20◇まず自分から
アンはディオニスが帰ってくると、笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、ディオニス様」
「ただいま、アン」
たったそれだけのやり取りなのに、これがとても大事なことだという気がした。
滑らかな白い頬に血の気が透けていて、触れてみたくなる。あの傷跡がなければ、きっと綺麗な背中だったのだろう。
そう考えてから、傷があるからといってアンの値打ちが下がるようなことはないはずだと思い直す。
アンが善良なのは痛みを知るからかもしれない。それならば、あの傷もアンの一部だ。
「明日は早く帰れるから」
どうしてこんなことを言ったかというと、アンの反応が見たかっただけだ。
「はい!」
パッと、嬉しそうに笑ってくれる。それがどんな感情からなのかはわからないけれど、ディオニスも素直に嬉しいと思った。
一緒に食事を取りながら、ディオニスはアンにどのようにして自分のことを語ってもらおうか考えた。
自分に置き換えてみると、どんなふうに尋ねられても答えないつもりだから、アンならばどう思うのかを想像するのが難しい。
「あの、な」
ポツリと切り出し、そこで途切れる。
アンが小首を傾げて言葉の続きを待っていた。
「はい?」
ディオニスは戸惑い、それから手に汗をかきつつ取り繕う。
「……ザーラにクッキーを渡せたか?」
「今朝お会いできたので差し上げました。喜んでくださいました」
「よかったな」
とっさに振った話題だから、それ以上の言葉が出てこない。どうしようかと考えていると、アンが会話を繋いでくれた。
「ザーラさんが、ディオニス様が帰りは送ってくれると仰ってくれたと嬉しそうに教えてくださいました。でも、家族から、とんでもないことだから駄目だと言われてしまったそうです。だからこれからはなるべく早い時間に来て、日が暮れる前に帰るようにするとのことでした」
「厳しくないか? 現に危ないこともあったし」
「私もあまり口を挟める身ではないのですが、ザーラさんのお父様が怪我をされていて、当分は働けないそうなのです。それでお母様がお店を切り盛りして、ザーラさんが配達を手伝っていると……」
小さな商家ならば人を雇ったり、自動人形を用意したりするゆとりがないのかもしれない。父親が働けないとなると余計に。
そんな中でザーラは一生懸命家族を支えようと働いている。ここへ来た時くらいはアンが甘やかしてくれたらいい。
こういう子供のための救済を何か考えてみるべきなのだろうか。少なくとも、この領地でザーラのような子供が増えないように。
「でも、もし遅い時間に来たら引き止めておいてくれ。その時は返事を聞かずに送るから」
「ええ、そうしてくださると安心です」
アンもザーラのことを気にかけているからほっとしたように見えた。
そして、ザーラの話をしている間はよかったのだが、その後でまた会話が切れた。
アンはそこから、なんとなくディオニスのことを気にし出した。明らかに何か訊きたいことがあるのに別の話を振ったのだと気づかれたのかもしれない。
会話が下手だと自分でも思う。
アンがとても困って見えた。このままだと、また言うべきではないことを言って砂糖に頼るしかなくなってしまう。
これ以上踏み込む勇気もなく、ディオニスは会話を試みることを諦めた。
対策をしっかり練って挑まないと、無計画では達成できない。
その晩、ディオニスは学校の筆記試験よりも必死で机に齧りついていた。
いくつかの案は捻り出してみたけれど、どれが正解なのかは試してみないとわからない。
それでも、非常に繊細な問題であるだけに失敗はできなかった。
学校の授業中までアンのことを考えている始末だ。
休み時間になり、緩慢な動きで教科書を出し入れしていると、前の席にコーネルが座った。
「やっぱり、ディオニスにはこのクラスが苦痛?」
しょんぼりとそんなことを言われた。
「は? 何が?」
「うーん、なんとなく悩んでるっぽいから。ディオニスの悩みは、Sクラスに入れなかったことかなって」
悩んで見えるらしい。実際に悩んでいるが。
そういえば、劣等生の烙印を押されたことも近頃は横に置いていた。今、ディオニスの頭を締めているのはアンのことばかりだ。
ディオニスは、昨晩ずっと考えていた対策の中、最後の一番下につけ加えたものを思い出した。
『人の意見を聞く』
今まで、これだけは一番したくないと思っていた。人は無責任なことしか言わないから、結局は自分で取捨選択をするしかない。
まともな意見など望めない。そう考えていた。
けれど、コーネルにはアンとは同種の善良さがある。それならば、考え方も少しくらいは似ているのかもしれない。
じっとコーネルを見る。他のヤツならばディオニスと差し向かいで座れないが、コーネルはまったく臆さない。
「……そうじゃなくて、悩みがあるとしたら別のことだ」
ポツリと切り出す。コーネルは先回りして言うのをやめ、ただ聞いていた。
「もし、お前が人に話したくないことがあったとする。それでも、それを話そうとするとしたら、どんな時だ?」
ここでコーネルはそっと微笑んだ。もともと垂れ目だから、目が線のようになる。こういうところもシンディには好ましいのだろうか。
「目の前の人が自分のことを心配してくれているってわかった時かな」
「それだけじゃ足りないはずだ」
「そうかな? 今、ディオニスが僕とこの話をしているのはそういうことなんじゃないの?」
――それは、そうかもしれない。
けれど、無遠慮に、心配してるからと言って詮索されたら、そんなものは嬉しくない。今、ディオニスはどうして話してみようと思ったのだろう。
「それまでに築いてきた関係があればいいんだ。それが十分でないと思うのなら、それは君が話してほしい相手に自分を出せないままでいるからだね」
「……知りたいのは相手の事情で、俺のことは関係ない」
「自分のことを話さないのに、相手には話してほしいなんて言える? まず自分からだ」
コーネルの言うことは至極真っ当だった。
ディオニスはアンのことをほとんど何も知らないが、それはアンも同じだ。アンもディオニスのことなど知らない。
若くして伯爵位を継ぎ、気ままに暮らしている。苦労など何もなかったと思っていることだろう。
押し黙ったディオニスに、コーネルは追い打ちをかけるようなことは言わなかった。
「わかった。助かる」
ディオニスにしては素直にそれだけ言うと、コーネルは破顔してディオニスの肩をバンバン叩いた。
「友達っていいだろ?」
「さあな」
とは言うものの、Sクラスでは互いが敵で、こうした馴れ合いは皆無だった。誰もが個として存在しているだけで、協調性などはどこにもない。
学ぶことは教科書の中だけでなく、どこにでも転がっている。そういうものなのだろうか。
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