つながっている

 受け入れ難いことも、それが真実であれば最終的には受け入れられるなんて言葉を聞いたことがある。確かにそうだ。だからこそ、俺はこんな残酷な現実に直面しても、不思議と平常心でいられるのかもしれない。

 今、俺の全身にはチューブがつながっている。栄養の摂取と排泄を、これで行っているのだ。そう意識した途端、突然チューブと体内のつなぎ目に痛みとむずがゆさを感じ始めた。俺は、もう何年もずっとこの姿のままなのだ。ついさっき、俺は目覚めた、そして、思い出した。

 俺は実験台になることを選んで、長い長い夢を見ていたのだ。


 木漏れ日のキャンパス

 友人と共に苦労したレポートやゼミ

 大学祭での大騒ぎ

 始めての恋人


 何度も繰り返し見続けた夢、それはとてもいい夢だった。当たり前のことだ。俺が喜ぶように作られた仮想現実なのだから。俺が、最初の実験者として参加したのは、人類の多くが行き詰まった現実世界を放棄し、幸せな架空の世界に耽溺することを望むであろうという未来を見越した仮想現実システムのテストである。何をやってもうまくいかず、家族も死に、もうどうでもよくなった俺はこのテストに志願したのだった。

 実験室にいるであろう現実の俺の視界はヘルメットによって阻まれている。ヘルメットの中には周囲の機械や空調の音が反響し、不協和音を作っている。かすかに水音も聞こえる気がする。もしかすると自分の小水がチューブを流れる音かもしれない。このヘルメットからは俺の脳に視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の情報が直接送られる。そして俺の脳がその情報に対して起こした反応がフィードバックされそれを元にさらなる情報が送られ続ける。たとえばそこにリンゴがあると思わせるならリンゴの映像と匂いを脳に送り、脳が触ろうと判断したら触覚の情報、そして食べれば味覚と、噛んだときの音、果汁が漂わせる匂いをそれぞれ聴覚と嗅覚に反応させる。単純に言うならそういう話だ、と俺は試験に参加する際に聞いた。その処理を何重にも重ねて行えば、あたかも本当に世界が広がっているような錯覚を覚えるのだという。いや、俺はその錯覚の完璧さを知っている。他ならぬ俺自身が、もう何年も脳が感じていただけの仮想世界を現実だと思って過ごしていたのだ。脳をコントローラーにして巨大な箱庭ゲームをプレイしていたようなものだ。実際にはずっと寝ていた俺は、そのゲームの中で21歳の学生として大学生活を謳歌していた。

 こうやって覚醒してしまえば、ずっと21歳のままであるはずがないという矛盾にも気づくことができるが、自分が実際にその仮想現実の中に埋没している時には気にもならなかった。夢の中で自分が小学生であったり、空を飛べたり、別人になったりしても疑問を感じないのと同じように。

 実験室に人の気配はない。

「俺は目覚めた!実験やめてくれ!」と叫ぶ。この研究室を観察している学者や大学院生が絶対にいるはずだ。俺の面談をした准教授もいるかもしれない。その彼にも言った通り、実験を選んだ時は人生にはいいこともないし、何かの役に立って楽しい夢が見れるならそれでいいかなと思った。確かに実際には行くことのできなかった大学生活は楽しく、喜びに溢れたものであった。こうして叫んでいる間にも、あの甘美な仮想現実が思い出され、戻りたいとという気持ちもわいてくる。それでも、やはり覚めてしまえば、この暗澹たる現実の世界が恋しい。そう、どんなに幸せな夢であっても、やはり受け入れられるのは残酷な現実の方だ。今の俺にはわかる。どんなに現実に絶望しても、みんなで現実逃避する未来なんてやってこない。だから、俺が今研究者達を説得して、こんな無駄な実験は止めさせなければならない。俺は体を動かして何とかこの鎖をほどこうとするが、両手両足がなぜか動かない。麻酔の影響なのかはわからない。俺はそれでも必死に指先を動かそうとする。すると俺には足ヒレが生えていて、それを必死に動かして水中を潜りはじめた。あまりに必死過ぎて、少し体が痛い。さっきまで俺の体は鎖でつながれていたような感じもする。ここは深い海だから、どんどん潜っていかなければならない。こんなに深い海では音など聞こえるはずもない。ただ空調の音だけがずっと響いている。いままで青と黒のグラデーションでしかなかった海が虹色に輝き始め、見覚えのある白い建物が見えてきた。

 そこには人魚がいるはずだ。そう、人魚に会いたい。

 そう思った途端目の前に人魚が現れた。想像した通りの美人だ。俺は人魚の宝石のような瞳に吸い込まれそうな感覚を覚えていると、不意に誰かから呼ばれた感じがして後ろを振り向く。クラスメイトが賑やかそうだ。たかしくんが飛ばした真っ白な紙飛行機が、大きくなりながら教室の木枠の窓へと飛んでいった。教室の木の匂いが優しく体を包んでいる。白髪まじりの先生が大きなつづらを抱えながらやってきた。

 ああ、今日は席替えだ。

俺はつづらを開け、席替えのクジを引く。26番がいいな。そこで目が覚めた。長い夢だった。昨日バイトで疲れたからかとも思ったが、疲れていたら夢を見やすいのかどうかなど知らない。一応全身を確認してしまうが、もちろん足ヒレなんてないし、体もさっきの席替えの時とは違って176cmの大学生だ。もっとも、ここ2年ぐらい測っていないから今は違うかもなどととか、どうでもいいことを考えている。それより準備をしなければならない。時計を見ると、2限の講義にギリギリだ。シャワーを浴びれば気分がさっぱりするんだが、その余裕もない。窓枠に置いてあるデオドラントスプレーをまだふわふわする意識のまま右手で握り、体中にかける。

 それにしても面白い夢だった。この世界が全部、機械につながれた僕が見ている仮想現実だなんて。 昨日小説好きの友人と世界がもし自分の生きている世界が全部夢だったらみたいな話をしていたから、きっとそれが頭に残っていたのだろう。空想としては面白いけど、実際にそうだったらたまったものではない。夢の中でも思っていた気がするが、やはりどんな現実でも、空想より現実を選びたい。それにしても、夢の中で夢から醒めたなんて思っているなんて滑稽な話だ。実際には僕には過去の記憶もあるし、もちろん大学生活を繰り返しているなんてことはない。もしこの人生が繰り返しで、僕がずっと21歳だというのなら、なんで就職説明会なんか行かなきゃいけないんだ。

 そういえば、夢の中で人魚に会ったが、 あの人魚の幼さの残るかわいい顔をどこかで見た気がする。昨日立ち読みしたマンガ雑誌のグラビアアイドルに似ていたような、そんな気もしないでもない。しかし、今はそんなことを考えている暇はない。2限の単位は落とせない。ごはんは途中のコンビニでおにぎりでも買えばいい。さすがに講堂でお腹を鳴らしたくはない。せっかくだしその時一瞬だけ雑誌をまた立ち読みしよう。あのアイドルは顔も好みで胸も大きかったし、眠い目も覚めるはず。僕はクローゼットを開け、着替えを始めた。授業はかったるいけど、その後のゼミはそこそこ面白いし、その後は飲み会だ。その飲み会に昨日話した小説好きの友人も来るから、この夢の話をしたらきっと盛り上がる。3次会ぐらいまではカタいかもしれない。今日はエントリーシートのことも一日ぐらい忘れよう。

 3日連続で「一日ぐらい」って言ってるな、と僕は自分にツッコミを入れながら、着替えを終える。さあ、出発だ。

 彼は充電器から携帯を引き抜くと、今日という日が素晴らしい日になる確信を持って部屋を出て行った。その映像を見て、私は安堵した。こんなところで実験を終わらせるわけにはいかない。

「ふう、何とかなりましたね」

「ああ、彼は、21歳の学生に戻った」

「よかったー。まさか目覚めるだなんて」

「麻酔の種類を変えてテストした途端ですからね、彼には合わない麻酔だったのでしょうか」

「わからないが、システムとの相性かもしれない。麻酔の種類については今後の課題だな」

「慌てて元の麻酔に戻したらすぐ眠ってくれたけど」

「教授のとっさの機転で夢っぽい映像のシークエンスを刺激として被験者の脳に送ったから、なんとか夢だと思ってくれたみたいです」

「ああ、脳が人魚の顔のことや、友人との会話などを勝手に補完してくれている。もう問題はないだろう」

「あのー、ところで」

「なんだね」

「席替えの番号って、なんで26番がよかったんですかね、いや、どうでもいいんですけど」

「ああ、確か彼のお父さんが1月26日に亡くなって、それで彼は大学に行けなかったと聞いたからそれじゃないかね。私が准教授の時彼を面談した際にはそのことに非常にこだわりを見せていたからね。それで大学生になる世界を選んだんだ。どうしても夢には現実の思い出が反映されるのだよ。特に細かいところにね。神は細部に宿る、ともいうしね」

「なんか……悲しいですね」

「まあ、しかし、今彼はその大学生活を謳歌しているのだから、いいではないか。何かあったらすぐ伝えてくれよ」

 私はそう言うと研究室のドアを開け、ゼミへと向かっていった。頭の中はその後の飲み会のことで一杯だ。途中、俺を呼ぶ声が聞こえたので、振り返ると、人魚の美しい姿が深海に映えていて、俺は虹色の足ヒレを動かしてそこへと向かっていった。

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