第27話 捲火重来--Happy New Year ! ③
***
そして、
――姉さん?
そう、口を開く前に、〝ボトッ〟という音が愛鈴の左耳に届いた。
見ると、そこには〝右腕〟があった。
明鈴の肩口から腐り落ちた、捩じれた白魚の様に白い〝腕〟が無残にそこには落ちていた。
「……………………………………え?」
愛鈴は自分の瞳に映る物が何なのか理解できなかった。
何故、ここに明鈴の腕が落ちているのか。何故、最愛の姉の腕が体へと繋がっていないのか。
何故、何故、何で?
呆然と愛鈴は最愛の顔を見た。
明鈴は彼女の妹へ眼を細めて微笑みを浮べている。
体中を針で刺された様な痺れが愛鈴の全身を走った。
逃れる事のできない悪夢が大口を広げて待っている。
一音一音噛み締めるような最愛の姉の言葉が愛鈴の耳へと届いた。
「愛鈴。忘れないで。私はあなたを愛しているわ」
その時、腐敗が始まった。
白魚のように真っ白だった明鈴の顔がどんどん黒ずんでいき、
パッチリとしていた眼が醜く窪み始め、
強烈な腐敗臭が愛鈴の鼻へと届いた。
「……え? え?」
呆然と愛鈴は声を出すしかなかった。どんどん腐っていく姉の姿をまざまざと眼前で見る事しかできない。
ボトッ。
愛鈴を撫でていた左手が愛鈴の肩へ落ち、背中を転がって地面へと落ちた。
「アイ、シテルワ」
声帯も腐ったのか、彼女の鈴の様だった声が野太く気持ち悪い物へと変わり、愛鈴の耳へと下劣な音色を響かせた。
「ねえ、さん?」
腐敗の加速は止まらない。
ボトッ。ボトッ。
明鈴の右頬が腐り落ち、続いて右眼がボロンと転がり落ちた。真っ黒な眼窩と落ちた右眼には腐汁の白い糸がタラーッと繋がっている。
ボロッ。
明鈴の左耳が落ちた。左耳があった場所から黄白い腐汁がブジュブジュと噴出す。
瞬く間に明鈴の体が崩れていった。
これはもう回避する事のできない悪夢だった。
愛鈴は忘れていたのだ。今、自分の体がどんな状態のあるのかをすっかり忘れていたのだ。
王志文の前で札を剥がしたあの瞬間から、自分の体が腐り始めたと分かっていたのに。愛鈴はその事実を忘れていたのだ。
王志文のキョンシー達は札を貼られていなければ死にながら生きていけないのだ。
これは、悲劇だった、体が腐っていくと同時に、複雑な思考ができなくなっていた愛鈴の頭では明鈴の札を剥がしたら最愛の姉がどうなってしまうのかまでは考える事ができなかった。誰が愛鈴の立場に成ったとしてもこの悪夢を回避できなかっただろう。
グジュグジュのプリンのように成っていく脳では、まともな思考は出来なかった。
むしろ、愛鈴が明鈴の札を剥がす事を思いついた事さえ、称賛に値する奇跡だった。
だが、奇跡が幸福を呼ぶとは限らない。
少なくとも今この場に置いて、最愛の姉を救いたいという愛鈴の想いが、最愛の姉を腐り落とすという悪夢を生んだ。
もしも、愛鈴の思考が正常であったのなら、愛鈴は明鈴の札を剥がした時に起こる事が予想付き、もっと他の手段を考えて居ただろう。
また、もし明鈴のキョンシーとしての完成度が愛鈴と同程度以上であったのなら、ここまですぐに腐敗していく事は無かった。
愛鈴はなまじ完成度の高いキョンシーであったがゆえに、愛鈴に比べ格が落ちるキョンシーである最愛の姉が札を剥がされる事で辿る結末を思いつく事さえできなかった。
全ての要素が今この場に起こる悲劇を形作り、それを避ける選択肢は確かにあったが、愛鈴はその選択肢に気付く事ができない状況に居たのだ。
「い、や」
愛鈴は自分の赤いチャイナドレス然とした服が腐汁で汚れるのも構わずに明鈴の体を抱きとめた。
ブジュ、ニチャ、と湿っぽい音が愛鈴の胸や肩を鳴らした。
「止まれ。止まれ止まれ。止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ!」
狂ったように愛鈴は叫ぶ。
それでも、明鈴の腐敗は止まらない。
ボトッ。ボトッ。
今度は右耳が落ち、左眼が落ちた
「――、――――」
もう、明鈴は声すら出せなくなった。
「ねえ、さん。ねえさんっ!」
愛鈴は願うように強く明鈴を抱き締めるが、その力でボキンと明鈴の背骨が折れる。
「――、――――」
腐敗は止まらない。
加速的に明鈴の体が腐り落ちていく。
明鈴の顔の肉は大半が削げ落ちて、頬骨が見え始めていた。
「いや、やだよぉ。いやだよぉ」
愛鈴の祈りが叶えられる事は無い。
既に悪夢は始まっていて、悲劇は終わっている。
***
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!
ドォン、ドォン、ドオオオオオオォォォン!
百八つの除夜の鐘が鳴り響き、花火が夜空を彩る中、タローの視線の先に戦場が再び見えてきた。
戦場にはタローの知らない間に高い高い土壁が生えている。
記憶している限りのこの場に居るはずのローの知り合いの中であの土壁を生やせる者は居ないのだから、あの土壁を生成したのは王志文であろう。
ドーン、ドーン、ドドドドドドドーン!
去年初めて見た時、腰を抜かすほど驚き、美しさに見惚れた花火は今、タローの眼には入らない。空には今あの時と同じ美しい花火が咲き誇っているのだろうが、それに眼を奪われている時間と余裕は無い。
分身体に抱えられていたタローはどうやら愛鈴が居る側の方角へと飛ばされた様であり、戦場へと直線に最短で返り咲いたタローの視線の先に愛鈴が居た。
はたして、それは幸運だったのか。それとも不幸だったのか。タローには判断がつかなかったが、とりあえずタローは幸運だと思う事にした。何か二択の評価を迫られた時、プラスの方を取るのがタローという青年であるとタローは良く知っている。
愛鈴はこちらへと背を向けて、何かを抱えるように蹲っていた。
タッタッタっと分身体と共に森を抜け、タローは愛鈴のすぐ後ろで足を止めた。
愛鈴の服は間近で見ると色々な所が擦り切れている。
全力で仕事をし続けた肺を休めるため、息を少し乱しながらもタローは愛鈴の小さな背中へと声をかけようとし、
「ッ?」
鼻へ届く強烈な腐敗臭に顔をしかめた。
あまり物を腐らせた経験が無かったけれども、タローにはこの鼻腔を貫く香りが肉を腐らせた事に依る物であると本能的に分かった。
嗅いだ事の無い、鼻を圧し折る様な吐き気を催す臭い。
それがタローの眼前に居る愛鈴から発せられていた。
――なんだ、これ?
タローは息を整えて、ゴクリと生唾を飲み込んだ後、眼前の小さな肩へ声を掛けた。
「……愛鈴?」
タローの言葉が届いたのか、愛鈴は肩をピクッとさせる。
「タ、ロー?」
愛鈴が抱えていたナニカと共にタローの元へと振り返り、彼は絶句した。
目の前の少女が抱えていた物が一瞬何なのか分からなかったのだ。
ぬちゃぬちゃと腐りに腐った白い肉に包まれた球体状のナニカを愛鈴は至極大切に抱えていて、泣き出す寸前の様な、笑い出す寸前の様な、訳の分からない表情でタローを見ていた。
――骨、か?
三秒ほどしてタローは愛鈴が抱えていたナニカが腐肉の纏わり付いた髑髏(しゃれこうべ)であると分かり、それゆえに何も言い出せなかった。
激烈な腐敗臭。
腐った肉に包まれた髑髏。
それを守るように抱く不気味な表情を浮かべる李愛鈴。
その全てがタローに言葉を発せさせることを躊躇わせた。
見ると、愛鈴の膝すぐ側にはキョンシー達が来ていたあの黒い道士服が落ちていた。これも腐肉と腐汁に塗れていて、ところどころから骨が見えている。
タローが何も言わないからか、それともタローの言葉など何も聞いていなかったのか、愛鈴は焦点の合わない、笑いそうに頬が歪んだ顔でタローへと口を開く。
「タロー、ねえさんを、たすけて」
そう言って愛鈴は宝物を見せる様に、抱えていた髑髏をタローへと伸ばした。
ボトッ。
と、髑髏から右眼が粘液を伸ばして転げ落ちる。
タローは眼を見開いた。
元がどんな顔だったのかすら分からない。腐肉が纏わり付いた骸骨はその真っ黒な眼窩でタローを見つめていて、今にもカラカラと歌い出しそうにも見えた。
必死に後ろへと後ずさりしようとする右足をタローは留めた。今、ここで逃げてはならない。逃げるという行為すら見せてはならない。
目の前に居る少女はおそらくもう壊れている。
「おねがい、ねえさんを、たすけて、ください」
タローは必死に脳を回した。答えるべき回答は何であり、この場で取るべき選択肢は何であるのか。
どの選択肢を選べば愛鈴を救う事ができるのか。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン! 土壁の向こうから轟音が聞こえる。見ると夜空に火が灯っていた。
ユカリが蘇ったようであるが、それはこの場を好転させるのには至らない。
とうにハッピーエンドは望めない。それは明白であるとタローは分かった。眼前の少女は絶望の谷に落ちていて、蜘蛛の糸すら底には届いていない。
彼女が絶望から脱するための手段はこの場に示されていない。
ならば、愛鈴を救うためには、彼女を地獄から引き上げるためには、タローに何ができるのだろう。
――……俺には無理だな。
諦観でも何でもなく純然たる事実としてタローは自分では愛鈴を地獄の底から救う事ができないと理解した。
なぜなら、何と無しに次に愛鈴が言う言葉をタローは分かっていたのだ。
「タ、ロー、ねえさんを、ねえさんをもとに、もどしてぇ」
タローは瞳を閉じた。愛鈴の姿は痛ましく、けれど、彼女が望む返答を自分はできないと悟っていたからだ。
別にタローは嘘が嫌いではない。自分は嘘が上手い人間であると知っていたし、今まで何度も嘘を付いてきたのだろうと分かっていた。
しかし、今この場で愛鈴を騙せるだけの嘘をタローは言えなかった。タローが嘘を上手く付けるのはあくまでタロー自身の事についてだけなのだ。
「…………」
そのタローの眼を見て、悟ったのだろう。
愛鈴の瞳から微かに残っていた虹彩が消えた。
再び愛鈴は顔を伏せる。
肩はすすり泣く様に上下していたが、嗚咽の声はタローの耳に届かなかった。
あまりに痛々しい姿に声を掛ける事すら躊躇われるが、今、この場から愛鈴をタローは連れ出さなければならない。
すぐ側で王志文が未だ愛鈴を狙っているのだ。
「愛鈴?」
そして、タローが愛鈴に声を掛けたと同時に、
「アハッ」
と、愛鈴が笑い出し、その周りからビュウビュウと風が吹き始めた。
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