第37話 过去我爱了你--ナナシのオトコ ②

***


 丑三つ時、治療室前のソファに座っていたタローの元へオニロクが現れた。コマメは既に病室に戻り、今は寝息を立てている事だろう。

 タローの外見は未だ影人形のままであり、彼の傍らにはユカリが座っている。彼女の眼は未だ意思を持たず無表情が広がっていた。

 オニロクはその左腕で王志文を俵の様に抱えている。彼の足元でハクが控え、どちらもタローの事を見つめていた。

「タロー君。道士を連れてきた。あの子はまだ治療中か?」

「ええ。治療が終わるまで待っていてくれますか?」

「了解だ」

 オニロクはそう言いながら、タローの向かいのソファに王志文を座らせた。彼の全身には何やら色々な文字が書かれた札が貼り付けられている。おそらくだが、あの庶民派陰陽師後藤が作った札だろう。大方王志文が力を使えない様にしているに違いない。

「何時頃、そいつを引き渡すんですか?」

「タロー君の用事が終わったらすぐだ。病院の前で待たせている」

 未だオトギと人間との衝突があるこの社会で重大な犯罪をしたオトギや人間達は幻影島と呼ばれる収容施設に入れられている。この島は特殊な霧に包まれていて、許可無く入る事も出る事も敵わないらしい。

 王志文もまたこの監獄島に入れられるのだ。

「なるほど。待たせてしまって申し訳ありませんね」

 タローは茶化すように笑った。実のところ愛鈴の治療が終わるのを待つ必要ない。

 これはタローの我儘だ。

 今この場で愛鈴を待たずしてタローの用事を終えても構わないのである。

「まあ、今日くらいは良いじゃないか。新年一日目、普通なら仕事なんてしないものだ」

 仕事人間であるオニロクがこのような事を言うとは意外だったが、自分が知らない色々な面があるのだろうとタローは納得した。

「じゃあ、どれくらい掛かるか分かりませんが待っていていください」

「もちろんだ」



 初日の出が昇る頃、治療室から時子が出てきた。

 彼女は珍しく疲労を隠さずにフーッと深く息を吐き、彼女を見つめるタロー達へ眼を向ける。

「一先ず死ぬ事は無いだろう。キョンシー相手に言うのもおかしいが」

 この言葉にタローは天井を仰いだ。時子の腕は重々承知していたが、それでも絶対ではない。時子が普段から口を酸っぱくして言っている『治療という行為に絶対は無い』という言葉がタローの肩に圧し掛かっていたのだ。

 ここで愛鈴が死んでしまったら何のためにタロー達は骨身を削ったというのか。

 できる事なら、このまま肩の荷が降りた気持ちのまま穏やかに布団へと潜り込みたい者だが、そうは行かない。

 タローにはまだやるべき事が残っている。

「時子さん。あいつは中ですか?」

「ああ、すぐに他の部屋に移すがな。やるなら早くしろ」

 この場に居る誰もがはタローがする事を分かっている。時子の言葉にソファに座っていたタロー達が立ち上がった。

 タロー、ユカリ、そして王志文を抱えたオニロクという順番で治療室に入る。ハクと時子は治療室ドア近くで部屋へと入る彼らの背中を見ていた。

 部屋の中央で治療台に愛鈴が仰向けに横たわっている。髑髏が置かれた傍らで、彼女は左半身を中心に包帯が巻き付けられ、ガーゼが貼られている。ガーゼが貼られた左眼が痛々しい。

 だが、微かに上下する胸の動きにタローは僅かながらも安堵を覚えた。

「ちょっと、そいつをここに連れてきてください」

「分かった」

 オニロクはタローの頼みに王志文を愛鈴のすぐ近くまで連れてきた。

――さて、やるか。

 タローは一度瞳を閉じて左手で後頭部を掻いた後、右手で王志文の頭を握った。

 優男の頭は愛鈴の物より一回りほど大きい。

「……………………名前を返そう。お前の名は王志文だ」

 タローの言葉が終わると共に彼の右手を伝わって漆黒の影が王志文の全身を包み、一秒もしない内に霧散した。

 それと同時にタローの体にあった王志文という存在の感覚が消失する。

 意思を失っていた王志文の瞳に光が戻り、王志文はゆらっとタローと愛鈴を見た。

「…………」

 王志文は何も言わなかった。オニロクに肩を押さえられ、体中を拘束されているのだから何も言わないというより言えないに近かったのだろうが、それでもこの道士の眼は雄弁に語っている。

「こいつは返さないよ」

 タローは王志文を見つめ返す。彼の体は影人形と成っているのだから視線も何もあった物では無いのだが、確かにタローは王志文の瞳を見つめたのだ。

 ゆらゆらと彼の瞳の光は輝いて、愛鈴を見つめている。

 それにタローは言葉を続けた。

「お前は間違えたんだよ」

 その言葉に王志文は微かに眼を見開き、けれどそれだけだった。

 言葉の意味を果たして王志文は理解しているのかどうかはタローにはもう判断が付かない。

「良いかい?」

 もう話す事は無いのだろうと分かったのだろう。オニロクの言葉にタローは頷いた。

「じゃあ、王志文は連れて行こう」

 オニロクは一息に王志文を抱えて治療室のドアから出て行こうと踵を返す。

 治療室からオニロクと王志文が出て行く直前、タローは王志文へと最後の言葉を出した。

「忘れるな。こいつは確かにお前を愛していたんだよ」

「…………」

 王志文からは何の返答も無かったが、タローはオニロクに抱えられたその肩が少しだけ動いたような気がした。

 王志文の記憶、李愛鈴の思い、両方を知ってしまったタローの胸を治療室から出て行くオニロクに抱えられた王志文に対して怒りとも空しさとも言える感情が暴れまわったが、それをタローは表情に出す事はしなかった。影人形と成った体には表情などありはしない。



 治療室にはタローとユカリ、そして瞳を閉じて治療台で横たわる愛鈴のみが残されていた。

 治療室の外では時子が未だソファにでも座ってタロー達の事を待っているだろう。彼女を待たせるのは忍びなく、タローはそろそろ終わらせなければならない事を悟っていた。

 タローは彼の左横に立つユカリの額に触り、短い言葉と共に彼女へと名前を返す。

 一拍の間の後、傍らの少女は名前を取り戻し、すぐさま彼女らしい傲岸な目つきでタローを見た。

「よお、タロー。どうやら上手くやれたみたいじゃないか」

 ニッとユカリは笑い、灼髪が小さく揺れる。

 彼女は何も変わらない。だから、タローも昨日までと同じ様に『まあ、頑張りましたからね。何かボーナス的な物でもくれたらどうですか?』とでも軽口を叩こうとした。

 けれど、タローの唇は横一文字のままであり、言葉を出さなかった。

 タローはユカリの過去を知ってしまっている。昨日までの彼が知っていた彼女からは想像も出来ないような出来事がユカリと言う女性には有ったのだ。

 ゆえにタローは今までのようにユカリと言う女性を見つめる事が出来なかった。

 この二年弱。いや、それ以上に長い時間ユカリはどのような思いの元にタローの事を見つめていたのだろう。

「……ん? どうした? 軽口は無いのか? いつものお前なら『じゃあボーナスプリーズ』とでも言うだろ?」

 ユカリは分かっているはずだ。彼女の名前を奪わせたのだ。ユカリは彼女が隠してきた、いや明かそうとしなかった真実をタローが知ってしまったという事をユカリは知っている。

 タローは知っている。ユカリは暴君であり、傲岸であり、直情的であるが、決して愚かでは無い。彼女は他者の心の機微を読み取れるし、盤面を正しく理解するだけの頭があった。

 そんな彼女が今こうしていつも通りの演技をしているのだ。この意味は読み取ら無ければならない。

 だが、読み取ると同時にその意思を汲むか否かの判断をタローは付けなければ成らなかった。

 タローはユカリへと体をむけ彼女へと右手を出した。

「ユカリさん。手を握りませんか?」

「何だ何だ? お前は手フェチだったのか?」

 ユカリは茶化すようにアハハと笑うが、沈黙を貫くタローにその笑みを潜めた。

 十秒に満たない静寂の後、ユカリは首を横に振る。

「……タロー、ソレは単なる湿った同情だよ」

「ですね。すいません」

 その通りだとタローは思った。今タローがユカリへと向けた感情は同情に他ならない。それも不当に得た物だ。

 タローは失言を認め、頭を振った後、再び愛鈴へと向き直った。

「じゃあ、ユカリさん。また、よろしくお願いします。今年はもう少し素直にお願いしますよ」

「あたしはいつでも素直さ」

 胸を貼る灼髪の少女にタローはハッと笑い、愛鈴の額へ慈しむように右手を乗せた。

「……これからお前は色々と大変だと思う。特に俺が迷惑をかけるだろう。とりあえずよろしくな」

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