掌編:This story is mine,and not mine.
日向日影
食パンにイチゴジャム
朝の10分というのは、なぜすぐに過ぎ去ってしまうのだろう。
僕は、目玉焼きを作りながら、そんなたわいもないことを考えていた。
どうしても時間がないので、全てのことを気にしてはいられない。だから僕はコショウをかけすぎた目玉焼きを作り直すこともなく、彼女に申し訳ない顔をしながらテーブルへ置き、たとえ彼女がそれに何の返事をしなくても気にすることもなく冷蔵庫へ向かう。マーガリンと牛乳を取り出したところでちょうどトースターが甲高い焼き上がりの音をあげた。
テーブルにマーガリンと牛乳を置いてから左手で戸棚を開け皿を取り出すと、右手で食パンを取り上げ、手が熱さに負ける前に皿の上へと乗せる。少しパンくずをこぼしてしまったが、これは帰ってきてから掃除機をかけるしかない。とにかく朝は時間がない。
皿をテーブルに載せると、座る前にクローゼットへ向かい、ジャケットに除菌消臭スプレーをかける。今、かけておけば、ちょうど食事が終わった頃には乾いているだろう。席に座ると、さっきからずっと椅子に座っていた彼女を見つめる。彼女は椅子に座ったまま下を向いている。表情は特に変化もない。最近、朝はずっとこんな感じだが、もともと彼女は朝が弱かったから仕方がない。彼女が普段見せてくれる笑顔を思い出しながら、「いただきます」と小さく声に出した。
彼女と僕は、高校の同級生だった。
高校に通っている頃は何度か言葉を交わすぐらいだったが、卒業して僕が専門学校に通っている頃、SNSで同じ高校卒業者のコミュニティで彼女のページを見た時に同じアニメが好きなのを知ってから仲良くなり、どちらから言うこともなく付き合うようになった。互いに初めての恋人だったけれども、将来は結婚できたらいいねと、すぐに言い合うようになった。
僕は専門学校を卒業すると、契約社員の仕事についた。その頃僕より出来のいい弟が高校生になったから、一人で集中できる勉強部屋を作ってあげるために一人暮らしを始めると、もともと家族と色々あった彼女が一緒に住むようになった。
それから2年半、色々あったけどこうして二人で暮らしている。
パンはしっとりと甘く、マーガリンを塗らなくてもいいのではと思えるようなものだった。彼女が隣の駅の辺りにあるスーパーのパン屋で見つけてきて以来、定番となっている。彼女がこのパンをいちごジャムを口につけながら食べる姿が好きで、たまに僕が仕事の帰りに少し遠回りして買いにいくようにしている。僕がこのパンを半熟の黄身につけて食べると、彼女はいつも、信じられないと言わんばかりの呆れ顔をするのだ。
「おいしいから、たまにはやってみなよ」
と何度言っても、彼女はいつもそれを断って嬉しそうにパンを赤く染めていくのだ。
そんな何気ない朝食の風景が、ちょっとの揉め事はあるとしても、いやあるからこそ、何よりかけがえのないものだった。この姿があるから、自分は頑張れる。今までも、これからも。
電源のついていないテレビの上にある時計を見ると、出なければならない時間だ。まだパンは少し残っているが、時間もないので涼しい戸棚にでも閉まっておいて帰ってからまた食べよう。彼女も、家で待っていてくれる。
コップ一杯の牛乳を一息で飲んでから、そろそろ乾いたであろうスーツに視線を送った時、この時間には珍しい呼び鈴が鳴った。
ここの大家は勘がいい。
アパートの2階に上るとすぐに俺はそう感じた。住人の苦情を聞いて離れたところにある家から車で向かったという大家が、電話をした水商売の女以外で唯一住んでいる住人の部屋の前でその臭気を感じると、午前7時という時間もかえりみず、慌てて連絡したのだという。自分で対応しようとしなかったのは、正しい判断だ。
「鍵を開けましょうか」
と、鍵の束を握りながら大家が声をかけてきた。俺はそれを手で制する。
眠たそうな目で事情をぼやくように話した水商売の女と大家の話を合わせると、ここは2年半前に男が一人で契約したが、すぐに女が同棲してきたという。本来は契約違反だが、これ以上空室を増やすわけにもいかないので大家も黙認してきたのだそうだ。1階の住人が昨日も男を見ているが、そういえば最近女を見ていないと話してくれたので、つまりはそういうことなのだろう。だとすれば、強引に鍵を開けるのはできれば避けたい。暴れたり、自殺されそうになった時に、止めるのが苦労するからだ。まずはノックをして、住人に開けてもらうのがいいだろう。
それにしても、マスクをしていてもこの生ゴミの中にもつ煮込みと魚卵の生臭さを凝縮してつぎ込んだかのような臭いは耐え難い。左後方に目をやると、後輩が手を押さえながら恨めしそうにこっちを見ている。俺はその後輩を、大家や住人に見えないように軽く小突くと、意を決して小さく声を出す。
「離れてください」
大家が数歩離れたのを確認してから、チャイムの呼び鈴を鳴らす。静かな朝に、臭気と、ピーンポーンと機械的な音色だけが響く。このあたりは正直さびれているから子どもも少ないのだろうか。登校する児童の声というのも聞こえない。気づけば俺は息を殺していた。昭和時代から存在するのが一見するだけでわかるこの古アパートに調和する、いかにも重そうな深緑のドアが俺と後輩の前で不気味な存在感を放っていた。俺は後輩や大家に何かを言うこともなく、ただその深緑色を見つめていた。気づけば三人とも呼吸を止め、ただ、この臭気と重苦しさに溢れた世界が変化することを望んでいた。
いったい何秒経っただろうか。チャイムの余韻もすでに住宅街に消え去り、二度目のチャイムを鳴らすか、ドアを直接ノックするか悩んでいると、世界が、もう、戻れないということを告げる、カチャッと言う音がした。俺は顔を上げ、ドアが少しずつ開くのを見つめている。きっと後輩も同じだろう。ドアはやはり重そうに少しずつ開いていく。これは、きっとこのドアの向こうにいる男の心が反映しているのだろうし、これから、俺と後輩と大家、そして扉の先にいる一人、いや、おそらくその一人にとっては二人に、これから起きる、決してよくはない結末を暗示しているようであった。
ドアが半分ほど開くと、チェーン越しに、疲れ切ったような男の顔、それとは対照的な生命力さえ帯びた腐臭、そして出口を求めていたコバエが眼前に飛び込んできた。
「警察です」
マニュアル通りに手帳を見せると、後輩も慌てて男の視界に入るようにそれを出した。俺は、決して威圧しない程度に男の表情を見つめる。男は、無理やり表情を変えないようにしているように感じた。本人は、きっと冷静に事実を理解しているのだろう。ならば、「通報がありまして」などの前置きはいらない。
「話を、聞かせてもらえるね」
俺はそう言いながら、部屋の奥に目をやった。薄暗く、虫が飛び交う部屋にはテーブルに食べかけのトーストがあって、その近くに座る女性がいた。いや、「女性だった」と言うのが正確のだろう。顔は薄暗い部屋のせいで見えないが、痩身の美人であったように思えた。ここで彼女はどう生き、どう死んでいったのだろう。幸福な時もあったのだろう。そして、きっと幸福な最期ではなかったのだろう。それを、この青年はどう見つめ続け、そして、彼女の死体と、どのような日々を過ごしていたのか。
「あんたさ」
突然後輩が声を荒げた。俺は考える間もなく右手を口に当てるようにしてその言葉を封じる。「こういうのって死体遺棄罪って犯罪ですよ」などと続けられたら、目もあてられない。
俺は後輩が言葉を止めたのを確認すると、また男の方を見る。俺が目線を向けたのに合わせたのだろう、表面上平静で抑揚も少なく、しかし何か言いしれない不服さ、あるいは投げる対象のない呪詛をずっと抱えているかのような声が聞こえてきた。
「話、ですか」
俺が反応しないのを見て、男は続けた。
「話を聞いてくれるっていうなら、なんでもっと前に聞いてくれなかったんですかね。僕が社員の契約を切られた時、彼女が具合悪くなっても病院に行けなかった時、保険なんてないですからね、それで彼女がどんどん何も食べられなくなっていった時、誰にどう言えばいいかわからなかった時、あるいは、ずっと前、彼女が両親から色々されていた時とか、なんで、そういう時に、なんで」
男は、一息でそこまで言うと、緊張の糸が切れたのであろうか、目を潤ませ、声を詰まらせた。これは、彼が、この家に一つの遺体を抱えて生きることを選ばせた、その一端に過ぎないのであろう。それでも、彼にとっては、やっと吐き出せた、この世界への反論であったに違いない。俺は彼の手を軽く触り、うなづいた。
「これ以上は、警察署で聞くから、な。彼女のことは、任せてくれるね」
その言葉に無言でうなづく男を見て、もう大丈夫だろうと確信した。彼の境遇は、同情する面も多いだろう。心も、もうボロボロのはずだ。できれば何とか起訴されずに終わってくれればいいが。
俺が目配せすると、後輩は階段を下り、葬儀屋へ電話をかけに行った。特殊清掃とか、あと費用とかそのへんは、葬儀屋が判断してくれるだろう。その辺はプロに任せたほうがいい。
「さ、準備して。ああ、その食べかけのトースト、食べていったらどうだい。おいしそうだね」
俺はそう言って、少し時間を作ろうとした。後輩が電話している姿はあまり見せたくない。彼が、まだ現実を本当の意味で受け入れられるかは、取調室で判断したほうがいい。
「あ、あの」
男は居間へと入り、冷蔵庫から赤色の瓶を取り出した。
「このいちごジャム、つけていいですか。彼女が、好きだったんです」
俺はその言葉に、少し離れた距離からでも見えるよう大きめにうなづいた。そして思った。この青年が、人に何かを頼んだのは、いつ以来だったのだろうか、と。俺は、帽子で自らの視界を覆った。刑事としては、容疑者から目を離すというのはあってはならない。しかしこれは、彼にとって、彼女との最後の食事、最期の時間だ。邪魔してはいけない。俺だってそれなりの年数やってきた。この男が逃げるようなことはないってことぐらいわかる。腐臭の中にほんの少しいちごの甘い香りが混ざるのを感じながら、俺は視線を伏せる。
「ジャム、おいしいんだね。黄身ばっかりつけてるんじゃなかったな。ごめんね」
男の声は、さっきより幾分優しく、声を聞くだけでその声が恋人に向けられているものであることがわかった。
視線をさらに落とし、玄関の方に向ける。ボロボロのスニーカーが、男性ものと女性もの一足ずつ、玄関にきれいに並んでいることにその時初めて気づいた。 靴には、その人の歩んだ歴史が反映される。先輩の刑事の口癖だった。この二人は、あがきながら、ボロボロになりながら、寄り添って生きてきた。それを、このスニーカー達は雄弁に語っていた。
この二足が仲良さげに並ぶのも、今日が最後になる。
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