17◇今はまだ

 授業を終えて屋敷に戻ると、菓子の甘い匂いが漂っていた。

 屋敷全体がその匂いに包まれているような気がする。


「おかえりなさい、ディオニス様」


 アンが嬉しそうな表情を見せるのは、クッキーを食べてもらいたいからだろう。

 そんなことはわかっているのに、鼓動が落ち着かない。


 ディオニスとシンディと似ているように、アンもコーネルと同じだ。

 こんなに笑顔を振り撒いていたら、この子は自分に好意を持っていると勘違いした男たちにつきまとわれる。

 本人が無自覚なだけに危ない。コーネルは男だからいいが、アンは若い女なのだから。


「お食事の前ですし、後ででもいいのですが……」


 自分の要求を押しつけるのはよくないけれど、食べてほしいというのも透けて見える。他の人間なら嫌な顔をしてみせるのに、相手がアンだと気にならなかった。


「クッキーくらい食べても問題ないから、出してくれ」


 それを言ったら喜ぶのはわかっていた。

 ところが、アンの喜び方はディオニスの予想を上回っていて、大したことではないはずなのにこちらがたじろぐ。


「よろしいのですか? ありがとうございます!」


 人間の表情を、〈輝くような笑顔〉と表現するのは変だとずっと思っていた。

 けれど、今のアンの表情はまさにそれで、そんなものを目の当たりにしたディオニスの戸惑いには気づかず、アンはさっさとクッキーを取りに行った。


『心臓がドキドキし通しで痛いくらい』


 ――痛いなんて、そんなの気のせいだ。

 悲しくもない、なんでもない会話の中で胸が痛いなんて、何かの病気だ。


 痛いなんて、そんなことはない。なかった。

 自己暗示のように心で唱えると、妙に疲れた。


 自動人形たちは自分の感情などは持ち合わせない。

 だから今、悩み始めていた主をじっと見ているのは、何かを思っているわけではない。ディオニスがさっさと上着を脱いで渡さないからだ。


 それを待っているだけなのだが、何か言いたげに見られているように感じてしまうのは、ディオニスがいつもの自分らしくないと勝手に思っているだけだろう。


「……ほら」


 上着を脱いで差し出す。

 自動人形は一拍置いて、それからぎこちなく上着を受け取った。その動きでやっと思い出した。


「ああ、そうか。今日は新月か……」


 自動人形は基本的に魔力を内側に注ぎ入れて動いている。

 そういう仕組みではあるのだが、月は世界に満ちる魔力の源であるとされ、月が世界を照らさない新月の時だけは魔力によって動く人形たちも道具も調子がおかしくなることがある。


 ディオニスがやや疲れを感じたのもそれで、新月の日は魔法を使えば普段よりも魔力を消費する。


 いつもは気をつけていたのだが、忘れていた。こんなことは珍しい。

 疲れたのは、自分の心の動きがコントロールできないせいばかりではなかった。そのことに少しだけほっとしたりもするのだが。




 アンが焼いたクッキーは、ナッツが入っていて香ばしかった。硬めのものと、ホロリと崩れて口の中で溶けるようなもの、渦のように巻いてあるもの、色々とある。


「店で売ってるのより美味い」


 もっと気の利いたことを言いたいところだが、ディオニスはこういう感想には慣れていないのだ。

 それでもアンは満足してくれたらしい。ほんのりと頬を染めている。


「これだけで商売をするのは難しいかもしれませんが、できたらいいですね」


 そんなことを言うから驚いた。


「商売に興味があるのか?」


 アンは粗野ではないが、こうして料理もできるし、労働に抵抗がないから不思議だ。

 良家の令嬢ならば、よりよい相手との結婚を第一に考え、商売などという発想はしないものだ。


「そうですね。一人で生きていけるって素晴らしいことだと思います」


 平然とそんなことを言う。結婚に興味がないのだろうか。


「一人で生きたいのか?」


 ――どうしてこんなに質問攻めにしているのだろう。

 詮索しないという条件もあったはずなのに、自然と問いかけてしまう。


 アンは戸惑いつつも答えてくれた。


「無理なのはわかっています。私にそんな力はありませんから」


 ディオニスも、一人で生きたいと願っていた。それは小さな子供の頃から。

 いずれそれが叶うと信じていた。そして、父も母も亡くなり、ようやくそれが叶った。爵位と財産を受け継ぐことができたからだ。


 けれど、アンは女だからそうは行かない。女は男の付属のように扱われる。ライエ名誉教授のような功績がなければ、一人で暮らす女に世間は冷たいだろう。


 問題は、何故アンがそう願っているのかだ。

 ディオニスのように人が嫌いだとは感じない。むしろザーラにも優しくしていたことから、嫌いではないはずだ。


 どんな事情があるのかは知らないけれど、それをディオニスが尋ねていいわけではないのだ。詮索は無用だ。


「もし売るのなら買ってやる」


 偉そうに言うしかない。

 事情は知らないながらに、アンが望むように生きたらいいと思うから。


「ありがとうございます」


 アンは穏やかに笑って、手にしていたトレイをギュッと抱き締めた。

 その時、アンの右手の親指の付け根に赤い筋が入っているのを見つけた。


「火傷をしたのか?」


 アンは指摘されて気まずそうに右手を後ろに回す。


「クッキーを窯から出す時にうっかり鉄板が当たってしまって。でも、少しだけですから」


 それでも、痕が残らないといい。アンは色が白いから目立ってしまう。


「見せてくれ」

「……本当に大したことはないのですが」


 アンはおずおずと右手をディオニスの前に差し出す。火傷はすぐに冷やさないと痛むはずなのに、アンは自分のことを後回しにしてしまいそうだ。


 ディオニスの頭の中を魔法の法則が駆け巡る。理論上はできないはずがない。

 今、ディオニスはアンの傷が治ればいいと願っている。


 アンの火傷に指で触れると、アンは少し動揺していた。


「…………」


 回復魔法が使えたら、こんな小さな傷は治してやれるのに。

 ディオニスの指先はなんの力も発揮しなかった。


 どうしても、できない。適性がないから。


 心の中で自分に毒づき、それからディオニスは氷になる直前ほど冷たい水の膜をアンの傷口に纏わせた。


「ぬるくなったら勝手に消えるから。火傷は冷やさないと」

「ありがとうございます! こんなことができるなんて、ディオニス様はやっぱりすごい魔法使いなのですね」


 アンの称賛は本音だ。喜んでくれた。

 けれど、本当にしたかったのはこんなことではないから、ディオニスは複雑だった。


 癒してやりたかったと、そう思ったこの気持ちは順調に課題をこなせている証拠だろうか。



     ◇



 ――そんなことがあった晩に。


 ディオニスは入浴を済ませ、就寝前に部屋で本を読んでいた。これはいつもの日課だった。


 そんな時、フッと部屋の明かりが消えた。集中が途切れたのが腹立たしく、軽く舌打ちしてから蝋燭を灯すようにして魔力を光の球にして明かりをつけるが、部屋に設置してある照明ほどの明るさにはならない。そうすることもできるのだが、無駄に疲れるのも嫌なのでこれくらいでいい。


 これも新月のせいだ。

 新しい設備ならば新月にも対応しきれるのだが、この屋敷は父よりも前の代から所有している。何かと型が古いのでこういうことになる。すべて新調するのも面倒なのでこのままにしてあった。


 今日はもうさっさと寝てしまえばいいのに、もう少しだけ読書を続けたかった。


 けれど、結局読書を続けるどころではなくなった。

 悲鳴が聞こえたのだ。


「アン?」


 他にいるはずもない。あの大人しいアンが悲鳴を上げるほどなのだから、何かがあったのだ。


 ディオニスは栞も挟まずに本を閉じて部屋を飛び出した。

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