What a lovely day.

 「8:45」という数字に慌てなくなったのは先週ぐらいからだ。


 ジュー

 トン

 トン


 自分のいないキッチンから、小気味良いとは言えない音が響くことに不安を覚えなくなったのも。


「あ、ママ起きた」


 様子に気づいて駆けてきた息子が朝をもろともしない元気な声をあげながら、左手で目を擦る私の右手を引っ張ってリビングへと連れて行く。息子の服のボタンは掛け違えていない。その姿に安堵する私に香ばしい匂いといつもの子供向けアニメの悪役の笑い声が届いた。


「おはよう、もうできてるよ」

「おはよう」


 そう言いながら椅子に座る私に焦げていないトーストと目玉焼き、そしてウインナーが差し出された。ウインナーは夕食のコンソメスープに使おうかと思っていたが、まあ、今日の帰りにベーコンでも買えばいいだろう。目玉焼きの白身もきれいで丸い。型を使うことを覚えてくれたようだ。


「僕のはね、星型だったんだよ」

「そうなんだ、パパ頑張ったね」

「こうやって慣れてみると、家事もいいもんだね。俺結構才能あるかも」

「そういうのは何年も毎日やってから言うことよ」


 そんな会話をしながら朝食を取ると、自室へ戻り外出の準備を始める。ファンデーションの残りが少なくなってきた。今回のは色も肌にあっていたし、これも帰りに予備も含めて買うこととしよう。あまり派手なのもいけないと思い、白のブラウスに黒の薄いアウターと膝丈のスカートのツートンカラーにすることにした。こういう時、男というのはワイシャツ着ておけばいい面があるから楽だ。服を取り出そうとした時、クローゼットの隅に埃がたまっていることに気づいた。ああ、ここの掃除してないなとまだまだだな、と思いながら、とはいえあとで私がやっておけばいいかなどと考えていると、


「それじゃ、いってくるねー」


と息子の声が響いた。


「気をつけるのよ」


と私が言うのに重なるように、


「それではよろしくお願いします」


と保育所の送迎バスの運転手に話しかける夫の声が聞こえ、ドアが閉じられた。さっきまで、まるでこの前買ってきた128色のクレヨンで描かれたかのような息子の賑やかさに包まれていた部屋に、すぐに白い壁に調和する穏やかさが帰ってきた。

 昔は、こうではなかったらしい。私の祖父母の頃は育児休暇が子供が1歳になる時までしかとれず、今私達が使っているような育児リフレッシュ休暇もなかったと初めて聞いた時には驚いたものだ。そもそも、親が育児のために休暇を取っていた時には保育所に入るのはほとんど不可能だったという。私の両親も私が小さい頃には家にいてくれることが多く、それでもたまに私を保育所や祖母の実家、あるいは幼稚園時代の友人の家に預けていた。その日のことを思い出してみると少し寂しいと思うこともあったけれども、帰りにおみやげのお菓子を手に持ちながら私を迎えに来る、その笑顔とお菓子の甘さはいい思い出だし、今となってみればきっとその日に夫婦で気晴らしなりなんなりをしていてくれたからこそ、両親ともどもあんなにやさしくいてくれたのだろう。たまには服や文房具、私が欲しいと思っていたおもちゃを買ってきてくれることもあった。そういう時に買ってきてくれるものは、大抵いつも近くの服屋や本屋が一緒に入ったスーパーで買うよりもきれいな袋に入っているいいもので、きっと駅の地下街やデパートでつかの間のデートの合間に買ってきてくれたのだろう。いい袋に入った服を取り出してすぐに着てみた時、きっと私の成長を考えていたであろう少し長い袖をつまむ私に両親が微笑む表情は今も、実家の白い壁紙と、一番美味しかったおみやげであるナッツとキャラメルのかかったクッキーの味と共に私の記憶に残っていて、その姿が親となった私は身が引き締まる。果たして彼らが私のことを考えてくれてたように、私も我が子のことを考えているのだろうかと。そんなことを考える私に、洗い物の流水音が耳に入った。


 日が昇る前に雨が降っていたようで、道にはまだ水たまりが残っていた。車を駐車場に停め、助手席から降りると、駅の近くにある、立派な松が市の広報誌に最近載ったことが話題になっていた旧家の老家主が竹ぼうきでその水を掃いている音がサッ、サッと、手早くそれでいてとても品よく響いていた。私はその音を心地よく聴きながら駅前で数人の仲間たちと合流した。彼らも私達と同じように、みんなこの街に住み、この静かで美しい街を家族のように愛している人ばかりだ。集合時間の5分前についた私を、いつも20分前には着いて早めに準備をしてくれている主婦が出迎えてくれた。


「いつも早いんでしょ、悪いわ」

「いいのよ、私は家も近いし、家一人で暇だから」

「旦那様、ちゃんと連絡くれるの」

「ええ、今ならインターネットでテレビ電話もありますから、意外と寂しくないものよ」

「でも時差とかあるでしょう、ロンドンでしたっけ」

「そうね、でも夫の出勤前なら日本も夕方だから意外と大丈夫よ」

「おお、皆さんお揃いで、今日も熱心ですな」


 ありふれた主婦同士の雑談に、その聴き慣れたよく通る初老の男性の声が割り込む。私達も含め6人の仲間が揃って振り向くと、彼はいつものように濃い茶色のベレー帽を右手に持ち、ゆったりと会釈をした。


「あ、こんにちわ、いつもご苦労様です」

「本当にねぇ、電車賃だってかかるでしょうに」

「いえいえ、大事なことですから、さ、やりましょう」


 そう言いながら彼がベレー帽を持ったまま手を叩くと、そのポンという音を合図に私達は旗の前に横一列に立ち、それぞれに紙を持った。私達のリーダーでもありこの活動の発起人でもあるこの初老の男性は、かつてこの街に住んでいて、街のゴミ拾いや、子どもたちの交通整理などのボランティアを積極的に行っていた。若いうちに財をなし、その歳に手に入れた不動産や金融資産の運用で生活しているのだという。今でも彼の両親の実家であったこの街に愛着を持っていてくれて、今回も事情を知ると、立ち上がったほうがいいと率先して住民に声をかけ会議を開いたり、役所や関係機関との話し合いをセッティングしてくれたりした。


「昔の仕事もあってね、役所といろいろするのは慣れてるんですよ」


 かつてそう笑顔で話した時には一抹の怖さを覚えたが、彼の穏やかな声色と、その所作一つ一つに感じられる、ちょうど先ほどの品のいい箒の音にも通じるような凛とした姿には、信頼感と、彼自身の穏やかな生活から生まれたであろう心の余裕というものが感じられ、やはり成功を収めた人間というのは自然とそうなっていくのだろうと思わされた。

 私の人生も、彼ほどではないが、決して恵まれてはいないとか不幸だとは言えないだろう。だからこそ、この幸せを大切にしたいし、守らなければならない時もあるのだ。私は、改めて今という時代に感謝する。もし、育児支援が昔みたいにしっかりしていなければ、私は仮に休みであったとしても子どもの面倒を見ることに精一杯で、きっと、街の清掃活動や、今回のような活動にも参加することは叶わなかっただろう。


「この街のために、お願いします」


 そう言いながら笑顔で道行く人に声をかける彼女は、若くしてIT企業の役員をしながら、シングルマザーとして二人の娘を育てているのだという。きっと昔なら彼女がこんな場所に立てることなどありえなかっただろう。会議や活動の合間に何度か話したこともあるが、その大変さよりも、娘が木製のおもちゃで遊ぶ動画を心から嬉しそうに見せてくれたのことが強く印象に残っている。彼女も育児リフレッシュ休暇の大切な時間を使い、この街のために動いてくれているのだ。何より、そうしてこの街をよくすることが自分の愛する娘のためでもあると、ちゃんと理解しているのだ。私もその姿を見て、


「一度読んでみてください」


と、道行く人に声をかけながら、ビラを渡す。一人のスーツを着た男性が受け取ってくれた。私は半ば自動的に


「ありがとうございます」


 と、歩き去る彼にも聞こえるように大きな声を出して彼を見送った。そのあとも駅を通る少なくない人が私たちの姿を見たり、チラシをもらったり、人によっては署名に参加してくれたりした。そうしているうちに一人の高齢の女性が話しかけてきた。


「私はね、全然あってもいいんじゃないかと思うんだけど、あなた達は反対なのかい」

「私たちも、頭ごなしに反対したいわけじゃないんです。でも、住んでいる私たちの立場を考えてほしいんです」

「でも、かわいそうじゃない」

「彼らのためにももっといい結論があると思うんです」

「ふうん、まあ、あなたたち頑張ってるものね、とりあえず書いていくかね」

「ありがとうございます、この街のために、一緒に考えましょう」


 彼女が書いてくれた署名を見て、私は少し口元を緩めた。このように疑問をもってくる人に答えるのも慣れてきたと思う。最初はしどろもどろになってしまったり、夫が同じぐらいの世代の男性と口論になってしまったのを止められなくて、そのことが原因で家でも喧嘩してしまったりしていた。翌日の夜に改めて話し合い、これから私たちは住民を説得していって少しでも協力してくれる人を集めなければならないんだから、あまり攻撃的にならず、ちゃんと言葉も考えなければならないね、と言い合ったものだ。あの頃と比べると、互いに成長したと思う。


「許可がとれてるのあと15分だよね。そろそろ片付けないと」


 と、一人の男性が時計を見ながら声をあげた。彼こそ前に夫と口論していた男性だ。もう一度彼が来た時に、夫婦でゆっくりと今私たちが不安に思っていること、決して相手のことをどうでもいいと思っているわけではないこと、これはあなたにもふりかかることだということを説明すると、数日後に活動に参加してくれるようになったのだ。彼のように参加はしていなくても、私たちの考えに賛同してくれる人は増えてきているはずだ。

 雨がぶり返すことはなかったので、今日は多くの人の目に止まったと思う。それは余ったチラシの軽さからも感じられた。片付けをしている間仲間たちと雑談をしていた。当初から来ている夫婦は、最近夫の親がガンで入院したので入院や保険の手続きなどで忙しいので次の会議には参加できないけど、だからこそ今日だけはなんとか時間を作りたかったのだという。今回、ネットで知って初めて来てくれた大学生の男女三人は、生まれた頃から住んでいるこの街のために何かをしたかったという。こんな若い人たちがいれば、私たちも、私たちの子どもも安心だねと夫と笑いあった。その間にもリーダーはいつものようにベレー帽を脱帽して地方の新聞やFM局のインタビューに答えている。このようなインタビューにはリーダーである彼のような人が信用されやすいし、何より不動産の知識が必要なこともあるので彼が一番適している。次の施設建設側との会合は一週間後だから、それまでには記事や番組になってくれるはずだ。一般的には私たちはきっと薄情で残酷な人間と思われているのだろう。それでも、私たちの思いを知ってくれれば、少しは違う意見を持ってくれる人もいるはずだ。真剣だが、それでいて微笑みを浮かべる皆の姿を見ていると、不思議と息子の姿が思い出されていた。


「ねえ、帰りちょっと遠回りしてもらっていいかな」

「おお、なんだよ急に」

「ちょっとね、デパートでクッキーを買いたいのよ。あの子のおやつに」

「別にその辺のスーパーでいいんじゃないの」

「ダメなの、特別なのがあるのよ。あと、服も買いましょうよ、たまには」

「まあいいさ、ルート入れといてくれよ」


 私は夫が荷物を運びながら他の男性陣と談笑するのを見守ってから、先に車の助手席に乗り込みカーナビをセットしたあと、椅子のリクライニングを少し倒してから深々と座り、やっと一息ついた。何度もしているビラ配りと署名集めとはいえ、やはり緊張はしていたようだ。それでも全身に心地よい疲れを感じながら、私はチラシに目をやった。今回は初めて私が文章を書いたのだ。


「あなたが素直に不安に思うことを書くといいですよ。あと最近あったことが絡んでいるとより真に迫るかもしれませんね」


 とアドバイスをもらい書いてみたが、我ながら悪いできではないと思う。一枚家に取っておいて、何かの記念にしよう。子どもが大きくなったとき、こんなことがあったのよと見せるのもいいだろう。気がつけば同じ駐車場に車を止めていた仲間たちも順番に戻ってきた。徒歩やバス、タクシーで帰る人たちももうそれぞれの帰路につき、それぞれの日常に戻っていくのだろう。この日常を守るためにも、私たちは続けていかなければならない。そう思いながら、私は改めてビラに目をやった。





知的・精神障害者社会復帰支援施設の建築計画撤回を求めています。


 去年の9月、この街の区民会館跡地に知的・精神障害者の社会復帰をするための総合支援施設「スカーラ」を建築するという計画が持ち上がりました。この計画は周辺住民への説明もなしにいきなり決定事項であるかのように呈示されたたものです。私たちはこの計画は地域住民へのデメリットが非常に大きいものであると考え、この計画に反対しています。このような施設が建築されることは、現実問題として周辺住民にとって治安上の大きな不安を与えることとなります。このあたりは子どもやお年寄りも多く、そのことを考えていない行政判断ではないかと言わざるを得ません。行政と、指定管理人であるNPO法人は地域への貢献と交流を掲げていますが、それこそが不安を生むというのが現状です。実際に治安に悪影響があるかどうか以上に、そのような不安を与えること自体がこの街に与える悪影響は計り知れません。また、最近知的障害者施設を狙った悲しい殺人事件が起きたのは皆さんも知ってのとおりだと思います。そのような事件を呼び寄せてしまうという危険性も、地域の平和と安全を願うじものとしては考えずに入られません。さらに、施設ができることによる地価下落や商店の撤退なども確実視されています。また、建設計画では施設は3階建てとされており、周辺の日照権の問題も示唆されています。

 もちろん、知的・精神障害者にも権利はあり彼らの居場所は保証されるべきです。しかし、それがここである必要がどこにあるのでしょうか。この街ではない違う場所、たとえばもっと人口密度の少ない場所に施設を建てるなど、それこそが私たちのためにも、彼らのためにもなるのではないでしょうか。

 以上より、私たちは愛するこの街を守るため、「スカーラ」建設計画の撤回を求めています。署名は街頭の他にも、郵送、インターネットで募集しています。どうか、私たちの、この街の未来を一緒に考えてください。

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