二胡

 「東ホール」が葬儀場だなんてことは知らなかった。昔社会の教科書で見た「こうみんかん」かコンサート会場かどちらかの一つなんだろうと思っていた。

 母はきれいな顔をしていた。珍しく化粧もしっかりしている。その表情を見た時、実家にあった二胡のことを思い出した。母は結婚するまではよく弾いていたという。あの二胡はいつもピンと弦が張っていて、母が、父親が見ない時にそっと弦を触って、締めなおしていたことがうかがえた。その時の弦のように、母の表情は張っていた。昨日まであんなに泣いて、うろたえて電話してきていたのというのに。


 妹は来られなかった。というより、飛行機に乗れば来れたんだけど、今の時期そのリスクを負うのも父は望まないんじゃないかってことを私が母に伝えて、来ないことになった。


本当に、よかったと思う。


体がすくむ。

頭に浮かぶのは、熱と、毛の感触。

そして妹の顔。


 気がつくと、母は風呂敷に包まれた箱を受け取って、それを持った瞬間まるでそれの重みに体を任せてしまうかのようにかがみこんだ。それでも顔はさっきと同じようにピンとしていて、まるでその表情を維持するために全ての力を使い果たしたようだった。私は母に近寄るとその肩を抱こうとして、直前で、体に触れるということへの躊躇で手が止まる。母は、今はそれでいいんだよと言わんばかりに自分で起き上がった。その姿がスローモーションに見えた。ドラマやアニメで見る「おばあちゃん」の動きだった。

 ホールの中が見える。ガラス窓の中からサントリーの自販機の青色が見える。父がいつも飲んでいるコカコーラではなかった。あの人は、今、あの箱の中で何を思うんだろう。コカ・コーラゼロが飲みたいとでも考えているのだろうか。ちょっと喉が渇く。自販機に入っている飲み物のことを思い浮かべていると、前に立っている男性が話し出した。礼服の着方が一見するだけでも美しく、着慣れていることがよく伝わり、こんなアスファルトの上でさえ、彼の姿を見ていると今自分は葬式をしているんだと思い起こさせてくれる。この男性だってこんな葬式は慣れていないだろうが、それを感じさせない。優秀な人なのだろう。父親も消防士としては優秀だったようで、賞状は昨日も二枚ほど実家に貼られていた。


「今回は、昨今の事情によりこのような形でのお見送りしかできず…」

その言葉を聞いていると、みんなが下を向いていることに気づき、私もそれに続いた。「昨今の事情」という言葉で「コロナ」という言葉をぼやかしてくれた。これがプロというものなのだろう。そこで骨になっている父親も、消防士としてはプロであったのだろう。そういえば、父が私の同級生の家の火事を消した時、同級生からとても感謝されてそのお母さんからおいしいクッキーをもらったのを覚えている。あのクッキーはおいしかったなぁ。きっと彼と両親にとっては、父親は、あいつは忘れられない英雄なのだろう。まだ彼には伝えてないが、きっと悲しむだろう。でも、私にとってはあいつはクッキーの甘さじゃない。


酒臭い息と、汗で染みた手と、妹の泣き顔だ。


 気がつくと解散になっていた。左の掌が痛い。拳を強く握っていて爪が刺さっていた。一瞬葬儀会社の男性がこちらを不安げな表情で見ていたような気がした。あの頃のことはたまに思い出してしまう。よりひどかった妹は余計そうだろう。


「今日は、泊っていかないの」


母の声に振り替える。母親はまだかがんでいるように見えたが、そう見えただけで、その曲がり始めた背中と不安げにこちらを見上げる表情が小さく見えただけだった。高校の時のボランティア活動で見た認知症のおばあちゃんにちょっとだけ姿が似ていていることを思い出していると、目線に母親の持つ骨壺が入る。その途端、脇と臀部を撫でまわす手と、妹の爪に残っていた血が頭に浮かぶ。


「一応、自宅待機だからね。また落ち着いたら来るよ。ごめんね」


 そこまで早口にはなっていなかったと思う。いい言い訳ができてよかった。葬儀場の人に最低限のあいさつをして振り返る。母親の声に右手だけを上げて早足でホールの駐車場を去り、角を一つ曲がったところに子どもの声が届いたけど姿は見えない。住宅街のまっすぐな道には人も車もなくて、まるで自粛という渦に飲み込まれて、全てがこの直線の先へと吸い込まれて違う世界へ行ってしまったようだった。自分もその先へ歩いていく。妹にLINEを送ろうと思ってスマホを取り出し、アプリも起動せずまたカバンにしまう。何と書いていいかわからないし、何よりこの空間にスマートフォンというのは合っていないとしか思えなかった。相変わらずこの直線には何もなくて、通りがかった公園もがらんどうで、塗装の剥げたパンダの乗り物が、ずっと昔に同じ乗り物で遊んだ時に感じたあの揺れ方を思い出させてくれるぐらいだった。


 世界は今年のことをひどい時代として書き遺すだろう。でも、ここに一つ、いいことがあったことは遺しておきたい。二人の娘の体を触ることに異常な執念を見せ続けていた男が死んで、しかもその娘は葬式で死体を見ることも、多くのその男を慕うであろう人々のために親の死を悲しむ娘の姿を演じる必要もなかったのだ。


 テレビのニュースが聞こえてきた。当たり前だけど家の中には人がいるのだろう。「やっぱり、せめてお父さんをちゃんと見送りたかったです」きっと妹に近い年齢だと思われる女性の声が聞こえる。

 それを聞きながら、自然と目を押さえていた。今日初めて悲しくなった。世の中には父親のことを愛し、その死を悲しめることがいるんだということ、それが悲しかった。目を押さえる右手の腹が、水分と熱を感じていた。その水分と熱に交じって、少しだけ聴こえてくる音があった。


 優雅で、それでいて凛とした、水音にも似た弦の音。


 その音の奥から母親が二胡をバイオリンのように持って弾いている姿が見えてきた。


 二胡は、ゆるやかな川のような音がするのよ 


 そうだ、母は一度だけ話してくれた、その言葉そのもの音だ。


 自分は二胡の音も弾く姿も知らないから、きっとこの姿は間違っているのだろうけど、自分のイメージに浮かんだ母はあの時の二胡のようにピンと張っていて、それでいて表情は何かから開放されたように柔らかかった。母は今日から二胡を弾き始めるかもしれない。そう思いながら手を目から離すと、だいぶ歩いていたことに気づく。さっき違う世界と思っていたまっすぐの先にいる場所にとっくについていた。でも世界は変わらず静かで、何も変わらない。それがほんの少しだけ嬉しかった。落ち着いたら、母に二胡を弾いてもらおう。その時まで、自分も母も生きていければ。さあ、帰ろう。

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