イエスが墓に入ると早速、鬼の世界が動き始めた。
二幕目の始まりだ。
イエスの死の瞬間、神殿を覆う幕が上から下まで裂けた理由もそこにある。
→ 一幕が終わった
天の父が心痛を表明。
救いの一幕が終わった…と。
二幕目は、まるで様変わりする。
→ お飾りでギンギラギン
切実な話を持ち出せる雰囲気ではなくなったのだ。
現代の我々は、最初からその雰囲気に浸っているので、気付かなかった。
しかし一幕目のイエスは、「親身の主人」。
福音書に書かれていない多くの悩みを聞き入れたと思われる。
もし、書いてあっても、二枚目が削除してしまっただろう。
「当たり障りのないように」書き換えられているのだ。
→ お上品に
しかし、我々の悩みは、お上品なものだけではない。
そうした話を持ち出すと、こう言われる。
→ 罪に類する話は止めなさい
こうして、下世話な話が消え去ったのだ。
カルトにはその雰囲気があり、見た目が最重要だと教育を受ける。
本当に困って、宗教の門をたたく人に、着飾れる余裕があるだろうか?
→ ボロボロ・ズタズタ
(心も体も)
そんな人のための宗教ではないのだろうか?
我らが主、後の神は「飾り物を外せ」と言った。
「着飾らなくていいよ」という意味ではないかと、私は思うのだ。
無一文で藻掻く人が、どうして着飾れるだろうか?
二枚目は「お上品の世界」に拘り、どん底の弱者を見捨てている。