18◇新月
急に暗くなって、足元が見えずに転んだという程度の悲鳴ではない。強盗にでも遭遇したような恐怖の叫びだった。
自殺願望があるのでなければ、手加減を知らない魔法使いの屋敷へ強盗になど入るわけがない。
では一体何なのか。目で確かめないことには何もわからなかった。
柄にもなく息せき切ってアンの部屋へと急ぐと、部屋の扉が開いていた。ディオニスが出した魔力の光が、廊下の隅にうずくまる人影を照らした。
「……っ!」
声をかけるのを躊躇う。
アンは、綿布を体に緩く巻きつけているだけでほとんど裸だった。体も濡れていて、どうやら入浴中に明かりが消えて驚いて飛び出してきたらしい。
明かりが消えたくらいで湯船どころか部屋から飛び出さなくていいものを――。
いつもは下ろしている髪も濡れないようにまとめていて、白いうなじから背中まで見えてしまう。
ドクリ、と自分の心音が大きく聞こえた。
見てはいけない。けれど、目が離せない。
白い肌は暗がりで輝く真珠のようで、だからこそ際立ってわかる赤い傷跡がある。
アンの背中には醜い傷跡が幾筋にもわたってついていた。
それだけではなく、色々な形の傷跡がある。一体何をしたらあんなことになるのだろうか。それはゾッとするほどひどいものだった。
アンはずっと震えていて、ディオニスがそこにいることすら気づいていなかった。それでも、フッと不安定な明かりが戻る。このタイミングで。
ディオニスはどう取り繕えばいいのかもわからず、無言で狼狽えていた。
アンはゆっくりとディオニスの方に首を向け、ヒッと引き攣った声を上げた。
「いや、その、悲鳴が聞こえて……っ」
そんな恰好でいると思わなかった。知っていたら来なかったのに。
この言い分を信じてくれるだろうか。
この時、ディオニスは嫌われたくないと真剣に思った。今になってアンに軽蔑されたら、さすがに堪える。
アンは涙を流し、動力の切れた自動人形さながらにそのまま倒れた。
濡れた布は手で押さえていただけなので、非常に危ういことになっている。
――その恰好のまま転がしておいたら風邪を引く。
自動人形に運ばせた方がアンのためかもしれないと思いつつも、そうしなかった。自分で手を伸ばし、アンの濡れた体を抱き上げる。邪な気持ちからではなく、あんな傷を見てしまったからこそ、アンのことを労わりたいと思った。
彼女のために何かがしたいと。
初めて目の当たりにした背中の傷は、劣情さえも起こさせないほど衝撃的なものだった。
それでも、なるべく見ないように気をつけながらベッドに寝かせた。それから自動人形に、アンに服を着せるよう指示を出した。
ディオニスは一度部屋に戻り、砂糖の入った小箱を取ってきた。
これで四つ目になってしまうけれど、惜しくはない。
あの時、ザーラとチンピラに絡まれた時も恐怖で気を失っていた。今日もあの時と同じだ。
アンは穏やかな性格に見合わない何かを持っている。それはおそらく、過去だ。
ライエ名誉教授はそれを知った上でアンをディオニスに預けた。明日、ライエ名誉教授に会いに行って話を聞こう。
そうでなければ、これ以上アンが傷つかないように護れない。
今はもう、課題どころではない。アンの過去を知ることが違反だと言うのなら、課題を放棄すればいいだけだ。
自分のことだけを考えて生きてきたディオニスが、他者を優先しようとしているのは初めてかもしれない。
それをするだけの値打ちが、アンにはあると思えた。
またホットミルクに砂糖を溶かし、ベッドのそばのサイドテーブルに置いた。
アンが着せられたネグリジェは襟ぐりが開いていて、鎖骨の辺りにも傷があったが、背中が特にひどいようだ。
こんなにもたくさんの傷を負ったのなら、痛かったことだろう。
じっとまぶたを伏せているアンを見てると、ディオニスの気配を感じたのかアンが目を覚ました。
あられもない姿を目撃された後なので、アンが羞恥心で赤面するかと思ったが、その真逆で青ざめていた。自分が服を着ているか手で確かめ、それから起き上がるとディオニスに深々と頭を下げた。
「お見苦しいものをお見せしてしまって申し訳ありません」
「……他に言うことはないのか?」
思わずため息をつくと、アンは泣きながら顔を上げた。
「本当にごめんなさい」
「いや、そうじゃなくて」
ディオニスの言い方が悪いのだ。上手く慰められない自分がもどかしかった。
それでも、体の傷のことには触れない方がいい。
「何があって悲鳴を上げたんだ?」
「わ、私、暗いところに閉じ込められると怖くて、いつも冷静に物が考えられなくなってしまって……」
それで客室に備えつけてある浴室から飛び出したということらしい。
「わかった。泣くな」
アンは自分が泣いていることに気づいていなかったらしい。慌てて涙を拭う。
「ごめんなさい。私、ご迷惑ばかりおかけして……」
ディオニスは歩み寄り、アンの頭に手を置くと、なんとなく撫でた。
「謝るべきところじゃない時に謝るのはやめろ。アンは何も悪いことはしていない」
「でも、私は……」
「この家の主は俺だ。設備の不具合は俺のせいだろう」
どうして頭を撫でているのか、自分でもよくわからない。
ただ、こうして頭を撫でているくらいが丁度いいのだと感覚的に思えたのかもしれない。
「……ディオニス様はいつもお優しいですね」
ポソリ、とアンが言う。
これにはディオニスの方が驚いた。
「そんなこと初めて言われた」
「そうですか? ……ありがとうございます」
力が抜けていくようにアンは囁いた。まだ砂糖入りのホットミルクは飲ませていないけれど。
ほんの少し。
亀の歩みほどではあるけれど、ディオニスも成長しているのだろうか。
「ホットミルクが冷めるから、飲め。湯冷めして明日寝込むと大変だ」
「本当ですね。ディオニス様にうつしてはいけませんし」
ホットミルクを手に取って微笑んだアンは、化粧っ気もなく乱れた髪をしているにも関わらず、とても可愛かった。
それから、ホットミルクを飲みながらもチラチラとディオニスのことを気にして盗み見ている。女の寝室にいつまでいる気だと自分でも感じたのだが、なんとなく今夜は別れるのが名残惜しいような気分だった。
――なんてことを言ってはいけない。さっさと戻ろう。
「じゃあ、おやすみ」
そう告げると、その途端にアンは寂しそうな表情をした。
本当に寂しそうかどうかは知らない。ディオニスが寂しそうだと勝手に解釈したくなる表情だったというだけで。
「おやすみなさい、ディオニス様……」
ベッドに背を向けたけれど、もう一度振り返ってアンを抱き締めたくなる。
なんだろう、これは。
ディオニスはなんとかアンの部屋から出た。自分が今、アン以上に寂しそうな顔をしていたらどうしようかと考えて顔が赤くなった。
心臓が、ギリギリと痛い。
部屋に戻っても眠れない気がした。
全部新月が悪い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます