第31話 色即是空--我思う、されど我無し ③
***
「アイリン!」
頭上より降り注ぐ激烈な炎の雨音の中、愛鈴は自分の名前を呼ばれた気がした。
しかし、声は音としてのみ愛鈴の鼓膜を震わせて、言葉としての意味を彼女の脳に伝えはしなかった。
もう、脳はグズグズと成ろうとしている。左目は既に見えなくなり、脚の感覚さえも消え始めていた。
彼女の意志を保っていた者は唯一つ。残った右腕で胸に抱いた最愛の髑髏のみ。
明鈴の頭骨を抱き、愛鈴は真っ直ぐに自分と同じ様に雨に打たれている王志文を見つめた。
王志文はキョンシー達を傘として炎の雨を防いでいた。村人達の体は雨に打たれる度に爆散し、みるみるとその数を減らしていく。
ただの肉と化していくかつての村人達の姿に愛鈴の心は揺れなかった。感情はもう消えている。無感動に愛鈴は眼前の王志文を殺す事だけを考えていた。
けれども、激烈な炎の雨は愛鈴の自由を奪い、彼女と王志文の体をどんどん地上へと落としていく。
雨には終わりが見えず、ただ愛鈴は耐えるだけだった。
気付いたら王志文を殺すよう命じた龍は自身の体を傘にして愛鈴を守り、炎の雨に打たれてその体を四散させている。
この雨が消えても消えなくても、地上に落ちた瞬間、新たなる龍を作り出そうと愛鈴は決めていた。それで自分の体が完全に腐り落ちてしまったとしても構わない。王志文を殺せればそれで良かったのだ。
その時、愛鈴の視界が突如として塞がれた。微かに残った触覚と隙間から見えるぼやけた視界から何者かが自分の顔を掴んだのだと理解した彼女は、即座にその不届き者を焼き殺そうと緑炎を生み出そうとする。
だが、現実は愛鈴の全てを凌駕していた。
「ナナシノタロー!」
腹と胸の間の辺りから、聞き慣れたような声が音として愛鈴の耳を震わせた直後、愛鈴の世界は本当の意味で黒に包まれた。
黒。
くろ。
クロ。
彼女の額を掴んでいた何者かの右手からドロ墨汁が溢れ出す様にドロドロとした影が生まれ、それが愛鈴の全身を包み込んだのだ。
――――ッ!
叫びを上げながら愛鈴は自分を包んだ影を風で振り払おうとした。
出来なかった。
風が産まれない、否、風の産み出し方が分からないのだ。
つい先ほど一秒前までは呼吸をするのと同じくらい自然に扱えていた、あの暴風の作り方を愛鈴は分からなくなっていた。
では、あの紫電は、あの緑炎は?
どちらも同様だった。彼女の手足と等しいくらい自分の物としたはずの力が、愛鈴には分からなくなっていた。
影に飲み込まれた愛鈴の力の全てが黒に埋没していく。
風とは何? 雷とは何? 炎とは何?
ここは何処だ? 今は何時だ?
それさえも愛鈴には分からなくっていた。
何だ? 一体何が起こっている? 何が何が何が何が何が何が何が何が何が?
愛鈴の脳が正常であったのなら、また、その胸に髑髏を抱いていなかったのなら、彼女はすぐさまパニックを起こしていただろう。
愛鈴は何もかもが分からなくなっていた。
自分と言う存在が今何処に居て、何を思い、何をしていたのか。
全ての情報が黒に塗り潰されていく。
早く、早く早く早く。この場から逃げなければならない。そうしなければ自分は大切な何かを失ってしまう。そんな確信が愛鈴にはあった。
しかし、全てが、全てが黒に包まれて、黒に塗り潰されて、黒に埋め尽くされていく。
その時、唐突に、愛鈴の耳元で声が聞こえた。
「李愛鈴。お前の名を奪おう」
この声を皮切りにとうとう彼女は自分の名前さえ分からなくなった。
***
――何だ? アレは?
王志文は自分の視線の先に映るモノが何なのか分からなかった。
頭上に落ちる炎の雨さえ気にならない。王志文が見た事無いナニかがそこには居たのだ。
ソレはつい先ほどまで人間だったはずだ。タローと呼ばれていた青年で、ドーマンとセーマンだけの陰陽術を使っていた、ただの凡百な男だった印象しか王志文には無い。
けれど、今タローと呼ばれていた者は真っ黒なナニカに包まれていた。足から旋毛まで全てが影で包まれて、口も瞳も何もかもが黒く染まり、立体化した影絵の様だった。
影絵、そう影である。あの男を包み込んだ黒いナニカの正体は影であると王志文は瞬時に理解した。
ソレはまるで光沢を消した黒いマネキンの様だった。何処までも吸い込まれてしまいそうな黒い人型がそこにはある。
その影人形は王志文の愛する□□を左腕で抱き抱え、右手でその額にあの呪言の札を貼っていた。眼球さえも黒に塗り潰されたそのシルエットからは表情を伺う事が出来ない。
「何をした?」
たった今、影は□□の頭を掴み、そして彼女の体もまた自身と同じ様に真っ黒な影で包み込んだのだ。
黒い影に全身を飲み込まれた□□のは音も無くその全身から力を無くし、影人形へと抱きとめられる。
□□を包んだ影は黒いソレに抱かれた瞬間、ソレの体へと飲み込まれ、□□の白魚の如き肌が再び外気へと晒される。
その瞳は閉じられて、力無くした首からは生気は感じられない。けれど、その残った右腕は李明鈴の髑髏を抱えたままである。
それらは一瞬の出来事で、降り頻る雨の所為で王志文は止める事が出来なかった。
「私の□□に何をしたっ?」
王志文は今自分に起きている事が信じられなかった。
今、□□の額に王志文が作った札が貼られているにも関わらず、□□と自分の間に道力が繋がっていないのだ。
気が付いたら炎の雨は止んでいた。
だが、王志文は動かなかった。動けなかった。彼の周りには炎の雨の中体を残した十五体ほどのキョンシーが居たけれど、それにさえ気付く様子は無い。
生涯の最高傑作と自らの間にあった霊的な繋がりが、全て掻き消されていたのだ。
「こんな、馬鹿な話が、あってたまるか」
王志文の手が戦慄いた。
この一瞬の間に、全てを犠牲にして、全てを捧げて、全てを賭して、遂に天がもたらした奇跡の傑作が、製作者である自分の物では無くなっていたのだ。
傍らに居た鬼に守られる様に、ソレが口を開いた。いや、口を開いたかどうかは王志文には分からない。けれど、ソレの口の辺りから明確に言葉が発せられたのだ。
「なあ、王志文。お前、こいつの〝名前〟が分かるか?」
一瞬、王志文はソレが何を言っているのか理解できなかった。
そして、数拍の間の後、理解した。
自分が愛した、作品の名を王志文は分からなくなっていた。
王志文は眼を見開いた。この様な現象聞いた事が無い。記憶を奪うオトギならば確かに居るが、王志文は今自身の記憶を奪われるような攻撃を受けていないのだ。
では、何故、王志文は□□の名が分からなくなっているのだ。
「お前は何者だ?」
王志文の言葉にソレは□□を抱えたまま、自嘲混じりな声を出して返答した。
「ただの名無しだよ」
――何?
と王志文が言葉を続ける前に、ソレは右手振り上げた。
「影が映すは真なり」
瞬間、ソレのシルエットが変化した。成人男性の黒い影から小柄な少女の物へ、更に具体的に言うのなら、ソレが左腕で抱える□□のシルエットと全く同じ物へ。
□□が無くした左腕があると言う点以外は全てが同一の顔無しの影がそこにはあった。
「王志文。お前にこいつは渡さない」
声も変化した。□□と全く同じ高い鈴がなる様な少女の物へと。
「現れろ」
□□を抱えたソレの背後に巨大な龍が現れた。
龍の体は渦巻く竜巻で出来ていて、牙と爪は紫電を纏い、緑の鱗は緑炎である。
寸分違わぬ、□□が召還したあの龍がソレの背後にはあった。
――馬鹿な。
何故、□□が到達した極致をソレがこうも簡単に使えているのか、王志文には分からなかった。
「行け!」
□□の影となったソレは号令し、緑龍がその大口を開けて王志文へと突撃した。
***
――ここで終わらせる。
タローは自分が生み出した緑龍に王志文が顔を強張らせながらも、赤、青、黄、黒、白の五匹の龍を生み出したのを見た。
咄嗟に龍を五体生み出すとは恐れ入るほどの神業であったが、それでも苦し紛れに生み出された龍如きが今の、タローの、李愛鈴の全てを込めた緑龍を止められる筈が無い。
果たして、タローの予想通りであり、緑龍は五色の龍達を振り払い、そのまま彼の紫の牙を王志文へと突き立てた。
王志文を守る様に五匹のキョンシー達が飛び出した。それらは何れも四肢の何処かが千切れている。ユカリの火球を受け辛うじて体を残した個体達だろう。
おかしな表現だが、タローにはキョンシー達が誰だか一目で分かった。村はずれに住んでいた若い夫婦に、愛鈴が通っていた学校の年が少し離れたクラスメイト達である。彼女が居た村は小さな村だったから学校は基本的に他学年が同一のクラスで授業をしていたのだ。
「ごめんな」
自分でも高く細くなったと実感できる声でタローは短く謝った。
紫の牙がキョンシー達の体を貫くと同時にタローの胸を張り裂ける様な痛みが襲った。李愛鈴が持っていた彼らとの思い出がタローの頭をぐるぐると走り回る。
――っ。
感情を振り切る様にタローは短く再び龍へと命じる。
「躊躇うな!」
龍の大口が王志文を包み込もうとしたが、王志文は一歩早く、赤の紙を地面へと投げ付けてそれを爆発させた。
「くそっ!」
悪態を付きながらキョンシー達と共に爆風に乗って王志文は空へと逃げる。
だが、そこには既にユカリが居る。
王志文の目線の先に、二百の炎像に寄る舞踏会を開き、優雅に箒へと腰掛けた白炎のドレスの魔女が笑っていた。
王志文に残ったキョンシーの数は十体のみ。
赤の女王は短い灼髪を風で揺らして、ピストルの形にした右手を王志文へと向ける。
そして、ユカリはその指先から螺旋の炎をかたどった銃弾を撃ち放ち、それと共に周りに控えていた炎像達も王志文へと突貫した。
同時にタローの緑龍もまた頭上の王志文へと牙を見せながら昇りつめた。
王志文の前方からは炎の淑女達が、下からは龍が迫り来る。
しかし、ここで王志文が眼の色を変えた。丸メガネの奥の瞳はカッと見開かれ、彼は懐から大量の赤、青、黄、黒の四色の紙と鉄串を取り出してそれを残った十体のキョンシー達へ投げ付けたのだ。
四色の紙は一本の鉄串に縫い付けられ、一体のキョンシーに五組ずつの鉄串が突き刺さる。
「『纏え』!」
王志文の声の下、キョンシー達の体に変化が起きた。
瞬時に千切れた四肢の切断面から骨格の様に枝が生え、それに肉付けをするように土が貼り付いて見た目の上では両手両足を再生させ、それと同時にその体全体を白銀の甲冑が包み込む。
「まだそんな隠し玉を持っていたのか!」
ユカリが感嘆の口笛を吹き、それと同時に全てのキョンシー達の顔に能面の如き白銀の仮面が貼り付いて、右半身を緑炎が左半身を紫電の混ざる水が包み込んだ。
「『殺せ』!」
銀の鎧を着たキョンシー達とユカリの騎士達が激突し、瞬時に炎像達が消し飛んだ。
そして、タローが放った緑龍の牙は鎧に包まれたキョンシー達の体を貫く事ができず、四体のキョンシー達によってその攻撃を止められる。
それでも力の差自体は依然として変わらない。
「くらいな!」
ユカリの炎によってキョンシー達の体は抉られ、四散する。
「叩き潰せ!」
タローの龍によってその体は潰されて四肢は捥げて行く。
しかし、瞬時にキョンシー達の体は再生した。
腕が捥げたならば、捥げた瞬間にそこから枝が生え、土が肉付けし、銀の鎧が生まれる。
体が潰されたのなら風船を膨らませる様に水と火が入り込みすぐさま元の体型へと戻していった。
――あれは……。
正確では無かったが、李愛鈴の影の格好をしたタローには王志文がキョンシー達に何をしたのか分かった。キョンシーの体を持つ愛鈴だからこそ理解できる事である。
今、あの道士はキョンシー達の体を作り変えたのだ。骨は木に、肉は土に、仮初の命を仮初の体に宿らせて、それらを閉じ込める様に白金の鎧を纏わせて、火と水を全身に走らせる。
タローは舌打ちをした。愛鈴の影の体では高く可愛らしい音が鳴ったけれど、彼の胸中は怒りで満ちていた。
「オニロクさん、こいつをちょっと頼みます」
タローは傍らで自分を守るオニロクに声を掛け、彼に触れ無い様に愛鈴の体を預けた後、返事を待たずに眼上で戦う王志文の元へと飛んだ。
この体ならば、愛鈴の影としてならばタローは跳ぶ事も飛ぶ事も出来るのだ。
瞬く間にタローの体は上空三十メートルへと到達し、彼の眼と鼻の先には暴れ狂う緑の龍を背景に、炎の舞踏会をする白銀のキョンシー達が居た。
王志文が白炎のドレスを棚引かせるユカリ真正面から撃ち合いをしていた。
王志文の弾丸は五色、水を出し、火を浴びせ、木を育て、土塊を溢れさせ、鉄槍を召還する。
対してユカリの弾丸は一色のみ、赤く紅く燃える白炎のみ。
タローは王志文へと怒りを叫んだ。これは愛鈴の怒りである。
最早、あのキョンシー達は人ではない。確かにキョンシーと成った時点でそれは人ではなくオトギの一種だったが、そう言う事ではない。
王志文の生涯の目的はあくまで人の延長として、人を超えた作品を作り出す事だった。だから彼は化け物を作り出せば良いのに、わざわざ人間の愛鈴達をキョンシーとしたのだ。
だが、今タローの前に広がるアレらは何だ?
骨は木となり、血肉は土塊。流動する銀を纏わせて炎と水の瞳を持つ。そんな物が人の延長であるはずがない。
感情に任せてタローは激昂した。
「ふざけるな! お前はわたし達を〝こんなモノ〟にしておきながらあっさりとそれを捨てるのか!」
怒りに呼応して、緑の龍の体中から紫電を発し、彼に纏わり付く四体のキョンシーをバラバラにしながら弾き飛ばした。しかし、すぐさまそれらの体は再生し、王志文へと向かう龍の進路を阻んだ。
タローは自身の体へと問い掛けた。あのキョンシー達を蹴散らす手段を自分は持っているのか。答えは否である。緑龍は愛鈴の中で最強の威力を持つ技なのだ。
龍の牙は王志文へ届かない。
ならば、自分が行く。
「お前の名を奪ってやる」
タローは全身に緑炎を纏わせ、その額からバチバチと紫電を出し、更に両腕の先へ小さな竜巻を生み出しながら王志文の元へと飛んだ。
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