第39話 名称未定--影法師と日記帳 ②


「……と、まあ、ざっくり言うとこんな感じだ。あたしは咄嗟の判断であの時のこいつに『タロー』って名前を付けた。で、あたしの尽力もあって辛うじてタローは人間としての姿を保てたんだが、存在が半分ドッペルゲンガーに成っちまったわけだ」

「……その話は分かりました。では、何でタローはわたしの事を忘れているのですか?」

 愛鈴は続きを促した。右眼はこちらを困ったように他人行儀で見つめる彼に注がれている。

「その話も続きを聞けば分かる。ついでに今の内に言っておくが、タローが忘れたのはお前の事だけじゃない。〝全て〟だ」

――は?

 愛鈴が聞き返す前にユカリは言葉を続けた。

「半分がドッペルゲンガーに成ったタローは存在自体が曖昧でな。『タロー』って名前も言ってしまえばあたしが咄嗟に付けた仮名だ。山田太郎とかジョン・ドゥとかのな。仮名は名前の通りあくまで仮の名でしかない。他の名前に幾らでも付け替える事が出来るだろう。それがタローの〝力〟だ」

「意味が、分かりません」

 愛鈴は首を横に振った。出来るなら両手を振り回したかったが、彼女の左腕は腐り落ち、右腕はまだ上手く動かないでいる。

 時子の冷めた手が落ち着けとでも言う様に愛鈴の肩を弱く抑えた。

「つまり、タローはドッペルゲンガーとして相手の名前を奪って自分の物に出来るが、それはあくまでタローって奴の新しい仮名でしかないんだよ。たとえば、タローが李愛鈴の名前を奪ったとするだろ? その時、タローの仮名が『タロー』から『李愛鈴』に上書きされるわけさ」

 ユカリはタローと愛鈴それぞれに人差し指を指した後、付け加えるようにその指をクルクルと回した。

「ここで、タローの力の凶悪なところは名前を奪う人数に制限が無いって所だな。まるで個別のセーブデータに上書きしていくみたいに無尽蔵に自分の仮名作っていく。正直すごいぜ? 使い方によってはあたしを本当の意味で殺し切れるからな」

「ユカリ。話を元に戻せ」

 時子のスッと入る声にユカリは素直に応じた。

「……悪い、脱線したな。確かに幾らタローが誰かの名前を奪おうがあたしはこいつをタローって呼ぶけど、タローの中では自分の名前はもう李愛鈴に成っている。……ここまでは分かるか?」

「……タローは名前を奪った相手の名を自信の名として上書きするという事ですね?」

 愛鈴の返答にユカリがパンッと手を叩いた。

「その通り。じゃあ、愛鈴、質問だ。李愛鈴として上書きした名前をお前に返したらタローはどうなると思う?」

「……元のタローに戻るんじゃないですか?」

 キョンシーの少女の答えに、灼髪の少女は三日月の笑みのまま首を横に振った。

「惜しい。確かに元のタローに戻っている。ただ、それはお前のニュアンスとは違う。完全に元の『タロー』という〝あたしがその名前を名付けた瞬間の〟状態へと戻るんだ。ドッペルゲンガーに存在を半分食われ、記憶のほとんどが欠落し、自身に名前があった事さえも曖昧だった最初の状態にな」

 愛鈴は五秒ほど、今のユカリの発言を飲み込むのに時間を要した。

 ユカリの言い分と愛鈴に残った記憶からして、タローは愛鈴の名前を奪ったに違いない。

 それからタロー達に何があったのかは愛鈴に分からないが、タローはその力を使って王志文を撃退したのだ。

 そして、戦いが全て終わった彼は愛鈴へと名前を返したのだろう。

 ならば、ユカリが言った事が全て真実だとしたのなら、タローがあれから迎えた結末と言うのは、

「……タ、ロー?」

 愛鈴は何がタローという青年に起こってしまったのか理解した。それゆえに未だこちらを見つめる青年へと眼を向けた。

「……あなたは、なんてことをしてしまったのですか?」

 青年は、もう愛鈴が知る青年ではないタローは、少女の言葉に困り顔をする。自分には関係の無いクレームを押し付けられた様な顔だ。

 正しい。それはあまりに正しい対応だ。〝今の〟タローに〝前の〟タローが何を思ってそのような行動をしてしまったのか問い掛けるのはあまりに酷だろう。

 しかし、愛鈴は問わずには居られなかった。

 自分は何度も言ったではないか。

「わたしは、わたしは、わたしのせいで誰かが傷ついて欲しくないとあれ程、あれ程言ったではないですか! 何で、どうして、あなたが全てを失わなければいけないのですっ!?」

 愛鈴の脳裏を夕食時、浮世絵町の事を楽しげに語るタローの姿が過ぎる。

「タローは言っていたじゃないですか! あなたはこの町が好きだと! その思い出を全て捨ててまでわたしを助ける意味があったんですか!」

 キョンシーは激昂した。突然跳ねる肺に体が悲鳴を上げていたがそんな事よりも叫ばずには居られなかった。

 しかし、彼女の体は正直だった。限界を超えて酷使された体は急に叫び声を上げた主を咳き込ませる。

 愛鈴は肺を痙攣させながらもを更に言葉を続けようとした。

 今更何を言っても遅いと分かっている。タローは既にリセットされたのだ。

 でも、言わずにいられない。感情の奔流を抑える事が愛鈴には出来なかった。

 更に愛鈴は叫びを上げようとしたその時、彼女の首の右の血管に何かが突き刺さる感触がし、瞬間愛鈴の視界が暗転した。



 気が付いたら愛鈴は初めに眼が覚めた病室に戻されていた。反射的に明鈴の頭骨を探すと、それは先ほどの右にあった台に置かれている。

 姉の頭骨が無くなっていない事に安堵を覚えたが、すぐさまハッとタローの事が思い起こされた。

「タローっ!」

 愛鈴は起き上がりタローの元へ行こうとしたが、体は未だ動かなかった。

 言う事を聞かない体に苛立ちを覚え、どうすればタローの元へ行く事が出来るのか考えようとした愛鈴の左側から青年の声が掛かった。

 聞き慣れた青年の声である。

「おはようございます」

 左側の視界を失っていたから彼の姿に気付かなかったようだ。

 愛鈴が首を傾けて声をかけた主を見ると、それはやはりタローだった。

 タローはパイプ椅子に座ってこちらを見ていて、膝上にはノートを置いている。

「……タロー」

「体の調子とかは大丈夫ですか? いきなり水瀬さんが注射を打ったから心配でした。まあ、水瀬さんが言うにはこれ以上騒いでいたら愛鈴さんの体が危なかったからしょうがなくらしいですけどね」

「……その口調を止めてください」

 愛鈴はついタローへそう言ってしまった。彼の今の口調は聞き覚えがある。愛鈴が初めて彼に会った時の口調だ。

 腰を低く敬語を使う。初対面の相手に対してタローという人はいつもそうなのだろう。

 本当にタローは愛鈴を、いやユカリが言うには全てを忘れてしまったのだと改めて分かり、愛鈴は眼を伏せようとした。

 愛鈴の右眼にタローは何か考えるようにしばらく黙り、その後口を開いた。

「分かった。敬語は止める。……で、愛鈴。体の調子はどう? まあ、そんだけ怪我しているのに聞くのもおかしいけど」

「……問題ありません」

 確かに左半身に感覚が無いし上体起こす事もできないが、それは時子に眠らされる前から変わらない。

「そうか。なら良い」

 タローは愛鈴の言葉に多少なりとも安心を覚えたのか、膝の上に置いたノートを二三撫でた。

「……その日記は、ずっと書いてきた物なんですか?」

「らしいよ。俺の記憶ではまだ書き始めて数日目ってところだけど」

 あははとタローは笑い、ひらひらと日記を振った。

「何時から、書いているんですか?」

「一番古い日記は俺がドッペルゲンガーもどきとやらに成ってからすぐに書かれているね。時間で言うと大体二十五年くらい前からかな」

「二十五年……」

 想像以上に長い年月に愛鈴はついタローの言葉を繰り返した。

「それじゃあ、あなたが言っていた『この町に来て一年半くらい』というのは」

「前の俺が何を言ったのかまでは日記に書いて無かったけど、確かに一年半ってのは正確じゃない。日記によると俺とユカリさんがこの町に来たのは八年前。あの時の俺は大体三十歳かそこらの外見だったらしいよ。三十路の自分とか想像できないな」

 やれやれと何でもないように目の前の青年が語るのを愛鈴は信じられなかった。

 彼は全てを失ったのだ。あらゆる物への執着も愛情も全て無に帰し、何も分からない白へと塗り潰されてしまったはずなのだ。

 愛鈴は彼女の右眼に映る青年の笑いが酷く歪に見えた。

「……あなたは何で笑うんですか?」

「ん? ごめん。愛鈴が何でそんな事を聞くのかが分からないな」

「あなたは全てを忘れてしまったのでしょう? あなたが愛した物や、あなたが焦がれた全てへの想いが無くなってしまったのでしょう? それなのに何故あなたは笑っていられるのですか?」

 タローは「ああー」と愛鈴が何故今の質問をしたのかを理解したようだ。

 困ったように彼は笑い、頬を掻いた。

「……本当に全部忘れたからね。何も思わないよ」

「ッ」

 愛鈴は失言を悟り、ユカリが言った〝全て〟という言葉が文字通り全てであると分かった。

 タローは何もかもを、失ってしまった事を悔やむ事も悲しむ事も喜ぶ事もできないレベルで全ての記憶を失ったのだ。

 記憶という根拠が無しに感情という結果を理解できる筈が無い。

 また、しばらくの沈黙が愛鈴とタローの間に流れ、それを破ったのはタローだった。

「……愛鈴。聞かなきゃいけない事がある」

 真面目で事務的な雰囲気の物言いだった。

 愛鈴は小さく頷く。

「何の記憶も無い俺が聞くのもおかしいけど、ユカリさんが、俺が聞けって言うから聞くよ。愛鈴、今の君にはこれからどうするのか選択肢がある」

 タローは一息の間の後、一本ずつ指を立てた。

「一つ。この浮世絵町って街の近くにある屍町とかいう町にの住民になる事。どうやら君はキョンシーとやららしいから屍町にも問題なく住めるだろう」

「二つ。このまま浮世絵町の住民となる事。浮世絵町ならどんな種族の方でも住めるからこれも問題ない」

 タローは指を立てていく。

「三つ。君が暮らしていたという中国にあるオトギの町の住民となる事。これもオニロクさんが言うには許可は取れているらしい」

 三つの選択肢をつき付けられ、愛鈴は沈黙した。これからの事など何も考えて居なかったのだ。

 黙った愛鈴にタローは微笑みながら日記を片手に立ち上がった。

「どの選択肢もこの病院で治療が終わったらする事だから、ゆっくりと考えてくれれば良いらしいよ。じゃあ、また来るから」

 スタスタと言いたい事は終わったかのようにタローは病室のドアへと足を進めて行く。

 それを咄嗟に愛鈴は止めてしまった。

 何故だかは彼女に分からない。けれど、ここで彼を止め、そして答えなければ成らないという漠然とした確信が愛鈴にはあった。

 ゆっくりと考えるのではない。今答えを出すのだ。

「待ってください」

 タローの足がピタッと止まり、彼はこちらへと振り向いた。

「……どうしたの? 寂しいならもう少しここに居るけど?」

 右腕に力を込めて体を起き上がらせようとしたがそれは叶わない。だから愛鈴は右眼でタローを真っ直ぐに見つめた。

 タローも何かを思ったのだろう。穏やかに笑わせていた口元を引き結ぶ。

 愛鈴は躊躇い無く口を開いた。迷いは無い。そうすべきだと確信があったのだ。

「わたしはこの町に住みます」

「……分かった。ユカリさんに伝えておくよ」

 タローは首肯し、病室のドアノブへ手を掛けようとした。

 それを再び愛鈴は引き止める。彼女の話は終わっていないのだ。

「待って! ……待って。まだ話は終わっていません」

 純粋に分からないと言った顔をしてタローは愛鈴の右眼を見返した。

 真っ直ぐに愛鈴は横たわったままタローの瞳を見つめ、赴くままに言葉を紡いた。

 その言葉と共にキョンシーの口からフワフワとした発光球が生み出される。


「お願いです。わたしを超常現象対策課に入れてください」

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