ヨブ記の中に神の名が書かれていない。
(現代の聖書では「主」)
だから我々には、ヨブが正しい神の名を知って呼んでいたかどうかは不明だ。
勿論、原本から復帰させる手法で手掛かりは掴めるかも知れない。
しかし、鬼の巧妙さはここにある。
現代日本でも、神の名が変化を起こし、「伊勢神宮」の「イ」から「八幡」の「ヤ」に挿げ替えが起きている。
昔の人が「ヤイヤイどっちだ」と問いただし、「ヤの神」だと判明したらこう言う。
「やはり!」
この言葉を「ヤハ・り」と解するなら、意味はこうなる。
→ ヤハなら当然だろう
(あんな事態になるのも)
この「やはり」は、「ヤハ」なら信仰深いヨブにあの経験を許したのも当然・・・
そういう意味を込めていたのではないか。
これが妄想であったとしても、「ヤ」と「イ」の違いは正反対で、流れは「イ」から「ヤ」に向かっている。
「ヤの神」は全世界を掌握するほど自由自在なのだ。
鬼と戦うなら、鬼の心理を常に頭に置く必要がある。
「イからヤに置き換えてやるぞ」
これを読む事が、ヨブ記を現代に活かす知識ではないだろうか。