あなたにはGood day.

 笑顔だった。スーツ姿だった。ワイシャツがピシッとしていて、上までピシッとボタンが閉められていて、きれいで清潔だ。その下の文字を見て彼は43歳だったのだと知った。部長とのことだ。確かに見た目からしてそれくらいだろう。場面が変わる。顔を隠すため鎖骨から胸のあたりを映された男性に「働いていた会社の同僚」とテロップがついていた。高く変えられていても落ち込みがわかる声で「熱意があって、部下にも一生懸命指導していました。でも、面白いところもあって、飲み会では冗談を言って周りを盛り上げるところもありましたね」とコメントをしていた。そこでチャンネルを変えた。変えた先も日曜のワイドショーだった。ビルの3階から事件を見たという、こちらも顔を隠した女性が声はそのままで答えていた。「ほんと、急に刺されたって感じで、それからも周りに刃物をぶんぶん振り回してて、怖かったです」

 犯人の31歳の男についての説明が始まった。被害者とは全く面識がないらしいこと、最近仕事を退職したこと、精神科の通院歴があること、そして高校の同級生だという女性が、こっちは声を変えて「明るくて、いい人ではあったんですけど、ちょっと怒ると怖いかもというか、何するかわからないなって感じはありましたね」と話していた。

 映像は事件の現場に戻る。そこには献花台はないのだが無数の花と数本の缶ビールが置かれていて、その時もちょうどスーツ姿の男が二人連れで花を捧げていた。顔がわからないようにぼやかされていても、彼らが泣いているのは体の震えや、目のあたりを拭う姿からなんとなく伝わるものだった。同僚だろうか。



 私は食パンにマーガリンを塗っていた。テレビに半分ぐらい目をやりながら牛乳をコップに注ぐ。映像はスタジオに戻って、この番組の司会をしている男の俳優が気難しそうな顔をしながら「どうですか皆さん」と、嘆くような、それでいてこちらを煽るかのような声をあげていた。コメンテーターも一様に不快げな表情をしていた。その表情は、子どもの頃近くの家にいた大きくて茶色の犬が、今にも噛み付いてやろうとこっちを睨んでいた時のあの顔みたいだなと、ふと昔の光景がよぎった。



 ふふっ。つい変な笑いが出てしまった。件の俳優が「何の罪もなく、一生懸命働いていた男性がですよ、こんなことでなっちゃってさ。みんなの悲しむ姿もわかりますよ」と相変わらずこわばった表情で語っているのを見た途端だった。多分私の顔はこの役者とはまた違うこわばり方をしているのだろう、上唇と下唇を押しつけるようにしてくっつけている自分に気づいた。そして気がつくと食卓テーブルを左の人差し指と中指で軽く叩いている。カメラがその俳優から離れコメンテーターの女性お笑い芸人や若いネット通販の男社長に変わっても、まだ私のこわばりは続いていた。

 通知音が鳴り、テレビと食卓から目を離しiPhoneを見る。登録を消すのが面倒くさいだけでもう読みもしていないメールマガジンであることを確認し、一つ息を吐く。前のiPhoneを持っていた時だったろうか、彼に初めて会ったのは。確かに、初めて会った時のあいつのことは、熱意がある人間だと感じていた。いや、熱意があったのは間違いないだろう。大きな声で私に立ち方から指導をし、距離が近く、そう、あいつはとにかく距離が近かった。今思い出してみると、まるでゲームか映画の画面のように、視界を埋め尽くすあいつの顔が思い出される。何も知らない自分は、その指導はそういうものだと、当然のものだと思うことしかできなかった。コピーがずれていた時に肩を掴まれながら細かいことに気を使うことがどれだけ大事かせつせつと説かれることも、ヒールが低すぎるとか高すぎるとか言われたことも、来客にお茶を汲みに行くのが遅れると客が帰った後で十分以上説教をしたあげくお茶を入れる練習をさせられたことも、きっと誰もがそういう指導を受けて社会人になっていくのだと、そう信じていた。大学時代の同級生も忙しく、なかなか連絡も取れなかったし、たまに会ってもみんな「社会人っていうのは厳しいね」と言っていたから、きっとみんな同じようなものだろうと思っていた。その思いが揺らいだのは、自分と同期で入った男性社員に対するあいつの姿を見た時だった。確かに同期にも指導はしていたのだが、明らかにあいつは男性とは打ち解けていて、それは男同士とか言う言葉で片付けられるようなものではなかった。まさか男ってだけであんなにコピーがずれていても気にされていないとは思いもしなかった。


 食パンを半分ぐらい食べた頃、気がつくとリバースモーゲージでの融資を薦めるCMが流れていた。入社して一年近く経ち、ちょうどリバースモーゲージについての資料作りなんかをするようになった頃、周りが見えてきてあいつの正体もよくわかるようになってきた。他の女性社員に対してもあいつはひどいものだった。先輩の社員が、別に会社で禁止されていない小さなピアスをつけて来た時に、よれたワイシャツの一番上のボタンを外したままで「何若作りして色気づいてんだよ、外してこい」と命令して、「別に、違反でもないんで」と先輩が反論すると「おいおい、誰に見せてぇんだか知らねぇけど、迷惑なんだよ」と耳を掴もうとしたり、他の部署から移ってきた同期の子がまだ部署に慣れていない頃も、「ったく、これだからなあ」と周りの女性社員一人ひとりに目をやって、明らかに女だから覚えが悪いと言いたげであった。そもそも彼女は全然覚えも悪くないし、あいつ自身がその前後で月報を間違えて廃棄してしまって一から作りなおしにさせていたというのに。そんなことまで覚えているぐらいあの時本当に自分が怒っていた。その月報の作りなおしをしながらその言葉を聞いたのも大きいだろう。飲み会ではもちろんひどくて、とにかく女性社員に「ほら、ほら」と自分や他の男性社員へのお酌をするように促し続けたり、最近職場で見た他の会社の女性社員がかわいいだブスだといった話をいつもしていた。周りにいた男性社員の半分ぐらいは一緒になって笑っていたと思う。今となってみると一番許せないのは、部署に大きな仕事が来ると、必ず自分や男性社員を大事なポジションに置き、女性は補助的で、社内での評価につながりづらいことばかりさせることだった。他の、正直言ってピアスを怒られた先輩より優秀とはとても言えない男性社員が少し申し訳無さそうにしながら先輩に雑用を指示する姿と、それを諦めたような表情で聞く先輩の姿があった。それと、あいつみたいなタイプの男に共通することとして、とにかく女性の体に触ろうとしてきた。思えば新人時代の指導でも指導の勢いが余ったように見せて肩に手を乗せてきたのに始まり、「気合入れてけよ」と言いながら背中を叩いてきたりしてきたものだった。その度に感じる悪寒が肩を震えさせないよう抑えながら「はい」と愛想笑い含みで答えていた。こういう男にありがちなことであるが、そのターゲットはどんどん若い方若い方へと移っていった。特に気に入られたユミちゃんは、仕事の指導だからと二人で飲みに行くことを要求されて、どうしたらいいかと先輩であった私に相談してくることもあった。単純に若い子が好みなのか、若くて知識も少なく、社内でのつながりも作れていないから抵抗できないと思っているのかどちらなのかはわからない。わかりたくもない。

 一つ上の上司や、できたばかりのコンプライアンス局みたいなところに訴えたこともある。どちらもその場では「対応を協議する」みたいなことは言ってくれたが、結局口頭での注意をしたとかその程度で、クビや左遷はおろか、警告さえしてくれなかった。出身大学の同じ役員にかわいがられているから手が出しづらいなんて話もあったが、実際どうなのかを知ることはなかった。私はそこで嫌になって退職を決めてしまったからだ。上司が「どうにかしたいんだけど、実際に何があったかがはっきりできないから、なかなか注意以上のことはできないんだ」なんてうそぶいたのが退職の最後のひと押しだった。先輩がなんで辞めたかも、あいつにかわいがられて昇進した男性社員が役に立たなくて部署全体を苦しめたことも、ユミちゃんがなんで入院したかも、みんなわかってるはずなのに。

 CMからワイドショーに戻り、またあいつを刺した男についての話をしている。写真は、中学校か高校時代のもののようで、学生服を着ている。今、この男はどんな姿をしていて、どんな顔をしてあいつを刺したんだろう。どんないきさつで刺したのかとか、責任能力とかそういうことはわからない。ただ個人的には、どう考えてもひどいやつなんだが正直そのひどさは感じず、むしろ感謝したいぐらいだ。あいつがいなくなったことで救われた人は、必ずいるだろう。素直に言えばスッキリした気分だ。本来なら嫌いな奴でも死んだら多少は悲しい気持ちが生まれるものだし、数年前に中学校時代のいじめっ子が事故で死んだと聞いた時は少しドスンと来るものがあったが、今回は全然そんな気持ちがない。よくも悪くも、自分が大人になっということなのだろうか。

 そうだ、今日はもともと昼から飲みたい気分だったし、ワインを開けよう。ああ、そういえばあいつ、「女が居酒屋で一人ワイン飲んでたんだよ。ああいう女って家でも一人で飲むのかね。かわいそうだよな」とか言っていた。嫌なことを思い出してしまった。祝杯とまでは言いたくないので、せめて献杯ということにしておいてやろう。外からはこの暑いという言葉では片づけられない、そんな今年の夏にしては珍しく柔らかな光が差し込んでいて、私はそれを左手で遮りながらキッチンへワインオープナーを取りに行った。パンに添えていたベーコンエッグにはまだ手をつけてないから、つまみにはできるだろう。あ、せっかく飲むのにパジャマっていうのもどうかと思うし、着替えてからにしようかな。冷蔵庫の前を通ると、追加のおつまみにぴったりなチーズがまだ残ってたことを思い出して取り出す。少し楽しい気持ちになってきた。明日からはまた仕事だし、今日は少しでも楽しもう。そんなことを考えていると、こんな時間に鳴るなんて滅多にないインターホンが「ピンポーン」と音を立てた。

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