101%シェネレーションス

 シャットダウンのボタンを押すというのは、ほんのちょっと勇気がいる。今日という日を終わりにするという決断は、なぜか常に躊躇いを伴うものだ。きっとそれは何もできていない今日への後悔と、きっと明日も、妙に忙しく、でも結果なんにもできていないといういつもどおりになるということへの恐れがあるのだろう。タイムラインは特も変わりもなく、内輪しか笑えない冗談と、どや顔のうまいことと、愚痴と憎悪が適度に希釈されて、だらだらいつまでも見ていられるちょうどいい刺激になっている。明日はアルバイトが休みで特にすることもないということが、この刺激をぼんやりと楽しむことをさらに正当化していた。

 ブラウザを起動したまま、フリーのテキストエディタを開く。数日前に10行ほど書いてそれっきりになっていた小説を履歴から呼び出す。小説を書いていると、少なくともタイムラインをぼんやり見ているよりは生産的なことをやっているような気がして、今日という日に何かをしたということ、そして、画面の右下に見える「2:17」という時刻表示への言い訳にはよいものだ。恋愛小説でも書いてみようかと思って、主人公が初恋の女性に再会する並木道の情景描写をしたところで、相手がその時着ている衣装が決まらなくて止めてしまったいたのだった。それは今日も同じように悩んでしまう。そもそも女性の格好というのを描写するのがとても苦手だ。頭の中に、女性の服装に関する知識があまりしっかりしていないので、うまく言葉にできない。ネットでコーディネートを検索しても、じゃあこの「春に映えるコンサバ系」や「たまには知的な女性に」みたいにタイトル付けられた服装の、この上着は何と言う名前なのかがさっぱりわからないので意味がない。女性ファッション誌でも買えばいいのかもしれないが、それはやはり少し抵抗もあるし、正直お金もない。適当に「どこにでもいそうな20代後半女性のそれだった」とかごまかす方法も、これが一度しか出てこないキャラクタだったらあるのかもしれないが、なにせ恋愛小説の相手というのは主人公以上に大切な存在であろうし、ここで手を抜くのも違う気がする、今まで書いていたわけでもないのに何がわかるのかという話だが。

 いつもこうだ、そんなことはわかっている。こうやって、どこかで止まってしまって、それをどうしたらいいか悩んでいるうちに、どうしていいかも、そもそもこれがいいことなのかどうかもわからなくなって、そのうち止めてしまう。そうやって途中で書きかけになっている小説を数えればキリがないほどだ。

 いや、そんなことは、わかってるよ。よぎった大量の知己の顔にそう答えるかのように口を突いていた。実際に投げ出したのは小説だけじゃない。進学、部活、初恋、習い事、研究、仕事、全部なんとなく始めて、最初はうまくいって、それなりに評価されて、でもそのうちにどこかで行き詰まって、それをやり直すことがうまくいかなくて、めんどくさくなったり、どうしていいかわからなくなったり、少しずつ「ここはいるべき場所ではないのでは」と思い出し、距離をとって、離れて、いつか戻れなくなってしまう。それっきりになってしまった学会準備用の資料や、ピアノの楽譜、デートのために買い集めたタウンガイドやファッション誌が、まるでこれを捨ててしまったらあの時の自分が投げ出したことを認めてしまったかのようで、どうすることもできないまま部屋の空間を減らしていた。とっくに戻れないことなんて、もう決まっているのに。

 タイムラインには顔を手で隠した女性の自撮りが流れている。僕より少し年下で、この前初めて詩集を出した詩人がイベントで関西にいったらしい。最近は少し注目されているようでトークイベントでファンだと言っていたインディーズの歌手と一緒だったり、ネットメディアにインタビューや本のレビューを掲載したりしている。何度かやりとりもしたこともあるがユーモアと才能のある人だ。隠されていない口元の笑顔が、彼女が今楽しんでいることをありありと伝えている。その口元に少しの色気を感じながら彼女の言葉をミュートして見えないようにする。僕が彼女を最初に知った時には、彼女はまだ無名で、たまたま川柳が新聞の投稿に載ったことを喜んでいるような感じだった。あれから数年、最近彼女は「ゆとり世代の傷を言葉に叩きつける」などと評されて雑誌に載っていた。その間の僕といえば、特に代わり映えもない。公募には出しているが、まだ文学賞にはかすりもしていない。

 気がつくと、雨が降ってきた。夜中でも抜けない暑さと相まって、ここ数日ずっと開いている窓から不快な湿気が入ってくる。扇風機はあるのだが、それをつけるのも億劫になっていた。体がさきほどと比べると幾分重い。ただ、それとは裏腹に眠気は全く感じず、変に意識ははっきりとしていた。脳裏では、もし彼女のように自分がデビューしたらどうなるかという架空の雑誌記事が浮かんでいた。妙に遠くを見て物憂げな写真に、きっとなんか妙に飾ったセリフが小見出しを飾るだろう。ただ、記事の一番最初に書かれる大見出しが思いつかない。いったい、自分にはどんなキャッチコピーがつくのか、まったく想像がつかなかった。彼女のようになんとか世代とかつけようにも、自分の少し下の世代からがゆとり世代であり、その上にはロスト・ジェネレーションというのはあるのだが、それはまさに僕らの一つ上の世代から始まるのだ。僕らの世代は、何でもない。どちらの世代も、どちらからといえばネガティブな意味だろうから、そういう意味じゃ何もついてないというのも悪くないのかもしれない。ただ、いろんな雑誌で「ロスジェネの雇用危機」とか「ゆとり世代とのつきあい方」とか言われている姿が、ほんの少し羨ましかったこともある。とりたてて景気がよかったわけでも、悪かったわけでもない、僕らは、世代にさえなれない、空白だった。

 テキストエディタの画面はやっと12行目まで進んでいた。衣装は、とりあえず彼女はさっぱりした性格だから服装もラフなTシャツにジーンズでいいやとということにした。先ほどの詩人の自撮りがちょうどそんな格好だったし、それをそのまま描写していた。そんな感じで画面の半分ぐらいを文字が埋めているが、今日は自分の目が残り半分の空白に行ってしまう。自分は、この空白だ。最初だけそれなりにうまく書けているが、結局、止まってしまい後が続かない。キーボードを打つ手が止まる。ゴシック体の文章に目がピントを合わせられなくなる。まるで、自分がこの文章の意味を自分で否定しようとしているようだった。

 もう、このへんなのかな。

きっと、今までずっとよぎっていたのを気にしないふりしていたであろう言葉に、文章の代わりに頭の中で焦点が合った。その瞬間、強烈な嘔吐感に襲われ、それを必死に飲み込んだ。それは受け入れられない言葉だった。しかし、いつかは受け入れなければならない言葉だったのかもしれない。昔、小学校オリジナルの紙芝居をつくろうということがあって、そこで考えた宇宙人と子どもたちの物語を先生や同級生に褒められたのが嬉しかったことを思い出して小説を書き始めた。最初は400字ほどの作品を書くのにもひぃひぃしていて、物語もどこかで読んだようなありふれたものであった。今考えてみればさきほどの紙芝居も有名なSF映画とほとんど変わらなかったし、先生もそれをわかっていながら褒めてくれたのだろう。そんなわけで初めての小説はあまりできはよくなかったけれども、それでも最後の一文を書いた時には、何とも言えない充実感があり、少しずつ字数を伸ばしてきた。その度に少しずつうまくなっていたという実感があるし、それはとても楽しいものだった。そうやって書いているうちに何なら小説家になってみたいという思いが浮かんできて、公募に出してみることにした。誰かに読んでもらって、評価してもらう。そういう気持ちで書き出すと急に手が進まないようになった。そもそも、何を書いていいのかがわからなくなってしまった。それまでは思いのままにSFっぽい作品とか、青春物語、あるいは設定も適当なファンタジーなんかを書いていたのだが、実際に書いてみようと思うと、自分にはどんな作風があっているのかがわからなくなってしまったのだ。そこで初めて、自分には作家としての色というか、自分とはこんな作家ですという特徴がないということに気づいた。それを実感した時のことは今でも覚えている。今と同じようにPCに向かっていて、作品の高層を練っていた時だった。自分は純文学がやりたいのか、エンタメ小説がやりたいのか、自分の作品のよさとは何なのか、あるいは苦手なのは何なのか、おおよそ小説家と呼ばれる人間は、きっとそれがわかっているのだろう。そしてそれによって「ミステリ小説家」とか「SF作家」とか「人間の本質に迫る描写に定評のある」などの名前がつくようになるのだろう。しかし、自分はそれが全くわからない。自分が何なのか、それがわからないのだ。いや、そもそも自分は小説家でさえないし、仕事という観点からすればフリーターということになるのだろうが、今の仕事は正直いって代わりはいくらでもいるだろう。恋人も親友もいない。自分を本当の意味で必要としてくれる人間などいないような気がしてならない。自分も他人も、自分はこういう人だよと定義することはない。自分は、なんでもないのだ。

 改めて、あの詩人のことを考えている。彼女のことで、ひとつショックなことがあった。彼女が「昔のが出てきた」と中学校時代に詩が雑誌に載った時、地元の新聞で少し注目された時のインタビューを上げてきたことがあったのだ。その時、一瞬呼吸が止まり、胸が詰まり、思わず画面から目をそむけてしまった。昔、好きだったバンドのボーカルが実は有名な歌手の息子だったということを知って以降、急に興味がなくなって聴くのをやめてしまったことがあった。正直「そんなものか」と思ってしまうのだ。今、自分の目の前でいい創作をしていて、評価もされている人は、大抵それなりの理由、多くの場合は持って生まれたものとか子供の頃からの積み重ねによるものが見え隠れするのだ。五輪のメダリストもたいていは子供の頃から競技に親しんでいたり、親がアスリートだったりする人ばかりだ。その事実が、今まで、何もない人生を送ってきた自分へ「諦めろ」と言っているように感じられてならないのだ。子供の頃から、自分にはいろいろな夢があった。スポーツ選手、弁護士、心理学者、画家、ゲームクリエイター……、今思い出してみてもそれはあまりに取り留めもなく一貫性もなかった。きっと、私は野球選手になりたいわけでも、法律で人を救いたいわけでも、面白いゲームを作りたいわけでもなく、「何か」になりたかったんだと思う。今考えればそれも傲慢だというものだが、サラリーマンに代表されるような「一般人」になるのがとにかく嫌で、それではない、ドラマだったらその職業であるだけで何か大事な役があてられそうな、そんな人になりたかった。しかし、今考えてみれば、そういう「何か」になっている人は、きっとそんなことも考えることもなく邁進していった人か、あるいはもうそういう恵まれた世界に行けるようにレールが引かれているような人が殆どで、そうではない人というのは、よほどの才能に恵まれている人なのだろう。どこかではわかっている、自分には、その「よほどの才能」はない。多少の計算能力はあるから、これぐらいはわかる。僕は100%何かにはなれない。才能も、生まれも、時間も、何もかも足りない。

 気がつくと、雨は先程より強くなっていた。重い体をなんとか立たせて、窓を閉める。きっと、才能とか、昔からの経験のあるような「小説家」や「詩人」だったら、この雨の音から何かを思いつき、それを作品に昇華させていけるのだろう。少し窓の景色を見ながら、一度窓を叩く。不快に響いた音が部屋にこだまし、少しずつ小さくなっていく。また椅子に座り、画面を見つめ、キーボードを叩いた。

 数行ほど書いたところで、まだ書き続けている自分に気づいた。なぜ自分はまだ書き続けているのだろうか。自分でもよくわからなかった。雨の音は相変わらず止むことなく、僕の背中に響いている。なぜか先ほどより妙にすらすらと文章は進み、初恋の人との会話というきっと難しいだろうなと 思っていた箇所もすらすらと進んでいく。まるで、自分が、何かを諦めたことで解放された、あるいはもっと大事なものを諦めなければならないことへの抵抗を手が僕に変わってしてくれているかのようだった。

 完成させてみようか、そう思った。

 そもそも、自分はここ最近小説を書き上げていない。それが、こんな不安や諦めの気持ちを作っているのかもしれない。とりあえず、書き上げてみれば変わるかもしれない。まずは書き終える、どんな小説の本にも書いてある基本中の基本のアドバイスだが、本当にそうしなければと、急に素直に思えるようになった。校正とかはあとでやればいい。面白いかどうかもそこで考えればいい。そう考えるとさらにタイピングが進んだ。もう午前3時をこえているが、気にして入られない。こういうかけるときに書くのが大事なのだ。どうするかは書き終わってから考えればいい。たとえ、100%何かになれなくても、世代でくくれなかったとしても、とりあえずやってみたい、そう思えた。もし、そうやってひ

たむきにやっていれば、100%何になれなかったとしても、その先が見えるかもしれない。そうおもったた途端、雨の音が聞こえなくなった。でもそんなことには構ってられなかった。とにかく、今はかけるだけ書き終えたい。机の横においてあったお茶を一気に飲む。書き終えよう。そう決意をした私は、まず考えなければならないことがあると感じた。それは、

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