23◇昔話

『この子がそうか?』

『そのようです。君、名前を言えるだろう?』

『はい。ディオニスです』

『……こんなところに住んで、汚れた服を着て、どうせろくなものを食べてはおらんのだろう? これで健康状態に問題はないと言うのかね?』

『まだ幼いので、これからどうとでもなります。それよりも、この子には類まれな魔力が備わっています。それは学んで身につくものではありません。この子は言わば原石ですよ』

『まあいいだろう。駄目だった時には放り出すだけだ』


 ――後で知ったが、中年男の方は弁護士だった。

 その弁護士が幼いディオニスと目線を合わせるために腰を落とした。


『君には才能がある。こんなところにいるべきではない子供なんだよ。だから、これからしかるべきところへ養子に入るんだ』

『ええと、お母さんに訊いてきます』

『話はすでについておる。お前の母親はもうこの町にはおらん。お前とは二度と会わないという条件を出した』

『二度と会わないって、お母さんが、僕と会わない?』

『そうだ。これからお前の母は別にいる・・・・のだからな。二人は要らん』


 ディオニスの産みの母はだらしない女だった。

 容姿は優れていたが、何かを成し遂げたことがなかった。いつも途中で嫌になり、投げ出し、相手のせいにする。

 ディオニスは父親が誰かも知らないし、母が結婚していたかどうかも不明だった。


 母の作る料理はおかしな味がして、食べると大体腹を下した。ひどい時は上から吐いた。

 貧しいから、食材が腐っていても使ったのだろう。しかし、貧しいのなら余計に、腐る前に使えと今なら思う。


『せっかく作ったのに、また残すのね』


 そんなことを言って顔をしかめる。自分は外で男と一緒に食べてくるくせに。

 まるでペットに与える残飯みたいな食事は、味見すらされていなかったのだろう。


 まったく頼りにならない母のもと、ディオニスは早くから自分の面倒を自分で見るしかなく、子供と遊んでいる時間もなかった。大人たちと話し、知識を得ることで早く大人になりたいと願っていた。


 今は子供だから、大人と同じことをすればすごいと褒めてくれる。だが、大人になって他人と同じことをしていても評価されないのだと、子供のうちに危機感を覚えた。それに気づいたのなら、やはり早熟だったのだろう。


 大人の手伝いをするにはまず文字が読めた方が便利だったので、町の図書館で読み聞かせを聞き、読まれた後の本を借りて覚えた。ディオニスにはそう難しいことではなかった。


 読めるようになれば後は次々に本が読める。本が読めれば学ぶことは多い。

 そして、ディオニスはさらに子供らしからぬ子供になり、そんなディオニスに目をつけた図書館の司書がディオニスの魔力の値を調べてみた方がいいと言ったのだ。


 無料タダで調べてくれるのなら別に構わなかったので、気軽にやると答えたら指先を針で突いて血を出されたので、余計なことは言わなければよかったと思った。


 ――その結果がこの養子縁組に繋がったのだ。


 母は、男がついてもすぐに捨てられる。仕事も続かない。子供を抱え、生活に不安があったはずだ。

 だから、金で子供が売れた時、それこそ泣いてしまうほど嬉しかったのではないだろうか。

 厄介な荷物が金に化けたのだ。降って湧いた幸運に感謝したと思われる。


 ディオニスは、ぽかんと口を開けるしかなかった。

 血の繋がりがあろうとも、親子というのはこんな程度なのだ。世間が言う情など、勘違いか錯覚だろう。


 実の親でさえこれなら、養い親はもっとひどい。何も期待してはならない。

 嫌だけれど、誰の世話にもならずに生きていくには、ディオニスはまだ幼過ぎたのだ――。




「金で買った子供が跡目を継ぐんだから、そりゃあ親戚筋は納得しなかった。父は面倒な連中の中から後継ぎを選びたくないから、まったく血の繋がりがなくても優秀な子供が欲しかったんだ」


 やっぱり、アンの顔が凍りついている。それでも、ここまで言ってしまった以上は最後まで話すだけだ。


「能力だけで選んだんだから、俺は誰よりも優秀でなければ許されない。ひとつでも間違えると罵倒されたし、可愛がってもらったとは思っていない。父なんていうけど、祖父くらいの年齢――いや、もっと上だった。享年八十六歳。まあ、そこそこ生きた方だろうな」


 あのしわがれた怒声が大嫌いだった。

 褒められたいのではなく、見返してやりたい思いでいつもひた走っていた。


 父は勝手に養子縁組を進め、それに関してシュペングラー伯爵夫人である義母は激怒し、ディオニスに面と向かって声をかけたことは一度もない。ほぼ他人で、書類上だけ親子だった。


「……本当のお母様とはそれっきりですか?」


 アンがおずおずと尋ねた。


「そうだな。あれから会っていない。もう会っても、顔さえわからないかも」


 いい思い出は数えるほどしかなかった。今更会いたいなんて願望はない。


 思えば、慈愛や思い遣りなどディオニスに教えてくれた大人は近くにいなかった。母は金で子供を売ったし、シュペングラーの父には完璧であれと責め立てられていただけだ。


 今の劣等生と化したディオニスの有様を父が知ったら怒鳴り散らしただろう。父がいなくなった後でよかった。


 とはいえ、このまま劣等生でいたのではディオニス自身が満足に生きられない。人に見下されて生きるのはもう御免だ。

 そういうふうにしか考えられないのも亡父の呪いのようだけれど。


 価値のない人間に成り下がった時、自分は捨てられるのだという強迫観念を抱いて生きてきたのだから、そうそう変われない。


「まあ、人間ひとつでも取柄があれば人生はわからないってことだな」


 重たい話になるのはわかっていたが、なるべく軽く終わるように言って締めた。それなのに、横を向いたらアンが泣いていた。

 顔を赤くして、震えながらボロボロと涙を零している。


「えっ……、いや、泣かなくても……」


 アンのような人間は、他人の過去にすら同調してしまうのだろうか。

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