イエスが目指していた平らな地。
奇妙な話だろうか?
私は、「親心の表現」だと思った。
例えば極端な話、
「保育園」の庭が急峻な山や絶壁を取り入れて構成され、「子供たちの冒険が可能」と説明されても、
親は嬉しいと思わない。
そうではないだろうか?
子供たちは、平らで安全な庭で、結構楽しく遊んでくれる。
「ここに面白さを加えよう」
「何人かは死ぬかも知れないが」
それは「他人の考え」だ。
平らでない地球を構築し、「面白さを加味してやった」という『配慮』には、明らかに他人の気質が絡んでいる。
「冒険の旅をするよ」と子供が言うと、「何処へ行く?」と親が聞く。「南極探検」や「ロッククライミング」と聞いたなら、それを止めたいのが親心。
危険な凸凹には他人の心・・・
平らな地球には親心・・・
それだけは確かだろう。