第36話 过去我爱了你--ナナシのオトコ ①

「…………ふぅ」

 タローは小さく息を吐いた。ユカリの影と成った彼の両腕には王志文が力無く抱かれている。

 空に居た炎獣も炎像も緑龍も全てが消え、辺りには静寂のみが残されていた。

 王志文を守らんとしていた残り数体のキョンシー達は王志文が名を奪われた瞬間にその意識を失い、地面へと落下して今も倒れ伏したままである。

 成人男性の重量は少女の姿で支えるのには重く、タローは自身の体を元の青年の物へと戻しながら、王志文の体をその場の地面へ横たわらせた。

 瞳を閉じた王志文の顔はあれ程まで自分達を苦しめた男とは思えないほど穏やかな物だった。

「……もう少し、もう少しだけお前は考えるべきだったよ」

 王志文の全てを知ってしまったがゆえに、タローは彼へと色々な感情が浮かんで来た。

 沈黙を保ったままタローは王志文の顔を見つめ、その間に、前方から愛鈴を抱えたオニロクが歩いてきた。

 オニロクはタローの横顔を見ながら穏やかな声で聞く。彼の着ていたスーツはいたるところが破け、赤銅色の肌が見えていた。

「……奪えたようだね」

「ええ。オニロクさん。こいつを拘束してください」

「分かった。悪いが彼女を抱えていてくれ」

 タローはオニロクから愛鈴を受け取り、こちらをボーっと見ているユカリへ左手で手招きをした。

 白炎のドレスを着た少女は彼女らしからぬ無表情でタローの元へと歩いてくる。

 タローはその顔を素直に見る事が出来なかった。

 ユカリの名を奪ったタローは、彼女が生きてきた人生の全てを知っている。ユカリと言う女性が今まで何をしてきたのか。彼女が何を思って生きてきたのか。その全てを知ってしまっているのだ。

 だが、タローは一先ずユカリに対して言いたい言葉を我慢する事にした。

 今は何よりも愛鈴である。

 彼女の左腕は腐り落ち、その腐敗は左半身全てに広がっている。既に左目は見えなくなっているだろう。

 このままでは日の出を待たずに愛鈴の命が尽きるに違いない。

 しかし、彼女の右腕は髑髏を話さずに硬く抱えていた。

 名前を奪われながらもそれだけは離さなかったのだ。

 タローは迷わずにオニロクへと言った。

「すいません。オニロクさん。俺こいつを時子さんの所へ連れて行きます。後始末をお願いできますか?」

 超常現象対策第一課のリーダーの返事は快諾である。

「任せてくれ。程無くしてハク達がここに来る。タロー君は思うとおりにしてくれて良い。後で私もこいつを連れて万年亀病院に行こう」

 オニロクの言葉にタローは自身の体を愛鈴の影へと変え、それと同時に足元に落ちていた箒をユカリへと渡す。

 力なく地面へと落ちる愛鈴の体を彼女と同じ体格で支えるのは酷だったが、小規模な風を生み出してしまえば造作も無い。

 ユカリは意思を持たない瞳のまま箒へと腰掛けてふわりと飛び、それに続いてタローは愛鈴を抱えて空を飛んだ。

 愛鈴の体へ負担が掛からない程度の速度でタローはユカリと共に夜空を駆ける。

 目指すは万年亀病院。時子の元だ。


***


 オニロクは夜空へと飛び立ったタローの姿を見ながら呟いた。

「……良いのか、出てこなくて?」

「うるさいわよ」

 返事は森の中から聞こえてくる。声が聞こえた場所へ眼を向けると、そこから人間大ほどの九本の尾を持つ山吹色の狐が歩いてきた。

 本来の姿となったココノエである。

「今からでも行ったらどうだ?」

 ココノエの返答をオニロクは分かっていながらも彼女へと聞いた。

 案の定、この妖狐の返答はオニロクの予想通りのものだった。

「嫌よ。この姿をタロー君に見せたくないもの」

 ココノエがこの九尾の姿を成ったら、また人間の姿と成るのに一日という時間が掛かる。彼女は本来の姿である妖狐としての物を頑なにタローへと見せようとしなかった。

「彼はそんな事でお前を嫌う男じゃないだろう」

「当たり前の事を言うんじゃないわよ赤鬼。私がこの姿をタロー君に見せないのは一重に私のためよ」

 ココノエの言い分にやれやれとオニロクは首を振った。

「お前はまだその姿を受け入れられていないのか?」

「オニロク、あなたはやっぱり女心を分かっていないわ。あなたも知ってのとおり、私は妖狐であるけれど、人間として生きてきた。私にとってこの妖狐の姿はただの忌むべき物だわ。確かに妖狐としての私が本来の物なのでしょうね。けれど、私は人としての私が一番好き。なら、人としての自分だけをタロー君に見せたいの。惚れた男に一番自信のある姿だけを見せたいと思うのは女として当たり前でしょう?」

 ここまで言われたらオニロクは何も言い返せなかった。

 ココノエは立派な九尾の狐であり、紛れも無いオトギであった。しかし、彼女は生まれたばかりの頃人間に捕まり、以後人間として育てられてきたのだ。

 これは美談ではない。ココノエの母親を殺した人間達がココノエを利用せんと幼い頃から洗脳してきたのだ。

 ココノエはその千里眼と神通力の力を疑いも無く彼女の母親を惨殺した人間たちのために使っていた。人間達は腹を肥えさせ、権力を手に入れ、唾棄する様な贅に塗れた日々を送っていたらしい。

 また、その間彼女は自分の持つ力は神に与えられた特別な物と信じきっており、自分の事を人間だと疑っていなかったと言う。

 人の耳を持たず、狐の三角の耳を持ち、山吹色の尾を生やしておきながらも、彼女は自分の事を人間だと信じていたのだ。

 そんな彼女が何故その人間達の下から離れ、この浮世絵町に来たのかは不明である。今の話はココノエが自ら過去に酒宴の席で語った物だ。

 オニロクは自身の発言が間違っているとは思わない。

 彼は自信の本質や正体などは正しく受け入れるべき物と考えている。

 けれど、ココノエがそうでは無いという事実もまた受け入れるべき物だとも分かっていた。

 オニロクはそれ以上この件に追求する事を止め、話題を変えた。

「まあ、良い。ココノエ、折角なら手伝っていくか? 仕事が山ほど有るんだが?」

 ココノエの視線がチラッとオニロクの足元で首輪を付けられ、胴を縄で拘束された■■へと向けられた。この首輪はジャック・スパンデュール主導で第三課が開発した物であり、これを装着された者は思考が鈍り力などを使えなくなってしまう。

 オニロクの言葉をココノエはにべも無く一蹴した。

「嫌よ。私がここに来たのはタロー君のためだもの。あなた達を手伝うなんてごめんだわ」

「そうか。なら、礼を言わせて貰おう。助かった。お前が居なければキョンシーに私達は殺されていただろう」

「別にあなたを助けた訳じゃないわよ」

 ココノエは心底面倒そうにオニロクの言葉に返答し、そのまま空へと飛び上がった。

 返事も無く九尾の狐はその尾を眩く山吹色に発光させてタロー達が飛んで行った場所とは別の方向へと飛んでいく。

 オニロクは夜空へと消えた彼らの姿を思い起こしながら、少しの間息を吐いた。

 この町を脅かしていた道士を捕まえたのだ。これでまたしばらくの間は平和と成るだろう。

 それから一分もしない内にハクを筆頭とした第一家の部隊達がオニロクの後方より現れた。

「オニロク!」

 ハクはタッタッタと毛並みを揺らしながらオニロクの足元へと駆け寄り彼を見上げる。

 オニロクはハク達部下をぐるりと見渡し、命令する。

「良く来てくれた。さあ、お前達最後の仕事だ。気合を入れろ」

 部下達は皆強く『おうっ!』と返事をし、オニロクはまた小さく笑った。


***


「…………あらら」

 コマメは月を背に万年亀病院の屋上へと飛んでくる影に溜息を付いた。

 影は二つ。箒に腰掛けた魔女と少女を抱えた少女の姿の影人形だ。

 これが意味する事をこの小豆洗いは良く知っている。

――使っちゃったか。

 コマメは眼を細めた。タローが力を使ったのだ。力を使うならば彼なりの理由があったのだろう。タローは彼の力を正しく理解している。闇雲に使う事はあるまい。

「……さて、仕事か」

 時子の声がコマメの頭上より聞こえてきた。彼女は咥えていた煙草を懐から出した携帯灰皿に押し込んで、夜空から飛んできた患者達を待つ。

 程無くして時間にして二分も経たない内にタローとキョンシーの少女、そして炎の魔女が万年亀病院の屋上へと降り立った。

――やっぱり、名前が分からなくなっているか。

 コマメは額に呪言の札を貼った少女と、箒に腰掛けて白炎のドレスを纏った少女の名前を思い出そうとしたが、彼女達の名前に関わる事だけが思い出せなくなっている。

 一分の期待を込めたが、タローはやはり力を使ってしまったらしい。

 キョンシーの少女の影と成ったタローが音も無くコマメ達の下へと歩いてくる。

「……怪我人は?」

「こいつだけです」

 短い質問にタローもまた短く答えた。その声は紛れも無くあの名前も忘れたキョンシーの物で、鈴が鳴る様な少女の物だ。

 時子はタローに抱えられたままのキョンシーの少女へ眼を向け、その体を二三ペタペタと触り、すぐさま顔を上げた。

「すぐに治療する。運べ」

 その顔はコマメの友人としての水瀬時子の物では無く、万年亀病院院長としての物である。瞳は涼やかに細まり、雰囲気は本物の雪女よりも雪女らしい。

 タローは渋る事も無く時子の言葉に頷き、ばたばたと屋上のドアから出て行く時子を追った。彼の両腕には小柄なキョンシーが抱えられている。

「……僕をタロー達のところに運んでくれるかい?」

 屋上へと残されたこま眼は、彼女のすぐ近くに同じく残された白炎の少女へ声を掛けた。

「ああ、分かった」

 意外だったが少女はコマメの願いを叶え、箒から下りてコマメの車椅子を押し始めた。

「何だ。タロー、気が利くじゃないか」

 タローの意思が入っているのだろう。彼の上司だった少女はタローと全く同じ口調で声を出す。

「だろう?」

 コロコロと車輪は回り、コマメの視線は進んでいく。この車椅子は万年亀病院がその総力を上げて開発した物であり、その車輪は地面へと適切な形に変形する。そのため、コマメの視線は階段をエスカレーターでも下っているかのような感覚でスーッと動いていた。

 時子はおそらくだが一階の集中治療室にでも行ったのだろう。

 屋上から一階までの長くも短くも無い時間、コマメは彼女の車椅子を押す少女と話す事にした。

 今の彼女はタローである。本体である影人形とは意思などを共有していないが、タローの言葉を話すのは確かなのだ。

「ねえ、タロー? 何で僕の見舞いに来なかったんだい?」

「……すまん。お前がそうやって入院したそもそもの原因は、俺があいつをお前に会わせたからだから、どの面下げて会えば良いのか分からなかった」

 分かっていた返答にコマメは瞳を閉じて息を吐いた。

「やっぱり君はサブローとは違う方向で馬鹿だね。僕がそうして気を使われて喜ぶとでも思ったのかい? 君がどんな人間なのかは重々知っているけれど、何度やってもその考え方は変わらないんだね。そろそろ新しい考え方を持ったらどうだい?」

 階段を下りながら、コマメの言葉は滑らかに紡がれていく。

「お前は俺の、タローの〝特別〟だからな。時々、不器用になるのさ」

「不器用って言葉を言い訳にするんじゃないよ。まあ、君の人となりは君以上に知っているからどうしようも無いんだろうけどね」

 コマメは溜息を付いた。今こうして少女と会話しているのが自分の自己満足に過ぎないと分かっているからだ。

 文句の一つでも言わなければやってられない。

「で、今回はちゃんとあの子を助けられたの? あの子もタローの〝特別〟に成ったんだろう?」

「救えはしなかった。壊れる事を止める事も出来なかった。俺に出来たのはただ、壊れ切らないようにしただけ。まあ、これから先に期待ってとこだ」

「また君は、次に次に後回しにして。それで僕達がどれだけ大変か分かってる? 今の君がした行動は明日の君を筆頭にその周りへと被害が広がっていくんだよ」

 コマメの悪態へ少女は素直に謝った。

「すまん。迷惑かける。どうにか手伝ってくれ」

 その素直さにコマメはまた息を吐く。このタローという男は妙な所であっけらかんと頭を下げるのだ。

「良いさ。君は僕の大切な常連客だからね」


 そうこう話している内に、コマメ達は一階へと到達し、集中治療室の前まで到着した。

 治療中のランプが着いた部屋の前で元の青年の影の姿に成ったタローがソファに座っている。キョンシーの治療を待っているのだろう。

「やあ、タロー」

「久しぶり、コマメ」

 コマメの言葉にタローは彼女へと顔を向け、頬を掻いた。影人形と化したその顔からは表情を伺う事は出来ない。が、コマメは、今タローは苦笑しているのだろうと分かっていた。

 もう八年にも成る付き合いなのだ。見えなくとも表情ぐらい読み取れる。

 コマメは魔女の少女に車椅子を押してもらい、タローの目の前までその体を進めた。

「タロー、僕に何か言う事は無いかな?」

「……見舞いに行かなくてごめん」

「よろしい。以後気を付ける様に」

 コマメは両腕が動かないから胸だけで踏ん反り返り、その後、彼女らしく仄かに微笑んだ。

 それは双方にとって意地悪な言葉である。けれども、彼女の本心でもあった。

「あけましておめでとう。タロー、今年もよろしく」

「……ああ、あけましておめでとう。今年も大福期待しているよ」

 困った様に眼を細めているタローの顔がコマメには見えた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る