実験室訪問

 驚きましたか。それはそうでしょう。人が延々と人を殴り、延々と殴られているのですから。

 これが私が今行っている実験です。非人道的だと言われれば否定はできません。だからこそ、彼らには高い報酬を約束し、肉体的、精神的なケアを実験の前後、そして六ヶ月の実験期間中にも、定期的に徹底して行うのです。殴っている被験者、殴られている被験者、どちらも1日にたった30分ほどこのように体を拘束され、実験に参加します。殴る役の人は胴だけでなく右腕も拘束されているのがわかりますね。その右腕が自動装置によって強制的に振り下ろされ、殴らざるをえなくなる、その時の人間の行動を観察するという実験なのです。

 嫌がるのでは、と思われるでしょう。ええ、最初はそうでした。「やめろ、やめろ」と言う人。「ごめんな、ごめんな」と殴る相手に謝る人。涙を流す人。せめてもの償いのつもりか、空いている左手で自分を殴る人。実験者である私や職員に呪詛の限りをぶつける人。そしてほぼ全ての殴る側の被験者が、必死に右腕を止めようとしていました。もちろん、最初からそれを計算の上で拘束装置を作っていますから、被験者には止めることなど不可能なのですが。それはとても興味深く、また心動かされる光景でした。当時の実験レポートを、あとでご覧にいれましょう。

 しかし、これは仮説よりも少し早かったのですが、それから一ヶ月もすると殴る側の被験者が、無言、無表情になり、止めようともせず、何も言わないようになっていたのです。きっと彼らは無駄であるということを理解したのでしょう。実験室からの脱走も難しいですし、彼らは経済的には貧しいですからこの実験の報酬はどうしても欲しかったのです。人は無力さを実感すると抵抗をやめるといいますが、まさにその通りでした。誰も口を開かず、ただ、無言で、強制的に殴り殴られる30分。殴る音と機械の駆動音だけがこだまするこの部屋。あの光景を見た時、私は人間という生物の恐ろしさ、そして、これはとても不思議なことですが美しさと可能性を感じる思いでしたよ。きっと、ただ無言で、この時間が過ぎ去ってくれることを望んでいるか、あるいはもう何も考えないようにしているのでしょう。聞き取り調査は、実験終了後に落ち着いてから行いますので、その時、どんな声があがるか、実に興味深いことです。私はおそらくヘルメットと防弾チョッキが必要でしょう。強化ガラスで私と被験者の間を隔てるのもいいかもしれません。

 それから四ヶ月あまり経ちまして、あと三週間でこの実験も終わりとなります。今でも彼らはご覧の通り無表情で殴り、殴られています。この悲しく、興味深い光景も、実験が終わればそこまでです。そして今回彼らを観察した結果は、人間という生物の理解を進めるための、すばらしい功績となるでしょう。



 まあ、二ヶ月前から殴る側の被験者の右腕を強制的に動かすのは止めているんですけどね。

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