24◇本心
ディオニスにとってはもう古傷のつもりなのだが、当事者としてそう簡単に割り切れないところもある。
けれど、アンは同じ体験したわけではないのに。
アンは涙を拭いながらつぶやいた。
「小さな子供が、大きな声で怒鳴られるのって、本当にとても怖くて、つらいの、わかります……」
これを聞いた時、以前アンが男たちに怒鳴られて竦んでしまった理由がわかった。あれも幼少期の傷跡なのだ。
ボロボロと涙が次から次へと零れていく。
ディオニスはアンから話を聞こうとしたのだが、こんなにも泣かせてしまうのは本意ではなかった。
胸が疼いて、体が勝手に動く。アンの頭を自分の鎖骨の辺りに押しつけ、体を寄せた。アンは緊張していたけれど、逃げなかった。
「アンにもそういうことがあったのか?」
労わりながらそっとささやくと、肩に頬を擦りつけるようにアンがうなずいた。涙を吸ったシャツは風が冷たく感じても、アンの体温はあたたかい。
「……私のお父様も、とても厳しくて」
「よく怒鳴った?」
「お会いすること自体が少ないので、頻繁にではなくて、でも、急に叱られるのが怖くて、いつも怯えていました」
アンに味方はいなかったのだろうか。――多分、いなかったのだろう。
それで、料理や掃除といった使用人がするようなことをさせられていたのだ。
あの傷はその父親の折檻の痕だろうか。ディオニスの父は厳しかったし言葉はひどいものだったが、体罰を与えられたことはなかった。女の子の体にあそこまで惨い傷を残すようなことができる神経は、さすがにわからない。
ライエ名誉教授はディオニスに、『あなたはゲスとまでは言えない』と言ったけれど、本物のゲスがアンの親だったりするのか。
その親から逃げてきたところをライエ名誉教授が匿っていたのかもしれない。
アンも、話し始めたのだから全部吐き出してしまおうとしたようだ。けれど、息遣いがとても苦しそうに感じられた。
「お父様も怖かったのですが、お姉様も……」
「姉がいるんだな」
「はい。……もう嫁いで行かれましたけれど」
アンの姉ならば二十歳くらいだろうか。父親似のサディスティックな姉もアンを虐めていたらしい。
「最初は、わざとではなかったと思います。私を突き飛ばした拍子に、暖炉の柵が刺さって――でも、私が我慢したのが気に入らなかったのか、それから次第にひどくなっていって……」
そこまで言うとガタガタと震え始めた。姉はアンが誰にも言いつけないのだと知ると、さらに妹を苛めたのだ。
いや、アンが誰かに言いつけたところで、アンの味方はいなかった。だから、アンは誰にも言えなかったのではないのか。
「お父様はお姉様にも厳しくて、お姉様も感情のやり場がなかったのだとは思います」
「だからって、アンが捌け口にされる筋合いはないだろう?」
そんな陰湿な家でずっと暮らしていたのなら、アンは見た目以上に疲弊していたはずだ。
ライエ名誉教授がディオニスにこの課題を吹っかけたのは、もしかするとアンを家族の追跡から隠す目的だったのではないかと思った。事実、そうなのだろう。
だったら、あんな禁止事項は知らない。
不必要に触れるななんて、うるさい。不必要ではなくて、どうしても必要だから触れる分には文句は言われたくない。
ディオニスはアンのことを抱き締めた。本当はもっと前にこうしていたかった。
すると、アンはやっと我慢をやめたのか嗚咽を漏らし、ディオニスに縋って泣き続けた。
柔らかくて、あたたかくて、脈打つ彼女の体は壊れやすい。
だからあまり力を込めてはいけないのに、感情との折り合いがつかない。体が思考を裏切るようにアンのことを抱き締め続けていた。
最初に屋敷に迎え入れた時、アンは必要以上にディオニスの顔色を窺っていて卑屈なところがあると感じた。けれど、家族にすら大事にしてもらえなかったアンが他人を警戒したのは当然だった。
あの時、冷たい言葉をぶつけずに、もっと優しくしてやれていたらよかったのに。
今更ながらにあの時のことを悔いた。
アンは泣きすぎたせいか、途中からしゃくり上げていて、そのたびにディオニスは背中を摩った。アンの背中を流れる赤毛は柔らかくて手触りがよかった。
――結構長い時間、二人で岩の上にいた。徐々に日が傾いていく。
丘の風景が夕日に染められ、それもまた綺麗だった。アンを腕に抱いてぼうっと丘を眺めていると、いつからかアンがディオニスを見上げていた。
「あの、私……」
潤んだ目でディオニスに何かを告げようとして、それを結局言わずに下を向いた。そんな表情をしておいて隠れようとするのは駄目だろう。
ちゃんと言葉にしてほしい。それなら、まず自分から、なのだろうか。
「アンにとって居心地の悪い家なら、もう戻らなくても構わないだろ? このままうちにいるといい」
――いるといい?
これもまた、自分が傷つかないための狡い言い方だと自嘲した。
コーネルならきっと、こんなふうには言わない。拒絶を覚悟しつつ、恥をかいても本心をさらけ出す。
今だけはあんなふうになりたいと思えた。
「違うな。俺がアンにいてほしい。アンが来てくれてから、家に帰るのが楽しみになった。こんなこと、今までには一度だってなかったのに」
これを言うのに緊張してしまったのは、密着していればバレただろう。それでも、アンは恐る恐るディオニスを見上げる。
ディオニスの緊張が伝わったように、アンの心音も聞こえた気がした。
「でも、私はきっとご迷惑をおかけしてしまいます」
言葉よりも、この鼓動の方がきっと正直だ。だからこそ、気持ちとは裏腹なことを言うアンに対して意地の悪い気持ちにもなる。
こちらは正直に言ったのに、アンは本心を隠すのかと。
「迷惑をかけるからやめておくって? 本当は俺といるのが嫌だから出ていくって言っているように聞こえるけど」
途端にアンはディオニスの服を皺になるほど握り締めた。そうして、必死で思いを伝えてくれる。
「違います! 嫌だなんて思っていません。私は、ディオニス様のところにいられた時間が一番幸せでした。あんなに褒めて頂いたり、大事にしてもらえたことはありません」
――ろくな扱いができなかったはずなのに、あれで幸せだったと言ってもらえるくらい、アンはひどい生活をしてきたのだ。
穏やかに見えるだけで、アンは疲れきって壊れる寸前だったのかもしれない。
そう思うと、どうしてもその悲惨な日常を塗り替えてやりたくなる。
「じゃあ、こうしよう」
「はい?」
「今日からアンは俺の婚約者だ」
「ええっ!」
真剣に言ったのだが、アンは目を回しそうだった。
「返事」
催促すると、アンは赤い顔でこくん、とうなずいた。
「はい。……お慕いしております、ディオニス様」
「うん」
やっと、アンの頬に触れることができた。
滑らかな肌を指先が滑る。親指で唇に触れた。
そこからはもう、ライエ名誉教授の顔はチラつかなかった。
ただアンのことを愛しく思い、日が沈んで紫に変わりつつある空の下、唇を重ねた。何度も、これが夢ではないことを確かめるように。
アンのことは生涯かけて護る。
その一点のみは、この課題が終わっても続いていく条件だ。
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