22◇生まれと育ち

 春の風はまだ冷たさを残しているけれど、日差しは十分にあたたかい。

 こんなふうに日差しを浴びながら長く歩くのは久しぶりだ。転移魔法を覚えたのは十代の初めくらいで、それができるようになるまでは馬車移動が主だったのだ。


 それにしても、ただ歩いていてアンは楽しいのだろうかと思うけれど、楽しいらしい。

 三歩下がって歩こうとするので、なんとかそれをやめて隣にいるように仕向けた。後ろを歩かれては、置いていってしまっても気づけないかもしれないから困る。


 アンは空を飛ぶ鳥や、すれ違う荷馬車、生えているだけの草木、すべてに興味を示していた。アンが楽しげにしていてほっとするけれど、この笑顔が曇るような話もしなくてはならない。


 まず自分から。

 コーネルにそう言われた。


 ディオニスは、アンに自分のことを語ると決めた。聞かせても楽しい話ではないのに、それでもいいのだろうかという迷いはある。


「ディオニス様、荷物をずっとお持ち頂いたままでは申し訳ないので代わります」


 そんなことを言って、アンは両手を差し出す。


「女の子に荷物を持たせて歩いているところを誰かに見られたら俺が困る」


 そんな断り方をしたせいか、アンはショックを受けていた。必要以上にたじたじになっている。


「誰かに見られる心配はしていませんでした。歩きたいなんて言ってごめんなさい。あの、私のような者とでも、その、誤解を受けては――いえ、そんなふうに見えると思っているわけではないのですが……」

「誤解って、俺が嫁入り前の女の子を連れ回しているっていうような?」

「……ディオニス様は伯爵様ですから、婚約者の方がおられるのですよね?」


 婚約者がありながら別の女と――と、領民に思われてはいけないと言いたいらしい。

 気まずそうに視線を逸らしたが、ボンネットに隠れた耳に神経を集中している気がした。


「まだ婚約はしていない。だからそういう心配は要らないが、俺が純朴そうな女の子で遊ぼうとしているっていう噂は立つかもな」


 クク、と笑いが漏れた。そんな噂が立ったら、シュペングラー家の親戚筋は血相を変えて押しかけてきそうだ。

 冗談のつもりだったが、アンにこの手の冗談は通じなかった。


「やっぱり、帰りましょうか」

「アンは帰りたいのか?」

「いいえ……」

「じゃあいい。行こう」


 いいのかな、と顔に戸惑いが見える。ディオニスはアンを安心させたくて少し笑っておいた。




 そうして歩いていると、思いのほかゆるい坂道でもつらく感じられた。薄手のジャケットですら着ていると暑い。


 そんな道中、小川に架かる橋の上で若い男女がイチャイチャしていた。小さな橋なので非常に邪魔だ。その男女は二人だけの世界で回りが見えていない。ディオニスたちが前から歩いてきていることにも気づいていないらしかった。


 ――魔法で転ばしてやろうか。

 ディオニスは邪魔だとしか思わないのだが、アンはというと。

 ほんのりと頬を染め、二人を直視できないようだった。


 女は男の腕にしがみついて豊かな胸を押しつけ、男は女の腰に手を回して撫で回している。そんなヤツらを見たことがなかったのか、すれ違う前から狼狽えている。


 可愛いな、とつい思ってしまった。アンをじっと見ていたら、その二人がスレスレのところまで来ていた。

 やはり橋の幅が狭いので四人も並べない。向こうはくっついているが、ディオニスとアンの間にはもう一人くらい立てそうな距離がある。


「あっ」


 男の肩がアンに触れそうになったので、ディオニスはすかさずアンの肩を引き寄せた。


「悪い、前見てなくて……っ」

「い、いえ」


 男は素直に謝ったが、アンに目を向けた後、視線が留まる時間が妙に長かった。見惚れる気持ちはわかるが、許す気はない。


 ディオニスはイラッとして、アンの顔が見えないようにわざと肩に置いた腕を内側に捻る。そうして冷え冷えとした微笑を浮べて男を見ると、男はすぐに委縮して愛想笑いを浮べた。


 去っていく時、先ほどまでの仲睦まじさは嘘のように女の機嫌が悪くなった。喧嘩が始まりそうだったが、他所でやってくれと願う。


 こうして歩いていると、厄介事にも遭遇してしまう。やはりパッと飛んだ方がよかったような気もした。

 普段、アンと接するのはディオニスだけなのに。他の男に笑顔なんて向けないでいい。


「ディオニス様、どうかされましたか?」


 あの男女の背中に厳しい目を向けていたら、そう問われた。それもそのはずで、ディオニスは腕に力を込めた後、ゆるめていないのだ。

 引き寄せたアンは、さっきよりもさらに赤い顔をしてディオニスを見上げている。


「いや……」


 ふと、今の自分たちは傍目にはさっきの馬鹿っぽい男女と同じようにしか見えないのではないかと思った。


 そう思うのに、なんとなく離れるのが名残惜しいような気もした。多少のアクシデントはあってもいいと、裏腹なことを思う自分がよくわからない。




 淡いピンクや水色、黄色、色づいた小花を散りばめたような丘の上に辿り着いたのは、昼を随分と過ぎた頃だった。アンに合せたからか、思ったよりも時間がかかったらしい。


 よく、面倒だと食事を抜いてしまいがちなディオニスだが、歩き通しだった今日は空腹を覚えていた。


 アンはしばらく、無言で丘の風光に見入っていた。風が彼女のスカートとボンネットを留めているリボンの帯をなびかせている。


 穏やかな時間だった。

 こんな場所もあったのだな、と自分の領地のくせに思う。

 ディオニスはこれまで、色々なことに興味を持たなかった。それが、アンと出会ってから世界が色づいた。


 こんな、なんでもない景色に心を奪われて立ち尽くすようなことは、以前ならば考えられなかったから。


「なんて綺麗なところでしょう……」


 ぼうっとアンは見惚れている。かと思うと、急にしゃがみ込んで足元の小さな花を指で撫でていた。

 花を踏みたくないとか言い出すのだろう。


「アンは小振りな花が好きなんだな。庭に咲いているようなのじゃなくて」

「庭に咲いているお花も好きですよ。でも――」


 ディオニスではなく花を見つめたまま、誰に向けたのかもわからないような声を零す。


「誰に顧みられることもなく、険しい環境でも健気に咲いている花にはいつも勇気をもらいました」


 その言葉の深意を探る前に、アンは勢いよく立ち上がり、ディオニスに微笑みかける。


「今日は連れてきて頂いてありがとうございます」

「連れてきたというか、自分で歩いてきたんだろ」


 笑って返すと、アンも可愛らしく微笑んでくれる。


「それでも、ありがとうございます」

「あっちに岩があるから、あの上に座らないか? 岩なら踏んでも潰れないから」

「はい、そうしましょう」


 岩の上に瞬間移動しようとしてやめた。なんとなく、今日は歩いてきたのだから魔法とは無縁で過ごそう。


 岩はデコボコとしていて足がかりになるところがあるので登りやすい。一度アンにバスケットを渡し、ディオニスは先に岩の上に乗ってからバスケットを受け取る。


 それから、アンの手を取って引っ張り上げた。強く引きすぎてアンがよろめき、岩の上でディオニスの胸に肩をぶつけた。


「ごめんなさいっ」

「いや、俺が強く引きすぎたから」


 慌てて距離を取ろうとするアンだったけれど、ディオニスがまだ手を握っていたからそれほど離れられない。


 ――強く引き寄せたのは、わざとだ。

 直前までそんなつもりはなかったのに、手を握った瞬間に胸の奥底が熱くなって、頭で考えるよりも体がそう動いていた。これをわざとではないとは言わないだろう。


 アンをそばに引き寄せたい思いがあった。心に向けて手を伸ばすのは難しいけれど、体が近くなれば心も近づくように感じられたから。


 本当は、どれくらいの距離が好ましいのだろう。ディオニスはどこかが触れるくらい近い方が安心する。


 手を放すと、アンはいそいそとバスケットを開けて支度を始めた。その姿をじっと、目に焼きつけるように見ている。すると、アンは包み紙でくるんだ何かをディオニスに差し出してきた。


「手が汚れないように包んできました。こういう食べ方はお行儀が悪いかもしれませんが、今日だけということで」


 貴族はこんな庶民の、それも労働階級のような軽食は食べない。けれど、ディオニスに抵抗はなかった。


「アンが用意してくれたものだから、食べる。アンは誰に料理を習ったんだ?」


 多分母親だろうと思ったのだが、そうではなかった。


「教えてくれる方は誰もいなかったので、自動人形が料理するところを見て勝手に覚えました。あとは本を読んだり、自分で色々試したりですね」


 自動人形がいる家だったようだ。それでも、娘が家事をするのを親は嫌がらなかったのだろうか。

 もしかすると、アンが料理をしているのを知らないくらい家を空けている親だったのかもしれない。


 包みを解き、中に入っていたホットサンドを大口で頬張る。白身魚のフリッターとチーズが挟んであった。


 アンは、ディオニスが自分に合せてくれていると思ったのだろう。

 けれど、本来の・・・ディオニスはこういう食べ方を嫌うわけではなかった。


「俺はもともと、そんなにお上品な人間じゃない」

「私の方こそ、行儀作法に関してはお恥ずかしい限りです。ちゃんとした教育を受けられたらよかったのですが」

「生まれと育ち、どっちが大事なんだろうな? 貴族ってヤツはどっちもそろっていないと相手を人間だって認めないからな」

「そう、ですね……」


 寂しそうにつぶやき、アンはホットサンドを少しずつ食べ始めた。

 ディオニスは食べ終え、食べているアンを横目で見遣りながら岩の上に後ろ手を突いた。アンが食べ終わるまで、穏やかな気分だった。


 横にこうしてアンがいる。それが穏やかな気分にさせる一番の理由になる。

 だから、言った。


「俺も両方そろってないからな」

「えっ?」


 アンは恐る恐るディオニスを見た。ディオニスは覚悟を決めたが、亡父の亡霊がこの明るい空の下でさえ漂っているような気分になった。


「俺がシュペングラーの家に入ったのは五歳の時だ。俺が住む汚い路地裏の長屋に来た時、父がどれだけ顔をしかめていたかよく覚えている」


 見るからに立派な老紳士が、弁護士を連れてディオニスに会いに来たのだ――。

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