19◇傷跡
朝になって顔を合わせたアンに昨晩の怯えた様子はなかった。
いつも通りと言えるけれど、ただなんとなく恥ずかしそうにしていた。そんな表情を見ていると、やはり心臓がギリギリと痛む。
「今日は学校帰りに寄るところがあるから、帰りがいつもより遅くなる」
ライエ名誉教授に会うと言ったら、アンは自分のことを話すのだと勘づくだろう。だから行き先は告げたくないが、無断で帰りが遅くなるのもよくないかと、これだけを予め伝えておく。
「そうなのですか? わかりました」
わかりましたと答えながらも、アンはしょんぼりとした。
まるで、ディオニスに早く帰ってきてほしいように見えた。そんな顔をするから、心臓の痛みが引かない。
「なるべく早く用事を済ませて帰るから」
「はい、お待ちしております」
こんなひと言で嬉しそうに笑う。そうすると、ディオニスの心臓がまた疼く。
アンに振り回されている――でも、それが嫌ではない。
「……うん」
答えた自分の笑顔は、最初に指摘された時とは違うのだと思える。
笑うつもりではなくても笑っている。
放課後、ディオニスはチャイム音が鳴り終わる前に校舎の外へ出ていた。忘れ物をしていないかどうかも確かめていない。
そこから一気にライエ名誉教授の住まいに飛んだ。
「ライエ名誉教授! シュペングラーです。お話があります」
玄関先から呼びかけると、あのライエ名誉教授によく似た顔の自動人形が出てきた。
「どうぞ中へ」
ライエ名誉教授はディオニスが近いうちに来ると思っていたのだろうか。来訪に驚いた顔は見せない。安楽椅子に揺られながら編み物をしている姿はただの老婦人だ。
「今日はどうされました? まだ課題は終わっていませんけれど、もしかして砂糖を使いきりましたか?」
「いえ、そうではなくて……」
四個も使ってしまって、かなり危うい状況ではあるのだが、まだ失格ではない。
「お座りなさい。フィニア、お茶をお出しして」
この自動人形には名前があるらしい。ライエ名誉教授にとって愛着もあるのだろう。
ディオニスはソファーに座り、ライエ名誉教授はその正面に座り直す。
向かい合うと、ディオニスは覚悟を決めて口を開いた。
「アンのことなんですが」
「なんでしょうか?」
「彼女の背中にひどい傷跡があるのを見てしまい――」
これを言った瞬間にライエ名誉教授の顔が凍りついた。
それと同時に側面から殺気を感じ、ディオニスはとっさに頭を下げた。
壁にフォークが突き刺さったのを見てゾッとする。フィニアが放った一撃は正確だった。
「あら、ごめんなさい。この子は護衛も兼ねていて、私の心の動きに敏感なのです」
ほほほ、と笑っているが、ライエ名誉教授がディオニスに殺意を感じたと言いたいらしい。本当に敵に回したくない人だ。
「は、話を最後まで聞いてください! 俺が無理やり脱がせたとでも考えておられませんかっ?」
「そうではないことを願います」
目が怖い。
「違います。絶対に」
ひとつ咳ばらいをし、ディオニスはその目に耐えながらなんとかここ数日の出来事を語った。
「禁止事項の中に、彼女の過去を詮索しないとありましたが、それを知らずにいることでアンを不用意に傷つける可能性があると思えてなりません」
知っていたなら、新月でも明りが消えないようにもっと気をつけた。知らないうちに言ってはならないことも言っただろう。
そうしたものをなくすためには知るべきではないのかと思う。
けれど、ライエ名誉教授からすると、そこまで長い期間に渡ってアンを預けるつもりはないのかもしれない。ディオニスのことをまだ完全には信用しておらず、深い事情を話したくないのか。
――課題が終わればアンはいなくなる。そんなことは最初からわかっている。
いつまでもいてくれるなんて思ったことはない。
ライエ名誉教授は、不意に表情をゆるめた。ディオニスの発言は的外れではなかったということだ。
「私が無断であなたに話したとなると、アンもいい気はしないでしょう。詮索するなとは言いましたが、アンが自らあなたに話したいと考えるのならば別です。それを止めようとは思いません」
「……どうしたら自ら話すんです?」
あんなにも痛々しい傷なのだから、話したくもないだろう。話すことは思い出すことでもあるのだから。
自分だったら話したくない。
それでも、ライエ名誉教授は助けてくれなかった。
「あなたには立派な頭があるのですから、ちゃんと自分でお考えなさい」
「これも課題のうちですか?」
「そうかもしれないし、そうではないのかもしれません。課題でないとするのなら、あなたはアンが何を抱えていようと興味がないのですか?」
急に喉が絞めつけられたような感覚がした。この苦しさはなんだろう。
今日、ここへ来た理由は課題のためではなかった。
ただアンのことを知ろうとした。何かをしたいと、柄にもなく考えて。
「俺は、興味がないことには指一本動かしません。アンは俺が今まで出会った中で一番善良な人間ですから、さすがにアンみたいな子が傷つくのは嫌です」
本当に自分らしくないことを口にするのは疲れる。顔が強張って仕方がなかった。
けれどその甲斐はあったのか、ライエ名誉教授は満足してくれたらしい。
「今しばらくアンのことを頼みます。それがあなたにとってもよい結果となるでしょうから」
「はい」
「私は、あの子の傷を治してあげたいと思いました。けれど、古傷を治すには相当に時間がかかります。今の私の魔力では限界があるのも認めざるを得ません。残念なことですが」
回復魔法の第一人者と謳われる人がこれを正直に言うのは嫌だっただろう。それでも口にするのは、それがどうしようもない事実だからだ。
「そうですか……」
いくら回復魔法の権威とはいえ、神ではない。不可能なことなんていくらでもある。
収穫らしい収穫もないまま館を辞した。
それでも、少しくらいは勇気づけられたような気がしないでもなかった。
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