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人情抜きの違和感

人々は、人情物の芝居が好きである。

事細かに感情の流れを演じるから、観客も喜怒哀楽の波に揺れ動く。

しかし鬼は「冷血」であるためそれを理解せず、事務的に伝えて終わりとする。

聖書中で、鬼の風が吹いている部分では、人の心が凍ったようになっている。

鬼の尖兵として使われている時、選民もその指導者も心が鬼になる。

ホレブでのモーセは「前の神」の恐ろしい剣幕の風に心が冷え、仲間たちを冷徹に粛清した。

勿論、戦記などに感情を織り込むことは出来ないが、平時でも説明があまりに簡素な部分も多い。


 ■鬼にとって感情表記は面倒

鬼の鬼たる由縁はここにある。

サタンがよく使うセリフがこれだ。

「革を剥げ」

例えば、心を覆う神の衣を取り去ってしまうと、一瞬の風で冷え切ってしまう。

彼は、自分でも不思議なほど冷徹な態度を示すだろう。

人はその状況に気付かない。

相手の人情に訴えているのに、「規則ですから」と突き放す態度もそこから出ている。

規則最優先という罠は、あらゆる人に仕掛けられている。

先人が言う「妙な風」は、肌身に感じない。

しかし敏感なら、「人情抜きの違和感」を通して、鬼の風が読み取れるはずである。

1件のコメント

  • ヒロソ様。

    鬼も人に取り付く事によって笑う事が出来ます。ただ、剥き出しの霊体であるときは、笑う事はできません。しかし、泣き顔にはなります。ですから悪魔払いには「笑い」は欠かせません。

    キリスト教系の集まりで出現した悪魔は卑猥な言葉を吐こうとしたので、笑い飛ばしたところ、泣き顔になりました。卑猥な言葉は神父に通用したと見えて、出鼻を挫かれ泣き顔です。

    しかし、キリスト教系の修行者が「ルシファーの残したマントラ」について語っていたので、原始キリスト教はおおらかであったのだとほっとしました。

    今のような、使えない神父は二枚目の仕業であると思います。
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