乗る、乗らない

 女子高生というものは、いや若者というものはいつの時代もそんなに変わらないのだろう。見ている画面が、PHSの20文字のカタカナメールから、あの頃の僕や同級生が見たらきっとそれで世界のすべてが描けるとさえ思えただろうLINEに変わっても、そこで話してることと言えば、人間関係のちょっとしたこじれがあたかもこの世界の全てが崩れる前兆であるかのように、きっとこの関係は永遠に続くと思っているのであろう友人へ吐露しているというのは何も変わっていない。LINEの中身を見せ合う制服姿の二人に、何通も続くカタカナを必死で読んでいたあの頃を重ねながら電車の振動に身を委ねることにした。座席が空いていなかったのでデッキに立って乗ることになってしまったが、ここで感じる振動や音は、昔から嫌いじゃない。

 次の駅で、おそらく姉弟だと思う二人連れが乗ってきた。さっきの高校生と年齢も変わらないであろう女の子が、少年が乗った車いすを押しながら乗車してきた。おそらく弟なのだろう。スロープ替わりの板をしまう駅員に会釈しながらその子は入ってすぐのところに車いすを止め、ブレーキをかける。その手つきを見れば、きっと彼女は何回も何回も弟の車いすを押して来たのだとわかる。偏見がよくないというのはわかるが、弟の顔と姉に話しかける声の感じから彼の障害が脚だけでないということもわかってしまう。姉の方はそんな弟に軽く相槌しながら視線を窓の外に向けている。自分もその視線の先を追う。

 高架を走るこの電車から見る景色はどこか特別だ。地面に足をつけてその道を見上げながら歩くのとも、展望台の遥か高くから見下ろすのとも違う、グライダーの滑降のように視線がすーっと街並みを見下ろしていく、まるで朝の陽光そのものの視点になったかのような感覚がある。緩やかな左カーブに入ったとき、視野の端には自分が通っていた小学校が見えた。脳裏に体育館の光景が蘇る。小学校の頃を思い出すと、最初に出てくるのはなぜか必ず体育館の姿だ。そして、当時の同級生のことや、あの時中学受験で第一志望の学校に入れればどんな未来が待っていないのだろうかなどといつものように思いが巡ってくる。その間も女性はずっと弟を支える車いすを両手で支えながら外の光景を見ていた。カーブで電車が少し揺れ、彼女だけが少し揺れた。それでも彼女は外を見続けている。彼女もこの視界が伸びる先に何か思い出の場所でもあるのだろうか。それとも、あったかもしれない未来のことを考えているのだろうか。「次の駅だよ」と弟にかける声の優しさ、そして「お姉ちゃんありがとう」と返す弟の声のが、彼女たちが駅を降りてからもしばらく残っていた。

 気が付くと女子高生もいない。そこで座席が空いたので、あと2駅ほどではあるが座ることにした。前の席からは英語が聞こえてくる。おぼろげに聞こえてくる限りではどうも留学生の男女のようだ。右側には品の良い高齢の女性と、その横でおそらく明らかに仕事に向かわなさそうな中年の男性が朝から缶のハイボールを開けていた。どう考えてもそんな男の隣になど座りたくないし、いくら電車内の飲食は許されてるとはいえ注意の一つもしてしかるべきだろうが、それでも嫌な顔を女性がしていないのは、心が広いのか、その程度の不快なら諦めることになれてしまっているのか、それはわからない。高齢の女性というのは、それが時代ということなのか、諦めることを当然に思っている人が多いように感じる。その横で中年男性が気楽に一杯やっているというのは何か象徴的かもしれない。この高齢女性には夫がいるのだろうか、あるいはいたのだろうか。その人はこのハイボールの男性と似ているのだろうか、似ていないのだろうか。あのハイボールの男性がいなければ、この人はどんな表情をして座っているのだろうか。

 さきほどの女性が降りた。ハイボールの男はつまみのチーズちくわを食べている。下品に大口を開けて食べるその姿を見ていると正直おなかが空いた。病院に着いたら自販機でパンでも買う余裕はあるだろうか。そんなことを考えながら、また手を動かしている自分に気づく。もうとっくの前からその必要はないのに、今でも電車に座ると手術のリハーサルをしてしまうのだ。投薬が原則になってから、正直もう必要のない練習なのだが、習慣というものはそういうものなのだろう。手を抑えるために、スマホを握り、動画のニュースを見る。そういえばこの病院に通い始めたころは動画を見るときに通信料や速度が気になって、それで手術のリハーサルをしていたところもあった。あの頃はまだ5G定額プランなんてなかったな、と考えながらニュースを見る。子どもの学習意欲と幸福度調査が過去20年で最もよい結果であったというニュースを、いつも見ているニュース朗読が人気の若い女性動画配信者の声で聴いているうちに駅に着いた。チーズちくわの二袋目を開けている男はここでも降りない。この先の田舎まで行くつもりなのかもしれない。正直その暮らしには羨ましくなったがそうも言ってられない。自分の仕事は嫌いじゃない。私の処置を、正確には私による処置の許可を待っている人がいるのだ。

 駅を降りると住宅街の中に病院はすぐ見える。一見すると民家に見えるような小さなクリニックだが、自分も含めて院長以外にも3人医師を雇えるぐらいには繁盛している。おかげでまあまあの給料なのに残業もなく、ここに移れたことで大学時代からの恋人と結婚することもできた。待合室の自販機でパンを買って、控室で食べてから白衣に着替えて診察室に入る。白い壁とコントラストを作る黒いコーヒーメーカーの電源を入れてから今日の予定に目を通し始めた。今日は診察は予約だけで3人、出産の予定は今のところいないが、1人予定日が近い人がいるのでもしかしたら急にということはありうる。ほかの先生の分娩室の予定を見る限りは万一のことがあっても大丈夫そうだ。


そして、今日は中絶が3名。


 改めて電子カルテを見直す。ああ、そうか。この人たちか。まだ熱いコーヒーを息で冷ましながら名前を見る。プライバシーもあるし、それは当日の処置やその後のケアに必要ないから書いてはいないが、最初の面談で聞いた事情は思い出せる。一人は一回り上の男が妊娠した途端逃げて連絡が取れず、親と一緒に来た高専の学生で、もう一人は産休が絶対に通らないとかいう派遣社員、そしてもう一人が出生前診断で子供に障害が見つかったという人だ。他の病院で診断を受けて、処置とケアは近くのここでやってほしいということだった。

 院長は出生前診断はこのクリニックではやらないとしている。中絶自体もあまりいいとは思っていないのだろう。だから即時の中絶はクリニックでは原則禁止していて、必ず3日以上空けて本人と家族に考える時間を持ってもらうのだ。二週間に一人ぐらいはキャンセルする人がいる。この前キャンセルした大学生は退学してでも育てたくなったと言っていたが、結局休学をしてこのクリニックで子どもを産み、そのあと実家近くの公立大学へ編入して通い続けているそうだ。父親もなんとか養育費を振り込んでくれそうだと言っていたが、実際にはどうなのだろうか。

 ブラックコーヒーを飲みながら、今日電車で見た女性たちのことを考えていた。仕事上、多くの女性と関わるわけだが、例えば経済的にも家庭的にも恵まれ穏やかに出産までの日々を過ごしている女性でも、その幸せそうな笑顔と、今後の母子ケアについての説明を真剣に聴く知的な表情の合間に、何か男である自分にはうかがい知ることのできないようなとんでもない空気を醸し出す瞬間があるのだ。それは、きっと女性であるということ、それ自身が彼女の人生に与えて続けてきた何かなのだろう。だから、出産をどうするか、中絶をどうするかについては最終的には女性本人の意思に任せることにしている。院長は結構本気で中絶希望の人を説得するらしいが。そして、今日電車で見た女性にもきっと同じ空気を感じたのだ。彼女たちは、これからどんな人生を送っていくのだろう。その表情の合間に何もない、笑顔と喜びをあふれさせることはできるのだろうか。ただ、きっとこの世界には、彼女の代わりに弟の車いすを押してくれる人もいないし、あの人の隣に座るお酒を飲まない紳士もいないのだろう。自分が思うより、カタカナメールもLINEも送られているのかもしれない。出生前診断を嫌い、障害を理由とした中絶の禁止運動に賛同している院長も「一個人に背負わせてしまうものが多い今の状況では仕方ないところがあるのはわかる。少なくとも母親を責めるような話ではない」とポロっとこぼしたことがあった。院長は、きっと自分よりもはるかにいろいろなものを見てきているはずだろう。

 とはいえ、やはり本音を言えば出産に比べて中絶というのは気分が重い。昔中学校の先生が見せてきた、今考えれば宗教のプロパガンダであったこともわわかっているバケツに捨てられた胎児の映像が思い出される。今はそもそも薬物での中絶なのだからあの映像にあったようなグロテスクな光景はあり得ないのだが、それでもどこかであの映像がよぎる瞬間はある。

 電話が鳴った。受付が受ける。派遣社員の女性が相当迷っているようだったのが思い出された。期待と言ってはいけないのだろうけど、それでも期待としか言いようのない思いを抱きながら、受付の声に耳を澄ませる。


はい


ああ、そうですか

わかりました、大丈夫です

では明日にしましょう


単なる日程変更だとわかったところに、看護師が入ってきた。さあ、今日の診察開始だ。

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