その3

 露天風呂で、桜田門サクラにバッタリあった。


 僕は、湯から出ようとした。

 だけど、彼女が入口で頑張っている限りは難しい。

 僕は少し考えた後、脱出をあきらめた。

 風呂のド真ん中にいるのも居心地が悪いので、おそるおそる桜田門サクラの横に行った。彼女は、顔を背けて僕の体を見ないようにしていた。そのほっぺたは赤かった。それどころか耳まで赤くなっていた。


 ――意外と可愛いところがあるんだな。


 僕は、チョー上からの目線でため息をついた。

 彼女の隣の少し離れたところに座った。

 すると桜田門サクラは、びくんとなった。

 背中を丸め、両手で自身の肩を抱いた状態で、くやしそうに僕を見た。

 しかし、すぐに背筋を伸ばし、鼻を天に向けてこう言った。


「貴様、さっき首をかしげたな。なぜだ?」

「だって」

「言え」

「だって、僕に見られて動揺してたから」


 僕は、ついしゃべってしまった。

 ちらちらと見える胸の谷間に心をかき乱されていたからだ。

 ちなみに桜田門サクラは、僕よりもしどろもどろで、ずっと目が泳いでいる。


「桜田門さんは公安の監察官エージェント、いわゆるスパイだよね? それなのにお風呂で男にバッタリ会って動揺するのは、なんかイメージと違うというか、女スパイらしくないというか……」

「じっ、自分は動揺などしていないっ」

「でも声が裏返ってるし」

「うるさいっ。それにスパイらしいスパイなどいるかっ」

「うん?」

「『いかにもスパイです』ってプロフィールのスパイなど、いるわけないだろう。そんなヤツは、真っ先に疑われて役に立たん」

「言われてみれば、たしかにそうだけど」


いわゆる・・・・凄腕のスパイは、20代後半から30代のイケメンや美人。遊びに精通し、恋愛経験も豊富。異性を手玉にとり、どんな情報でも手に入れる――貴様の持つイメージなど、どうせこんな感じだろう」

「うん」

「そのイメージから遠く離れた人物が、本物のスパイだ」

「なるほど。だから男が苦手なんだ」

「苦手ではないっ」


 桜田門サクラは声を荒げた。

 僕は肩をすぼめた。

 だけど、なんだか彼女に対して精神的に優位に立っている。

 そんな気がした。


「ごめんごめん。でも、桜田門さんって僕と同じ年でしょ? スパイになるには随分若いと思うんだけど、ひょっとしてスパイの家系?」

「バカか。そんな家系があったら世界中からマークされる」

「それもそうか。まあ、小早川イオリの家もそんな風じゃなかったし」

「中学の全国一斉テストだ。公安は、その成績を見てスカウトする」

「ああ、そういえばイオリは良い点を取ってな」

「ただ高得点というだけではダメだ。解答の傾向が条件に一致した場合、スパイに適していると判断される……らしい」

「じゃあマリンさんも?」


「海自の登用試験は、まったくの謎だ。そもそも警察と海上自衛隊は、ルーツが異なる。だから同じ日本の諜報機関ではあるが、体制がまるで違うのだ」

「そうなんだ」

「我々警察と陸上自衛隊はアメリカ、海上自衛隊はイギリスがルーツ。だから気をつけろよ。マリンは、イギリスの流儀にどっぷりだ」

「あはは、なんだよそれ」

「二枚舌外交・三枚舌外交に奴隷船貿易。世界史で習ったろう?」

「はあ。しかし、桜田門さんって意外と……って、言うと失礼だけど、なんというかお話上手いよね。僕はもっとこう寡黙かもくな人かと思っていたよ」


「ふふんっ。貴様はマリンにれている。だから、『マリンと同じくらい貴様と親密になれ』と、上官から指示があったのだ。このままでは、すべて海自の手柄になるからな」

「え? 共同作戦じゃなかったの?」

「我々公安部とマリンの電子情報隊は、どちらもスパイ組織だ。共同で作戦本部を作るといっても、いろいろある」

「へえ、そんなんだあ」


 僕はそんなテキトーな相づちを打って、大きく伸びをした。

 桜田門サクラは、話してみればロボットでもなんでもない、ちゃんと血の通った女の子だった。いや、ずいぶんと上からの目線だとそれは分かっているけれど、しかし、彼女がドギマギしていることが、僕の心に余裕をもたらしていた。

 こんなに綺麗な子が、男が苦手だなんて、驚きよりも愛おしさがこみあげてくる。


「だから、自分は別に男性恐怖症ではないっ」

「いや、そこまで言ってないけど。というか、思っただけだけど」

「顔を見れば分かるっ」

「うーん。でも、いんじゃない? 男性経験豊富っぽいと、いかにも女スパイって感じだし。それはスパイとして困るんでしょう?」

「そんなフォローのしかたは嬉しくない。それにそもそも『スパイっぽく見える』ことがマズいのであって、男性経験豊富なことは悪いわけではない」

「うーん、それもそうか。マリンさんはモテそうだし、男の喜ばせかたも熟知してそうだしなあ」


 僕はそんなことをぼんやりつぶやいた。

 すると桜田門サクラは、可愛らしくほっぺたをふくらませた。

 それからしばらくの後、彼女は、じわっと不敵な笑みをした。

 やがて桜田門サクラは、勝ち誇ってこう言った。


「貴様、私のことを随分とバカにしてるがな。こう見えて私は、実は経験豊富だぞ。経験した男性は1000人を越える」

「1000人って、桜田門さん17歳だよね? 売春やってたの?」

「やるかっ!」

「だって、1日1人としても3年かかるでしょ」

「うるさいっ。とっ、とにかく自分は処女ではないっ!」

「いやっ」


 こいつ絶対処女だ。

 こんな虚勢の張りかたをするヤツは、まず間違いなく処女である。

 僕は鼻で笑って断定した。

 すると桜田門サクラは、すこしおびえた。

 それから、さすがに傷ついたみたいな顔をした。


「ごっ、ごめん」

「なにがだ」


 低い声で短く言われた。

 その後、彼女は精一杯の笑みでこう言った。


「ちなみに、マリンは処女だ」

「えっ? なにを急に!?」

「処女の女スパイなど居るわけがない……そう思うだろ?」

「うっ、うん」

「だから逆にスパイなのだ」

「そんな勝手な決めつけ、嬉しいけどっ」

「マリンはアジアで五指に入る凄腕のスパイ、公安は徹底的に調査した。あいつは処女だ。この分析にまず間違いはない」

「そうなんだ」

「おい貴様っ。なにを、ほっとしている」

「いや、だって」


 好きな子が処女だと聞いて、ガッカリするのもおかしいだろ。


「なんだ貴様。私とマリン、随分とあつかいが違うんだな」

「いやそんなつもりはないよ」

「これからは、キョウ。私のことを『サクラ』と呼べ」

「はい?」

「あの女よりも優位に立ちたい」

「えっ?」

「キョウ」

「ぁん?」

「サクラと呼べ」

「うーん」

「拳銃なら持ってきているぞ」

「さっ、サクラ……さん」

「呼び捨てにしろ」


 サクラはそう言うと、タオルを抱いて立ち上がった。

 思いっきり僕を見下して、ニヤリと笑った。

 それからくるりと背を向けると、背筋をピンと伸ばして露天風呂から出ていった。

 口をぽっかり開けて、その丸見えのお尻を見送っていた僕は、やがて、


「ずいぶん一方的な女の子だな」


 とつぶやいて、それからつけ加えた。


「しかも着やせするタイプだ」




 ※


 翌日の学校。

 マリンさんとサクラは遅刻して、3時間目の終わりにやってきた。

 昼休みになるとサクラが突然言った。


「マリンを信用するな」

「え?」

「いいか。今後、マリンとふたりきりで会うのは止めるんだ」

「なんだよいきなり」

「上官に『楠木キョウを見張れ、そばを離れるな』と、命令された」

「それは昨日も聞いたけど。あれからなにか問題でもあったの?」

「問題などない、すべて解決する」


 サクラは、吐き捨てるようにそう言った。

 思いっきり見栄を張っている。


「とにかく、ふたりきりで会うのは止めろ」

「うーん」

「分かったか」

「あっ」


 ちょうどこのとき、メールを受信した。

 チラッと見ると、マリンさんからだった。


「どうした?」

「うっ、うん。ちょっとお手洗いに」


 僕は、スマホを持って教室から出た。

 もちろんサクラには、マリンさんからのメールのことは言わなかった。




 マリンさんからのメールには、「屋上で待ってます」と書いてあった。

 僕はさっそく屋上に行った。

 マリンさんは僕の顔を見ると、いきなり言った。


「キョウくん、いいですか? サクラさんと、ふたりきりで会ったらダメですよ」

「え? キミたち、どうしたの?」

「サクラさんに同じこと言われました? そうよね、当然ですよね」

「ちょっと待ってよ、サクラとなにかあったの?」

「……。昨晩の博士ですけど、私たちと別れた後に爆弾で殺されたんですょ」

「ええっ? 僕を治すはずだったのに!?」


 僕は悲鳴のような声をあげた。

 マリンさんは、やさしく微笑み、それから僕の手をぎゅっと握った。

 そして言った。


「今朝、私とサクラさんは、博士の殺害現場に呼ばれました。公安と海自の合同捜査、現場検証に立ち会ったのです。ただ、合同捜査といっても、私たちは別の組織。現場は牽制けんせいのしあい、ダマしあいの連続、ずっとピリピリしてました」

「そんなことがあったんだ」

「これは『ぬいぐるみ型爆弾のピーポー君』、その残がいです」

「ああ、警察のマスコットキャラだね」

「公安がよく使う爆弾ですよ」

「えっ!? それが博士が死亡した現場で爆発したの!?」

「ねえ、キョウくん。公安の人間といえば?」

「サクラ」

「彼女が容赦なく撃つところを何度も目撃してますよね?」

「あっ、うん」

「あれが彼女の仕事です」


 マリンさんは、僕の目をじっと見つめてそう言った。

 僕の胸に手を乗せて、くちびるをねだるようにあごをあげている。

 僕はノドのつまった声でようやく言った。


「さっ、サクラが殺したのは分かった。でも、どっ、どうすればいいんだ?」

「教室に戻って何事もなかったように過ごしてください」

「そんなあ」

「落ち着いて、あなたならできます」

「………………」

「そこに座って、私のお弁当でも一緒に食べませんか? 戻るのはそれからでもいいですよ」




 ※


 教室には、お昼休みが終わるギリギリに戻った。

 マリンさんは、少し遅れて戻ると言った。

 教室に入ると、サクラがいきなりやってきた。

 僕の胸ぐらをつかみ、僕だけに聞こえるように、低い声で鋭く言った。


「マリンに何を言われた。会ってきたのは分かる。私はプロだぞ」

「……………」


 だけど僕は答えなかった。

 するとサクラは教室を出た。

 もう授業開始のチャイムが鳴って、廊下には誰もいない。

 僕は彼女を追いかけた。

 サクラは、階段の前でマリンさんにバッタリ会った。


「おいっ」


 サクラは、マリンさんの腕をつかんだ。

 そうやってトイレに向かった。


「佐世保マリン。貴様、楠木キョウに何を言った?」

「あなたは冷酷な殺し屋。事実ですよね?」

「……。昨晩、博士が来るのを知っていたのは、自分と貴様だけだ」

「ええ」

「自分は殺してない。だから佐世保マリン、貴様を逮捕する」


 サクラはそう言って、マリンさんを突き飛ばした。

 マリンさんは、女子トイレの扉に叩きつけられた。


「せいやあ!」


 サクラが跳び蹴りで突っ込んだ。

 だけどマリンさんは、素早くそれをかわした。

 女子トイレに逃げこんだ。

 もちろんサクラはその後を追う。そして女子トイレの扉が反動でバタンと閉まると、なかから激しく争う音がした。サクラやマリンさんの声に混じって、時折、ドアや清掃道具が派手に壊れる音がする。


 僕はあ然として、誰もいない廊下で女子トイレの扉を見つめていた。

 まさか中に入るわけにはいかないし、それに中に入ったとしても止めることなどできそうにない。それほど、ふたりは激しく争っていた。



「おーい、なにやってんだ楠木ぃ」


 突然遠くからそんな声が放られた。

 ハッとして振り返ると、教室から先生が顔を出していた。


「はやく戻ってこーい。授業始めるぞぉ」

「……すみませーん」


 ふたりのことは気になったけど、しかし、僕はすこし考えたのち、ひとり教室に戻るのだった。――


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