追う。そして女子トイレの扉が反動でバタンと閉まると、なかから激しく争う音がした。サクラやマリンさんの声に混じって、時折、ドアや清掃道具が派手に壊れる音がする。
僕はあ然として、誰もいない廊下で女子トイレの扉を見つめていた。
まさか中に入るわけにはいかないし、それに中に入ったとしても止めることなどできそうにない。それほど、ふたりは激しく争っていた。
「おーい、なにやってんだ楠木ぃ」
突然遠くからそんな声が放られた。
ハッとして振り返ると、教室から先生が顔を出していた。
「はやく戻ってこーい。授業始めるぞぉ」
「……すみませーん」
ふたりのことは気になったけど、しかし、僕はすこし考えたのち、ひとり教室に戻るのだった。――
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