さよならゼリービーンズ

 その言葉を意外だと思わなかったことが、意外だった。


だったら、こっちに残って俺と暮らさない?

お前のやりたいことなら、こっちでもできるし


 画面の上にはまだのんきなスタンプが映っている。


プロポーズってこと?


 そう返すと、


考えといて

本気だから


 こういうことをLINEで言っちゃうのがあいつらしいなと、話の内容にそぐわない笑いを浮かべる自分に気づいた。

 彼とは何でも言い合えるような腐れ縁の友達だった。でも、どこかで私も彼の気持ちがわかっていたのだろう。こういう時、記憶をひねり出して、「そういえばあの時彼はこんなことを言っていた。もしかしてあれは愛情表現だっただろうか」と考えたりするのかもしれないが、それをする気にもならなかった。多分周りにはちょっとしたメールが届いたのを確認してまた歩き出した人にしか見えず、まさか求婚されたとは誰も思っていないだろう。返事はせず、携帯を鞄にしまい、ベンチから立ち上がり人をかいくぐりながら進んで、エスカレーターを地下へと下りる。ここがディスカウントストアになっていたのは聞いていたが、改めて見ると昔のデパートの様子が思い出せないほどに変わっていた。東京でも聞いていた大音量の店内BGMが幼い頃の記憶を押し流していく。デパートだからきっと1階には化粧品売り場あたりがあったはずなんだけど、その時の映像が全く頭に浮かばない。それでも、他の階より長いエスカレーターが地下に向かっていき、そのBGMが遠ざかっていくにつれて、少しずつ懐かしい光景が見広がる。この地下1階は、確かに店は変わったところもあるし、あんなに大きなイートインもなかったけれど、地元のショートケーキが有名な洋菓子屋さんの黄色い看板は変わっていないし、ふわっと香る小麦生地とバターを焼いたそれに、その奥の惣菜コーナーから漂うソースが追いかけて混ざる匂いが懐かしい。その香りと思い出を辿るかのように中へと入っていく。昔より人は減ったようだ。この街も人口が減っているし、周辺の町や村からここに買い物に来る人もどんどん減っている。大都会以外はどこもそんな感じだ。エレベーターの向かいだと妹に聞いた。ここのエレベーターは、いかにも当時のお金持ちっぽい感じのきらびやかな装飾がついていたことを場所とともに覚えている。 階段の脇のよくわからない端末に三人ぐらい並んでいるのを通りすぎて、次の団子屋さんの前で左に折れる。醤油だんごのいい匂いが漂う。当時から思っていたけどエレベーターのそばにある階段って誰が使うのだろうか。避難用だと言われればその通りだけれども。そんな考えを自分の目に映るエレベーターの前の円が即座に遮断した。妹の言葉にあったサンドイッチ専門店の脇に、最近まで円形の何かが置かれていたような跡が床についていた。その跡が作る空白が何を意味しているかは明らかだった。私は、進みなおすわけでも、従業員に何かを聞くでもなく、そこに立って、その空白を見ていた。中年の男性が一人、通りがけに私を邪魔そうに見てきた。

 なぜか頭の中にはあの機械の記憶ではなく、彼の顔が浮かんでいた。




「ああ、うん、なくなったんだよね、あれ」


 妹はそう言いながらコロッケを箸で半分に切っている。昔の妹と言えば、母が作ったコロッケを口に溢れさせながら一口で食べていたものだ。


「そういうの、早く言ってよ」

「だって、おねえちゃんがそんなに行きたがってるなんて知らなかったし」

「でも、昔から好きだったね、あのお菓子コーナー」


母が二人の会話に入りながら、私が地下で買ってきたシーザーサラダを皿に移して持って来る。それを置くと母も食卓に座る。


「デパートに買い物に行くと、父さんのワイシャツとか選んでる時とかもう暇そうでね、それで帰りにレストラン行くのと、地下のぐるぐる回るお菓子コーナーで小さいカゴ一個分買っていいからって約束してね」

「おねえちゃんあれでしょ、またゼリービーンズ買おうとしたんでしょ」

「そうだけど」

「あればっかり食べてたもんね。それだったら、1階に売ってたのに」

「えっ、そうなの」

「うん、1階に海外のお菓子いっぱい売ってるところがあって、そこにあったよ」

「そうなんだ、見とけばよかったかな、でも、違うんじゃない、味とか」

「買ってみなきゃわかんないじゃん」


妹と私の会話に、ロメインレタスを口に運ぼうとした手を止めて母が入ってくる。


「そのお店、すごく目立つのに気づかなかったの」

「だって、地下にすぐ行っちゃったから」

「ふふ、小さい頃からいつもそうね、自分の目標にまっすぐ進んで、近くにある大事なものを見過ごしちゃうんだから」


 私はその言葉に何も返事できず、母と同じようにロメインレタスに箸を伸ばす。息が詰まるが、それを感じさせないようレタスを噛むことに意識を持っていこうとした。母親が今日私が受けた言葉を察しているなんてことはあるはずもないけれど、それでも頭の中でなあなあと扱っていた彼の言葉が、またはっきりと浮かんでくる。むしろ、求婚されたのだからそれのことばかり考えてしまう方が普通なんだろう。


「おねえちゃん、こっち残るの」


 妹が不意に声を出す。その言葉に私はレタスとドレッシングを気管に入れそうになってしまう。必死でむせるのをおさえる。喉にチーズ味がへばりつく。その塩気と甘さは、舌にあるぶんには心地よいが、喉にあると不快でしかない。


「そんなこと、言ったっけ」

「いや、今までに比べたら長いし、おねえちゃんの仕事、こっちでできないわけじゃないんでしょ。だったら残ってもいいんじゃない」


「そうねぇ、戻りたいんなら、別にこっちで暮らしてもいいんじゃない。部屋も空いてるんだし」


 私は、母の言葉に下を向いて、コロッケを口に運ぶ。コロッケはおいしかった。母は少し動きが全体に遅くなったと今回帰ってきて感じたが、それでもコロッケの味は変わっていなかった。




「イラスト受領しました」


 メールのタイトルを見て安堵すると、早速次の絵にとりかかるために新規ファイルを作る。これが描きあがれば来月も食べていけるぐらいの収入は確保できるだろう。下から聞こえていた洗い物の音はもう止まっていた。

 専門学校時代のつながりをきっかけにフリーのイラストレーターを始めて3年になる。スマホのゲームは尽きることがないし、知り合ったメーカーも多いから仕事はコンスタントにやってくる。とはいえ単価は大したことないし、たまには全然関係ない短期のアルバイトをしないといけないこともある。そんな日々がずっと続いていた。そろそろ次のステップに進みたいとは思うが、時間とお金と体力がそれを許してくれない。自費出版で出そうと思っている画集も、クラウドのフォルダに表紙の案とイラストを数枚入れただけで止まってしまっている。

 次のキャラの構図だけ決めたところで、画面から目線を切る。彼や妹の言ったとおり、東京と変わらずここで仕事をすることはできる。引っ越しは大変かもしれないが、この部屋に資料の画集や書籍を置くこともできるだろう。

 久しぶりに、自分の部屋をまじまじと見つめてみる。中学の時に美術部で書いた、同級生の女の子の絵が飾ってあった。この絵を書いた時に、彼女が喜んでくれて、「また描いてね、ずっと描いてね」と言ってくれたことが私の人生に多少なりとも影響を与えたのだろう。半年前に彼女の結婚式がこっちであったんだった。あとで回ってきたウエディングドレス姿の画像をイラストに起こしてプレゼントしようと思って、それっきりになってしまっていることを思い出す。あのウエディングドレス、きれいだったなぁ。地元の友人や学校時代の同級生も、結婚する人が増えた。みんなきれいだった。携帯を取り出し、もう一度LINEを開く。彼は役場で働いているんだっけ。人が少ないから残業は多いけど出世は安定してると言っていた。今考えると、それも彼なりのアピールだったのかもしれない。私は仕事は家でできる。アルバイトをする必要もなさそうだ。夕食の準備を終えてから、彼の帰りを待ちつつイラストを描く。週末には二人で買い物なりレジャーにでかける。彼ならきっとアウトドアに行きたがるだろう。久しぶりに山に行きたいな。気がつくとそんな未来を考えていた。地元の山には、きれいな川が流れていて、そのそばでバーベキューができる。昔父さんがいたころに何度か行ったし、そういえばその時に彼の家族が一緒だったこともあった。今考えれば長い付き合いだ。きっと、彼となら、うまくやっていけるだろう。そう思った瞬間、自然とデータを保存して、PCの電源を落とした。




 ちょっと違うな。


 私はゼリービーンズを三つほど口に運び、噛む。甘さはあの時に近いけれども、もっと固かった。最近はどんな食べ物も柔らかくなっているから変わったのかもしれないし、輸入食品店で買ったから、アメリカのゼリービーンズは柔らかいのかもしれない。飲み込んだ後でお茶を口に含み、甘みを流す。この売店でしか売ってない、紙コップで売ってくれる苦いお茶も懐かしい。駅のホームは風が吹いて、お茶の暖かさがよく合う。



「なんとなく、東京に戻ると思ってたよ」


 母さんの言葉が本心なのか、その場をとりつくろう言葉なのか、それはわからなかった。残念そうにする妹をよそに、父さんの仏壇に手を合わせて、それからスーツケースをまとめ直した。地元の食べ物と何着かの服を詰めたそれを締めるのは大変だった。

 彼には、返事はしていない。彼なら、きっとそれで理解してくれるだろう。彼は察しがいいし、何より優しいから。


 後悔するのかな、するんだろうな。なんで、安定して優しくて幸せな未来から離れようとしてるんだろう。多分自分にとって、これ以上の機会などほとんど訪れないだろうに。自分でも理由はわからなかった。でも、そうしなきゃいけないということだけはわかっていた。電車は少し遅れている。乗り遅れてしまうと大急ぎで階段を上がってきた女子高生がきょとんとしていた。私が昔着ていた制服と同じだ。彼女は、どんな未来を送るんだろう。気がつくと最後の一粒になったゼリービーンズを口に運び、袋をゴミ箱に入れる。きっと、これっきりゼリービーンズは食べることはないだろう。もう、あのお菓子コーナーも、なくなってしまったのだから。さあ、戻ったら何をしよう。まずは一枚仕上げて、それから、画集の準備もしないと。いや、その前に、ウエディングドレスを描こうか。頭の中にウエディングドレス姿の構図を思い浮かべる私の耳に、ガタンゴトンという駆動音と汽笛が届いた。

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