第38話 名称未定--影法師と日記帳 ①
薄らとしたまどろみの中、窓から差し込む夕日に愛鈴は眼が覚めた。
キョンシーとなり最早睡眠さえ必要かどうかも曖昧であったが、習慣として染み付いた目覚めの動きに従って、愛鈴の眼は小さく開かれる。
――あれ?
愛鈴は視界に違和感を覚え、しばらくして自分の左眼が何かで塞がれていると分かった。
――……あれ?
愛鈴はその左眼を塞ぐ何かが何であるのかを知るために左手を頭のところまで持っていこうとしたが、左腕はピクリとも動く事が無かった。
先程よりも長い時間をかけて、愛鈴は自分の左腕は肩から先無くなっている事が分かった。
数拍の間、愛鈴は何故自分の体がこのような事に成っているのか分からず、右眼だけで何とか周りを見渡した。
どうやら自分は病室らしき場所に居るらしいと愛鈴は白を基調とした部屋から理解する。
そして、自分が横たわるベッドの右の台に置かれた髑髏を見て愛鈴は全てを思い出した。
――姉、さん。
愛鈴は明鈴の髑髏へ右手を伸ばし、自分が左半身の感覚を失っていると分かる。
左足は残っているようだが、そこに掛け布団が載っている感触が無い。
だが、愛鈴はそのような事を気にしなかった。今はただ明鈴の髑髏へと手を伸ばす。
「……んぅ」
しかし、ベッドから少々離れた位置にある台に愛鈴の右手はギリギリで届かない。体を動かそうにも上手く動かないのだ。
しばし、届かない髑髏へと手を伸ばし続けていると、背中から声が掛けられた。
涼やかな女性の声。どこかで愛鈴は聞いた事があるはずである。
「起きたか」
首を戻して声が聞こえた方へ右眼を向けると、病室のドアは開けられて、そこで水色の縁をしたメガネを掛けて腕組みをした白衣の女性と三日月形に笑みを作る肩ほどまでの灼髪の少女がこちらを見ていた。
メガネの女性とは一度だけ会った事がある。水瀬時子という名前のはずだ。
時子が居るのならここは万年亀病院だろう。
冷ややかな眼差しを崩さずに時子はツカツカと愛鈴のベッド側まで近寄り、愛鈴の顔を見下ろした。一歩後ろでは灼髪の少女がこちらを見ている。
「……説明が欲しいだろう。ユカリ、説明してやれ」
時子は灼髪の少女をユカリと呼んだ。愛鈴の記憶にあるユカリとは年齢が違うように思える。ユカリはもっと大人だったはずだ。髪も腰に届かんばかりまで長かったはずだ。
だが、思い返せばこの少女はあの戦場に居て、王志文と激烈な戦いを繰り広げていた。
何があったのかは分からないが彼女はユカリなのだろう。
愛鈴が黙ってユカリと時子を見ていると、笑みを崩さないまま少女が口を開いた。
「教えてやる。今日は一月八日で、戦いは終わった。あたし達の勝ちでな。お前の主、王志文はあたし達に敗北し、お前達キョンシーを作り出した罪によって幻影島に送られた。幻影島を知っているか? 極悪な犯罪者達を収監する監獄だ。何処にあるのかも誰が監守なのかも分からない。余程の事が無い限りもう会えないだろう」
――そんな。
「…………」
愛鈴は何かを言おうとした。しかし、思いつかなかった。何を言えば良いのか。何を思えば良いのか。何を思うべきなのか。霧散していく感情を保つ事が出来ない。
復讐の相手は最早手の届かない所に居る。
もう、愛鈴には何の目的も無いのだ。生きてきた意味は仮初で、生きていこうと思った目的は倒れ伏した。
これから何をすれば良いのだろう。
愛鈴はもうユカリの話が終わったと思っていた。彼女が自分へと話すべき事は無いだろうと思い、天井へと虚ろに視線を戻そうとした。
その予想は覆された。
「待て待て。愛鈴、お前にはまだ知るべき事がある」
ユカリの言葉に愛鈴は視線を再び彼女へと注いだ。その右眼は虚ろであり、これ以上何を知れというのだろうかとでも言うような色が見え隠れする。
「愛鈴、お前は今回の騒動の中であたし達超常現象対策第六課へと依頼主だ。依頼主なら最後まで聞きどけろ。……と言ってもここで話しても伝わらないから見せた方が早いだろうな」
ユカリは時子へと目配せをし、時子が肩を竦めつつ頷いた。
「車椅子を持ってこよう」
コロコロと車輪が回り、時子が押す車椅子に座らされた愛鈴は彼女が居た階の一番奥にあった病室の前に連れて来られた。膝には明鈴の髑髏が置かれていて、右手で落ちないように押さえられている。
「……誰かが入院してしまったんですか?」
「おお、やっと話したか。そうだ。タローが入院している」
呆気無く言われたユカリの言葉に愛鈴は少し動揺した。
タローは愛鈴に何かをした。愛鈴に残る戦場での最後の記憶はタローが自分に何かをして、その視界が黒に包まれた事だ。
あの全てを塗り潰す黒を愛鈴は覚えている。
あれから何があったのかを愛鈴は知らない。だが、あれから何かがあってタローが入院したのだ。
「どういう、事ですか?」
愛鈴の言葉にユカリは明快な答えを出す事はしなかった。
「さっき言っただろう? 見せた方が早いって。開けるぞ」
ユカリは愛鈴の返事も待たずに病室のドアをガララと引き開けた。
*
そこには一人の少年が居た。ベッドに腰掛けて何かを読んでいる。
――日記?
そのノートはタローが書いていたと言う日記であった。
愛鈴はタローへ声を掛けようとしたが、彼の隣へ眼を向けた時絶句した。
タローの隣、愛鈴が先ほど寝ていた病室と同じ様にタローのベッドの隣には大きくも小さくも無い台があり、その上にはノート達が積まれていた。色々な種類があるが、あれらも日記であろう。
これだけならば愛鈴は口を止める事は無かった。彼女の言葉を詰らせたのは日記の量である。
ノートの数は二百冊を超える。
――何? あの量は?
日記と言う物はそこまで書く物だろうか。いや、愛鈴が知らないだけで書く者も居るだろう。タローの年齢は二十そこそこである事を考えると二百を越える量と言うのは些か異常であったが、それだけの量の日記を書く事があるかもしれない。
愛鈴が絶句したのは日記の量ではない。
タローと言う青年が何故わざわざ病室にて二百冊を越える日記を読み直しているのかという事にだ。
台上のノートの束は二山に分かれている。タローは一冊一冊読み直しているのだろう。
タローは病室に入ってきた愛鈴達に眼を向けることも無くただひたすらに日記のページを捲っている。
こちらに気付いている様子は無い。まるで日記の内容を彼へと刻み込んでいるようだ。
「……タロー?」
愛鈴はつい声を漏らしてしまい、タローの指がパタッと止まった。
タローは日記を閉じて愛鈴へと眼を向けた。
愛鈴の右眼がタローの両目を捉えた。
瞬間、愛鈴は目の前の彼が誰なのか分からなかった。一月近く毎日の様に見ていたタローの眼とは今の様な色が無い物だっただろうか?
――この人は、誰?
タローはしばらく愛鈴の左半分が包帯とガーゼで包まれた顔を見た後、得心が行った顔をした。
小さく微笑んで青年は口を開く。
「ああ、なるほど、君が李愛鈴ですか」
「…………………………え?」
愛鈴は今彼が何と言ったのか理解できなかった。
何だ、今のまるで初対面の相手への挨拶の様な言葉は?
理解が出来なくて愛鈴は絶句したままタローを見つめた。
この様子にタローは何かを思ったのだろう。彼は困った様に頬を掻いた。
「え? もしかして違いました?」
彼の視線は愛鈴のすぐ後ろに居るユカリと時子へと向けられている。
愛鈴も後方の彼女達を見た。
ユカリが笑みを崩さないままに答える。
「いや、タロー、間違っていない。ただお前の事情をあたしが何も説明していないだけだ。こいつはついさっき眼が覚めたばかりなんだよ」
「いや、最低限の説明くらいはしておきましょうよ」
「今のお前を見せてからの方が早いだろう」
ユカリはタローの不満をにべも無く一蹴し、カツカツカツと病室の中央まで歩いた。
病室に居る全員のユカリへと集中する。
「愛鈴、お前にタローが何なのかを説明してやる」
そうしてユカリの口から語られた真実は愛鈴には想像も付かない事だった。
*
曰く、タローは元人間で現ドッペルゲンガーもどきである。
そして、タローというのは彼の本名では無い。
彼は昔人間だけが暮らす町に住んでいて、彼が十九歳のある時、その町にドッペルゲンガーが現れた。
ドッペルゲンガーは自身の名を持たないオトギである。ゆえに彼らは他者の名前を求め、ドッペルゲンガー達は住民達の名前を片っ端から奪っていくオトギなのだ。
彼はその日ドッペルゲンガーに名前を奪われる。彼が襲われた事に理由は本当に無く、運が悪かったとしか言いようが無い。偶々ドッペルゲンガーがターゲットと選んだのが彼だったのだ。
名前を奪われた彼は、友人は愚か家族からさえもその存在を忘れられ、ドッペルゲンガーに成り代られた。
彼はただ独り自分の本当の名を取り戻すため奔走し、その過程で彼は丁度日本を訪れていたユカリと出会った。
それからユカリは酔狂でタローを助ける事にした。ユカリが言うには一人旅にも飽きていたかららしい。
ドッペルゲンガーから名前を取り戻すためには奪われた本人がドッペルゲンガーを殺せば良い。そのため、彼らは逃げ回るドッペルゲンガーを追い詰めて殺そうとした。
実際、これは途中までは上手く行っており、彼はユカリの助力もあって、後一歩までドッペルゲンガーを追い詰めたのだ。
しかし、彼とユカリは最後の最後でドッペルゲンガーから名前を取り戻す事に失敗する。
ユカリには理解できなかった感情だったが、彼はドッペルゲンガーとは言え、一瞬ソレを殺す事を躊躇った。右手に持ったナイフを突き刺す事を躊躇してしまったのだ。
その一瞬の隙に、ドッペルゲンガーは彼の右手にあったナイフを奪い取る。
ユカリはすぐさま火球を放ちナイフを落とそうとした。
が、それよりコンマ一秒早くドッペルゲンガーは放たれた火球を背中で受け、そのままナイフを自分の胸へと刺した。
彼もユカリもその自殺を止める事は出来ず、彼へと成り代ったドッペルゲンガーは凄惨な笑みを浮かべたまま息絶えたのだ。
こうして彼は自身の名を奪ったドッペルゲンガーを殺す事が叶わず、完全に名前を永遠に失う存在へと変貌する。
ドッペルゲンガーが自殺した瞬間、彼の体へ変化が起きた。足元から全身を包み込むように影が伸び、影に包まれた四肢が粘土の様にぐにゃぐにゃに成って行ったのである。
完全に名前を失った事により、彼の存在自体がドッペルゲンガーへと変質しようとしていたのだ。
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