よかった
問題は、緑であることだった。
木の葉のそれとは違う、何かドロっとしたその色が彼女の体を伝うのを感じた途端、同級生に飲まされた便器から汲んだ水の味や、この左手首を見た時に母親がなんと言うのだろうかという不安は全てどこかへいってしまった。
もちろん、彼女には知識がある。理科の授業で出てきた「ヘモグロビン」という言葉の響きが面白かったし、アニメでもドラマでも父親の折檻の時でも流れる血は赤かった。しかし、今、自分の左手首からは、父親が与えたそれに近い痛みと裏腹に全く違う色が、きしむ音を立てるように流れていた。
これはおかしい、そんなはずはない。
彼女は、学習机に向けて緑色を流し続ける左手にカッターを握ると、その刃を右手首に押し当てた。右手と同じ痛みが左手を覆い、そのカッターの柄と同じ黄色の血が流れると、彼女は声を上げることさえできず息を荒げ周りを見渡した。
なぜ。
私は変なのだろうか。人の血は赤いに決まっているのに、赤くない血が流れた。いや、そんなはずはない。彼女はすぐにそのカッターで右の手の甲を切る。切ったあとからすーっと青い血が出るのを見ると彼女はすぐにカッターを持ち替えて左の甲を切る。
嫌だ、嫌だ、みんなに血の色が違うなんて。私だけ人間じゃないなんて、いつの間にか人間じゃなくなったなんてそんなの嫌だ。人間じゃなかったら、もっといじめられる、もっとけんかする、もっと殴られる。
左の手の甲から薄茶色の血が流れたのを確認すると、彼女は制服のブラウスを脱ぎ二の腕に刃を押しつける。紫の血を見るやいなや、彼女の刃は肩、胸、腹と順番に、まるで地図に線路と駅を描くかのように刃を押し当てて、傷と血の痕を残していく。彼女はすでに痛みなど感じることもなく、カッターの刃はさらに速度を増し、もうまるでカッターこそが彼女の正体で、それが彼女と呼ばれる肉体の手を動かしているかのように意志さえ帯びながら動き続ける。上半身がパレットのように美しくもグロテスクに混ざった無数の色に埋めつくされると、彼女はスカートに手を伸ばした。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。傷は全身を駆け巡り、すでに傷がない場所を探すほうが難しい。彼女はかなり前から座っていられなくなっていて、七色の血の池に仰向けで浮かんでいた。すでに彼女はその色も、いつの間にかその池に彼女の生命力を吸って花が咲いていることも認識できないまま、各色のペンキをバケツからぶちまけられたかのような裸体を晒していた。それでも彼女は消えつつある力を右手に集めて、もうどこだかわからない自分の体の一部に新たなテストを行う。
彼女はそこから流れる新たな液体を右手に感じると、瞬時に理解した。目が見えているといか見えていないとかそういうことを超えて、彼女は理解することができた。
ああ、これは赤色だ。間違いない。
やっと赤色が流れた。
私にも赤い血が流れていたんだ。
そう思うと、彼女の口角がほんの少し動いた。池はほとんど干上がりつつあり、周囲は、彼女から流れた血液と同じ色の花に囲まれていた。彼女の鼻がその花弁から漂う匂いを僅かに感じ、頭の中に幸福な映像を作り出す。笑顔の同級生や家族が、彼女の眼前に現れ、彼女に手を差し伸べる。彼女はそれを見て、表情を動かすことなく笑った。今の彼女には、それができたのであった。
みんなと同じだった。
ともだち、お父さん、お母さん、みんなと同じだ。
みんなと仲間だ。
みんなやさしい。
みんないじわるしない。
まるでそれが当然であるかのように、七色の血は全てなくなっていた。初めからこの色でよかったはずの、赤みを少し帯びた美しい肢体を投げ出した彼女は意識が全て幸福の中に消え去る刹那、この真っ赤に染まった子供部屋に「よかった」と一言残していった。
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