28◇アンの家族
アンが出ていくと、ディオニスは覚悟を決めて話を待った。
「課題は合格です。コツをつかめたのなら、あなたはこれから実技でも十分に力を発揮できるでしょう」
「ありがとうございます。砂糖は四つ使いましたが残りは返却しますか?」
「いいえ。また必要になったら使ってください」
ライエ名誉教授はクスリと笑った後、紅茶を並べ終えたフィニアに言った。
「本棚から私の論文を取って頂戴。『古傷の治療における有効性』よ」
ライエ名誉教授の論文は五十を超える。まだすべてを読んではいなかった。そのタイトルは知らない。
フィニアは臙脂の革表紙の本を抜き取り、恭しく差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
その論文をディオニスに差し出す。ディオニスはライエ名誉教授が言わんとすることを理解した。
「アンの傷を俺に癒せと? あなたでさえ消せなかったものを」
「ええ。ここに記してあるけれど、古い傷ほど治療には時間がかかります。私の魔力ではいつになるかわかりません。でも、あなたならいずれは消せると思うのです。あの子がウエディングドレスを誇らしげに着られるようにできますかしら?」
「……最初からこのつもりでした? 俺がアンに惹かれるって」
全部この老婦人の手の中だったと思うと面白くないような、けれど感謝しなくてはならないような気もする。
ライエ名誉教授は茶目っ気を見せて笑った。
「それから、アンがあなたに惹かれる可能性も少なからずありましたし。多少は聞いたと思いますが、彼女は本当にひどい扱いを受けながら耐え忍んでいたのです。そんな家で育ったアンですから、あなたが多少冷たくしたところで気にならないかと」
「…………」
その場合、これがコーネルほどの善人だったらどうだったのだろう。やっぱりアンを他の男に会わせたくないなと思ってしまった。
どこまで冗談だったのかはよくわからないが、ここでライエ名誉教授の表情から笑みが消えた。
「アンを治療のために私のところへ連れてきたのは、あの子の父親です。背中の傷を跡形なく消すようにと」
「アンは父親のことが怖いようでしたが、優しいところもあるのですか?」
「優しさは見当たりませんね。それは厳しい方です。私も大っ嫌――いえ、本当にあれほどの利己主義を前にしては、あなたはまだ可愛げがあります」
「…………」
ほぅ、とため息をついてからライエ名誉教授は続けた。
「アンのお父様は、今になってアンが傷だらけであることに気づいたのですよ。心ではなくて、体の方の傷です。あの傷はアンの異母姉弟が彼女を虐めながらつけた傷なので、娘たちに無関心なお父様は知らなかったようです」
「その傷を治してやってくれとここへ連れてきたのなら、多少は人の心があったということですか?」
ディオニスですら、アンの優しさには絆された。冷血な父親も、娘が健気に耐えていたことを知って罪悪感が芽生えたのか。
けれど、ライエ名誉教授は失笑した。
「まさか。あのゲス――いえ、彼は良心など持ちません。ある意味病気ですから」
「…………」
回復魔法の権威というと、温厚な老婦人を想像しがちだが、ライエ名誉教授は口が悪い。それは腹立たしさがそうさせるのだろうか。
話の腰を折るのもなんなので指摘はしない。
「そうではなくて、娘の利用価値が下がっては困ると考えたのです」
「利用価値……」
嫌な言葉だ。
そして、次に続くのもまた嫌な言葉だという気がした。
「アンはあの通りとても可愛らしい娘ですから、政略結婚の道具にしたいのです。最初は彼女の姉の結婚がまとまればそれでいいと考えていたところ、アンの姉は父親によく似た気位の高さを持っていて、良き妻となる女性ではなかったのです。実家が恩恵を受けるどころか、彼女はすっかり冷遇されていると聞きます。そこでアンの父親は、次女がいたことを思い出し、やり直すつもりになったのですよ」
――なんだそれは、と愕然とした。
アンの傷は痛々しいけれど、傷が癒えたところでアンの幸せに繋がるとは思えないような現状だったのだ。
「だからあなたはアンの傷を治さなかったのですか? それで、アンを俺のところに避難させた?」
「あら、すぐには治せなかったと言ったでしょう?」
どこまで本当だろうか。そういうことにしておかねばならなかったのではないのか。
ライエ名誉教授は顔をしかめながら続けた。
「とにかく、どこまでも利己的な方です。奥方は三人いて、それぞれにお子が一人ずつ。存命なのは三番目の夫人だけですね。三番目の夫人は後継ぎになる男児を産みましたから、他の二人に比べるとぞんざいには扱われていないようです。アンの母親が一番ひどい目に遭ったと言えるでしょう。男児を望んでいた彼は、次女のアンが生まれた時、母親のことを罵倒したそうです。そして、顔も見たくないと母子を離れに隔離し、あげくに不義密通をでっち上げて責め立て離縁に持ち込もうとしたのですが、その前に亡くなりました」
ゾッとする話だが、本当にあったことなのだ。
ディオニスの実母も無責任ではあったが、そこまで悪辣ではない。
「アンは不義密通を犯した母親の子という汚名だけ着せられ、姉や弟たちから馬鹿にされ、自動人形たちと同じような使用人扱いをされながら育ったのです。それでも、アンには庇ってくれる大人が誰もいませんでした」
自分が幼少期にしてきた苦労が生ぬるいものに思えてきた。
アンを幸せにしたいという気持ちだけが育っていく。
もうそんな家には戻らなくていい。父親にも二度と会わなくていい。
「……それでも、そんな厄介な家族がいるアンを護れますか?」
そう、ライエ名誉教授は問いかけてくる。
答えなくてはわからないのだろうか。答えは決まっているのに。
「はい。護ります」
それでも、この覚悟を信じてくれなかったのか。ライエ名誉教授は表情をゆるめなかった。
「アンの家族は力を持った貴族です。あなたよりも」
「それは……」
家柄で劣るという。では、どうすればいいのだ。
アンの手を放さなければ自分が潰されてしまうのだとしても、今更放すことはできないのに。
「いざとなったら、なんでも捨てて身軽になって逃げます。自分の才覚だけでアンと二人生きていけるくらいの甲斐性はあるつもりですから」
「領主のあなたが、領民を不幸にして逃げるわけですね。アンが泣きますよ」
「どうしろと……」
優秀であれとディオニスに言い続けた養父。
それは、もしかすると領民のためであったのだろうか。
愚かな血縁者を選ばず、血よりも能力を買ったのはそれが理由か。
今になってそんなことを思う。
それなのに、ディオニスは領地を捨ててもいいと考えた。ひどい裏切りだ。
「立ち向かってください。アンのために」
祈るような声でライエ名誉教授はディオニスに言った。
それが自分にできるだろうか。
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