今ここで見るもの

 「うん、いいよ。その、私も、好きだから」


 その言葉は、自分が想像したよりもはるかに簡単で、だからこそ実感のこもったものであった。照れと甘さを帯びた彼女の声が、僕が呼び出した夕方の公園に広がっていた。はかったようなタイミングで風が吹き、彼女のさらさらしたセミロングと制服のスカートを機械的なまでにリズムよく揺らしていた。僕は告白をする前の心臓の鼓動が収まりきらず、次の言葉をどうしていいかを考えることもできなかった。僕と彼女は最近ずっと仲良くしていたし、夜はメールや電話も何度かしていて、彼氏がいないことも知っていたから淡く期待はしていたけれども、それが現実となった途端、頭は真っ白になっていた。


 「ちょっと、ここ、寒いね」


 彼女のその言葉に、僕はふと我に返る。さっき彼女の髪とスカートを揺らした風は、そのあともずっと吹き続けていて、人生で感じたこともないような高揚を覚える心と裏腹に体は冷えていた。


 「ね、カラオケでも行こうよ」


 そう言うと、彼女の表情が変わった。それは、僕が彼女がする表情の中で一番好きな、告白の返事を受けるときはこんな表情をしていてほしいと思っていた頬が緩み赤みを帯びた笑顔だった。そしてそれを見ている僕の表情も同じように緩んでいるのを感じた。きっと、私は今恋人になったばかりの彼女と同じように頬を染めているのだろう。人間は、他者が笑顔になっているのを見ると自分も笑顔になるという研究があると聞いたことがあるが、まさかこんな状況でそれを実感することになるとは思わなかった。

 僕はその彼女の笑顔に向けて、少しでも締まった表情を見せようとしながら「ああ、いいよ」と返事をする。その声が裏返ってしまって、彼女はそれを見て吹き出してしまった。その姿は僕が普段教室で会っている彼女の無邪気で楽しげな表情で、その姿を見て、僕も「笑うなよ」と言いながら少しだけ声を出して笑った。やっと緊張が少し解けた気がした。


「ほら、行こ」


そういう彼女の口元から視線を落とすと、右手を僕の方へと伸ばしてきていた。その右手は少しやりすぎではないかというほどに白く、すらっとした指が美しかった。それを見て僕が彼女の元へ近づき、左手を伸ばした途端、僕の視野は真っ暗になり、そこまでどこにもいなかったはずの2人の男の声が聞こえてきた。


「ごめん、まだここまでしか作ってないんだ。肌の感触とか難しくてよ。とりあえず今回はここまででいくつもり」

「なんだよ、いいとこだったのに」

「ちょっと、そんなよかったのかよ」

「ああ、よくできてるわ。この前は全然リアルじゃなかったけど」

「いいだろ、な。お前本気で顔赤らめてて、超面白かったわ。これでやっとめどがついてきた」

「おい、見てんなよ」


僕はそう言いながら、VRヘッドセットを外した。あっという間に甘酸っぱい初恋の成就は、ディスプレイと機械、そしてその間を這い回るケーブルに囲まれる殺風景な研究室になっていた。こうやって外してみるとやはり重かったようで、首元が楽になったのがよくわかる。


「ケーブルいつか踏むぞ。早くどうにかしろよ」

「無線は高いんだよ。ただでさえ3Dモデリングソフトの更新版買ってこっちはカツカツなんだから」

「なあ、次、俺やっていいだろ」

「ちょっと待てよ。まず感想聞いてからだ」


この装置を作った男は、テーブルにあるメモ帳を手に取り、僕の方を向いてきた。彼のぼさぼさの頭と、埃が取れていないメガネが、彼がこのデモンストレーションを作るためにどれだけ睡眠時間や身だしなみの時間を犠牲にしたかを表している。僕は彼の方を向き直す。


「いや、今回よかったわ。前より全然ドキドキしたし、それに、最初笑っちまったけど、それ結構有効なんだな」

「え、そうなの。そんな扇風機、子ども騙しだと思ったよ。気になるわ」

僕と彼が脇にある扇風機について話をしていると、一緒にテストに参加している友達が割り込んできた。しかし、彼をまるで無視するかのように、話を続ける。とにかく自分の工夫を自慢したくて仕方ないようだ。


「そうそう、実際の風と、扇風機の弱い風なんて全然違うんだけどさ。視界が公園の風景に覆われてると、やっぱ視覚って感覚の中でも相当強いからさ、風を感じると夕方のさわやかな風ってかんじになっちゃうわけ。あと、セリフを結構変えたんだぜ。知り合いに趣味で小説書くやつがいて、そいつにお願いしてな。あとは前から頼んでる声優志望の子に、間合いとかもちゃんと研究してさ」

「なるほどなぁ。俺は女の子が可愛くなってることしかわからなかったけど、それだけじゃなかったんだな」

「もちろん、映像のグレードアップも大事なんだけどよ、それだけじゃ、大手、まして海外には負けちゃうからな。俺みたいに個人でやってるやつは、できることなんでもやって、興味を持ってもらわないとな」

「展示会、来月だっけ」

「ああ」

「それなら、まだ直せるな。女の子のスカートの揺れがちょっと機械的すぎると思うんだよな。そこだけいかにもキャラクターって感じで、ちょっと覚めちゃったよ」

「あーあれなぁ、ちゃんと物理演算するようにしたいんだけど、意外と難しくて、一回破ったら速度が追いつかなくて処理落ちしちゃったんだよな。まあ、まだ時間あるし、もう一回やってみるよ」

「なあ、もういいだろ。早く俺にもやらせろよ」


すっかり友人のことを忘れていた。口調と、少し荒げた呼吸から待ちきれないというがイライラがよく伝わる。


「ああ、わかったよ。今準備するから。お前は大学の後輩と付き合うシチュエーションの方がいいんだろ。ちゃんとお前の要望通り、胸大きくしておいたからよ。ただ、顔は変えてないわ。あんまり幼いと、特に海外の業者は嫌がるからよ」

「まじか。まあいいや、とりあえずおっぱい大きくなればさ、早く準備してよ」

「お前そんな要求してたのかよ。もっとなんか技術的な話しろよ。ていうかお前院生だろ、後輩のことどんな目で見てんだよ」

「うるせぇな、俺の研究室に女子なんかこねぇんだよ。夢ぐらい見せろよ」

「ほら、そろそろ起動するぞ」

「お、ありがとうな、どれどれ」

「まあ、楽しめよ。風とか結構びっくりするから」

「よし、起動するわ。あ、ちょうど近くにいるから、扇風機、弱から中にしといて。運転のタイミングはパソコンの方で制御できるんだけど、風量ができなくてな」

「もういいよそんなの、とりあえずおっぱい見たいよ」

「まったく、お前は」

そう言いながら三人で笑い合った。VR技術が家庭にも行き渡り、それをどうコンテンツに活かしていこうか、大手も中小も個人も、それが崇高であってもバカげていても、とにかく自らのアイデアを競いあう。ある意味では一番幸福かもしれない時代であった。このあたりで疲れてきたので、私はホールボディVRブースの電源を切る。先ほどまで360°を覆っていた画面が消え、コンテンツの選択画面になる。私はそれの電源を切り、ドアが自動で開いたところで外に出た。私はこの映像が気に入っていて、もう何回も見ている。当時はVR技術というものはまだ視覚刺激しか与えることはできなかったようで、それでもなんとか触覚に訴えようと工夫をしているところが面白い。この後、香水というものを使って嗅覚でも女性が目の前にいるように感じさせたりしている映像もあった。このように、完全ではないものをよりよくするために何かを工夫したり、友人同士が協力するということが、私には新鮮だった。今私が使っているVRシステムの基礎が完成したのは、この映像の45年後になるという。

 私は、灰色の壁にあるLEDが当然のように赤色で点灯しているのを確認すると、私はいつものように灰色の壁に囲まれた灰色のドアに耳をあてる。さまざまな機械の音に合わせて、風の音が混ざっているように感じる。その音、いやそれは音なのか私の空想なのかはわからないが、それが私にとっての「外」であった。物心着いた時には私はこの部屋にいた。ずっと一人だった。その事情についてのコンテンツがなかったので何が起きたかはわからないが、私たちは本来「外」に住んでいて、放射能や微粒子が浄化されるまでこの地下のシェルターで過ごすということになっている。浄化が終わるとLEDが緑になり、鍵が開くと言うことは学んだが、それもどれくらい先のことなのかもわからない。私が生きている間にその時が来るという保証はどこにもない。しかし私はその日のため、ここで外のことを学び、暮らしている。先ほどまで私が見ていたのは情報技術の歴史の中にあった膨大な資料のうちの一つであった。たまたま見つけたこの映像を私は気に入ったというわけだ。暇な時、何度となくこの映像を見ていた。

 その時、甲高いブザーが鳴った。そうだ、そろそろ時間だった。私は大急ぎで身体を壁の一角に向けると、すでに今日の食事が地面に置かれていた。遅かった。食事はいつも壁の一角にある、外へのドアとは別の小さな扉が開いて、どこからか食事が送られてくる。私は、食事の到着を告げるブザーが鳴ると、その扉の前へと行き、一瞬だけ開く扉からその向こうを覗こうとするのだ。扉の先は暗くて狭く、開くのも一瞬だけなので、一度もそこに何かがあるのを見えたことはない。それでも、私にとっては、それが唯一の「本物」の部屋の外なのだ。VRコンテンツで、いくらでも外を体感することは出来る。そして、それは楽しいものだ。コンテンツというのは、望めば必ず見ることが出来る。そうなりたいと思えばいつでも未来を夢見てコンピューターグラフィックの少女に告白する男になることはできる。それは確かに面白いが、何百回、何千回と繰り返しているうち、心に、空白のような感覚を覚えていた。でも、あの扉の先は、望んでも見ることはできない。それこそが、私の空白を埋めてくれるように感じた。まるで、あの扇風機の風をリアルだと言って喜んでいた彼が感じていた高揚感が、ここにあるように感じるのだ。

 食事は、きっとまたパンであろう。私は、空気が浄化された時私が外へと出るためのドアの前に立った。扉の外を除く他に、もう一つすることがある。私は、いつものように数回ドアをノックした。ノックの音は広がり、部屋全体を覆い、この世界の熱量を奪うかのように消えていった。あとには灰色の部屋にふさわしい沈黙が広がる。私はため息をつき、とりあえずパンを食べようとドアに背を向けた瞬間、耳が、ドアを叩く音を拾った。

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