福音書の例え話は意味が深い。
中でも、ミナやタラントの謎はどうしても解きたかった。
※ 現在の解明はまだ、「私見」の域を出ていないが、それでもホッとしている。
主人が戻り、吟味を始めているとしたら「『たった一つ』に属する知識」は広まっているだろうか?
1.主人の性格(タレント)
2.主の名(本当の名)
そして、弟子の熱意も吟味される。
3.拡散・伝達への働き具合
マタイ25章24節で、1タラントを預けられた下僕はこう言った。
「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」
彼は、主人の「収穫域」が、「選民」だけでなく「諸国民」まで含む事を問題視している。
「本物主人」(一枚目イエス)が再臨すると、世界の畑に実っている「二枚目の主」が蒔いて広めたキリスト教も収穫対象となるのである。
→ 奪われてしまう
それで「1ミナ」「1タラント」を受けていた下僕は恐れたのだ。
この主人は
→ 異邦人の畑
(蒔かなかった所)
からも刈り取る…
異邦人の畑に蒔いたのは、
「二枚目の主」。
※ 「一枚目」のイエスは、異邦人の畑に種蒔きしてないが、本物イエスの性分は「異邦人も救う」のだ。世の神から、畑を奪ってでも収穫する。
そうしないと、異邦人は神の王国に入れない。
→ その手法が「ひどい」?
「奪われた!」・「ひどい!」と評価すべきは誰か?
「一枚目の弟子」ではないか。
「二枚目」が「一枚目」の地位を奪って、異邦人(自分の畑)に種蒔きをさせたのだ。
異邦人はむしろ、鬼の懐から出て神の王国に入る方がよほど救いである。
それにしても、一枚目イエスは、実に「策士」であった。
→ 策士(succeed)
【succeed】サクシード
原意:彼について行く。
1,成功する、うまくいく。
2.後を継ぐ、相続する。
3.次いで起こる。
「二枚目」も後を継いで成功はしているが、「一枚目」が上を行く。
終わりの日の救いは、ヨナ書にあるように「異邦人の畑」にも及ぶのだ。
イエスこそが策士である。