29◇試練はこれから

『アンの父親は、ヘルワート・エーレンフェルス侯爵。アンの姉はスティラと言って、国王陛下の妃の一人です。そして、侯爵はアンを王太子妃に加えようとしています』

『エーレンフェルス……』


 ディオニスも養子とはいえ貴族なのだから、その名を知らないわけではなかった。あの父でさえディオニスに忠告したものだ。エーレンフェルス侯だけは敵に回すなと。


 幼い頃、父の背中越しに会釈をした程度だが、それでもあの底冷えする寒気は覚えている。


 痩身長躯の整った風貌。あれは人の皮を被った化け物だと思えた。


 心優しいアンの父親があの男だとは到底信じがたいが、ライエ名誉教授が言うのだから間違いはないのだろう。




 ライエ名誉教授から論文を受け取って帰宅してからも、ディオニスはずっと頭の中をかき回されているような心境だった。


 ――この国の国王は、御年九十歳を迎えた。

 そんな年齢の夫を持っても子供など授かれない。アンの姉は形ばかりの妃である。そして、国王が崩御しても再婚は許されず、尼僧院へ行くことになる。


 アンを散々苛めた底意地の悪い姉は、幸福とは呼べない結婚をしたと言えるのだろうか。

 身分はあれど、贅沢ができるかと言えば、王は倹約家だと言われているから案外生活は質素かもしれない。


 そして、王太子だが、確か六十代だったはずだ。アンを嫁がせるとか、生々しくて頭が拒絶してしまう。


 エーレンフェルス侯は、本当に娘たちの幸せなどどうでもよく、自分の立場の向上だけがすべてなのだ。あれと比べたら、誰だってマシな人間だろう。


 部屋でライエ名誉教授の論文を開き、文字を目で追いつつも頭に入ってこない。

 どうしたらアンをあの父親から護れるのだろう。その方法を探るために、時間はそれほど残されていないのだ。近いうちに侯爵はアンを迎えに来る。


 どうすれば――。


 その時、ディオニスの部屋の扉がノックされた。自動人形に飲み物を頼んであったので、それを持ってきたようだ。


「入れ」


 許可を与えると、扉が開かれる。ただし、入ってきたのはアンだった。


 ティーセットを載せたトレイを携え、部屋に入ってくる。ディオニスはポカンと口を開けた。

 アンはどこか疲れたような顔で無理をして笑う。


「ディオニス様のところへ運ぶようでしたので、私が代わらせてもらいました」

「アン……」

「私の傷のことでしたら、もとより治るとは思っておりませんでしたから。あまりご無理をされませんように」

「……それを言いに来たわけじゃないな」


 思わず指摘してしまった。

 アンは困ったように眉を下げ、トレイをテーブルに置いた。


「はい。すみません」

「ロシュトという姓は母方のものか?」

「そうです。……やっぱり、フリーデル様からお聞きになったのですね」


 言葉尻が弱く、消え入りそうだった。

 嘘をついていたことを心苦しく思っているのはわかる。

 そして、ディオニスが、あの厄介な男の娘である自分とこれ以上関わってくれないかもしれないと恐れているのだ。


「ほんの少しの間でも夢を見させて頂いて嬉しかったです。これまで家のことを正直に話さず、申し訳ありませんでした」


 目を伏せると、涙が零れた。泣くつもりではなかったようで、アン自身が自分の涙に驚いている。


「わ、私、いつもはこんなに泣かないのですが。我慢強くなったつもりでいたのに……」


 折檻されても泣かずに耐えていたというのだろう。ディオニスは顔を覆ったアンの手を引く。


「ほんの少しの間なんて、それは別れの挨拶のつもりか? 生憎だが、俺は自分で決めたことに関してそう易々と引き下がったりしない」

「でも……」

「泣くな」


 ディオニスは机の引き出しにしまってある砂糖入りの小箱を取り出し、それをカップに入れて紅茶を少なめに注いだ。それを自分の口に含んでみると、ただ甘いだけだった。

 アンの顔を両手で包み、上を向かせるとその紅茶を口移しで与えた。アンは驚いたのか、飲み込んだ後も少しむせていた。


「落ち着いたか?」


 アンは目に涙を溜めつつもコクコクとうなずく。ディオニスはそんなアンのことを包み込むように抱き締め直した。

 そのままアンの背中に回した手で、下ろしている赤髪を払う。


「なあ、アン」

「は、はい」

「背中を見せてくれるか?」

「えっ?」


 ギクリとしていたが、アンは蚊の鳴くような声で答えた。


「…………はい」


 返事が返るのと同時に、ディオニスはアンのドレスの襟にあるフックを外し、縦に連なっている小さなボタンも外していく。

 白いシュミーズの大きく開いた襟ぐりの下から抉れた傷跡がはみ出していた。その傷に触れてみると、アンが身震いする。


「今でも痛いのか?」


 すると、アンはディオニスの肩に額を預けながら首を振った。


「そういうわけでは……」

「そうか」


 ライエ名誉教授は、古傷を癒すには時間がかかると言った。今のディオニスはまだスタートラインに立った程度の使い手だから、これから継続して治療を始めるとしてどれくらいかかるだろう。


 大きな傷だけでなく、小さな傷もあるから、まずはその小さな傷を先に直すべきなのだろうか。シュミーズが邪魔で傷が見えず、引っ張ったら下がった。傷を指でなぞって確かめると、アンが小さく呻くような声を上げた。


「ああ、悪い」


 手が冷たかったのかもしれない。少し体を離し、アンの顔を見ながら謝ると、熱があるのかと思うほど顔が赤い。目は潤み、息も止めているように見えた。


 そして、ドレスがずり落ちて華奢な肩とデコルテが剥き出しになっていた。ドレスがそれ以上落ちないように押さえているせいで、胸元の膨らみが腕で押されて余計に強調されている。


 正面は比較的に傷が少ない――と、そんなことを冷静に考えられる状況でもなかった。


 自分でやっておいてなんだが、二人きりの部屋で服を脱がせているのだ。アンが緊張しないわけがなかった。

 そのことに気がついたら、急に汗が滲んでくる。


 ――この状況は、マズいかもしれない。


 さっきまでは傷をどう治すかということしか考えていなかったが、正面から向き合うと、震えているアンに嗜虐心を刺激されてしまう。


 ここで押し倒したら、フィニアに刺される。もしくは、侯爵に抹殺される。

 それでも、アンの体の曲線をとても綺麗だと思った。


 ディオニスはなんとかアンから視線を逸らし、その五、その五、とつぶやきながら深呼吸をした。


「……服、自分で直してくれるか?」

「はい……」


 アンがうつむいてボタンを嵌めている隙に少し距離を取った。そのまま論文の置いてある机の前に座ってページを捲る。

 さっきとは違う理由で頭に入ってこない。


「わかった、ありがとう。おやすみ」

「おやすみなさいませ、ディオニス様」


 ペコリと頭を下げ、部屋を出ていったアンだったけれど、これまでにないほど廊下を走っている足音がした。


 疚しい気持ちからではなかったが、最終的にはアンにもっと触れたいという欲求を理性が押し戻した。


 ディオニスは机に突っ伏して火照りを冷まそうとしたが、なんとなく罪悪感が残るのだった。


「その一、その四、その五――って、課題は終わったのにな」


 課題は終了したけれど、試練はこれからなのだった。

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