31◇冷たい場所
そして、本当に他人の世話を焼いている場合ではなかったらしい。
早くアンに会いたくて、ディオニスは授業が終わればすぐに屋敷へと戻ったのに。そこにアンはいなかったのだ。
いつもなら、すぐに顔を見せてくれる。それが出てこない。いるのは自動人形ばかりだ。
すべての部屋を隈なく探したわけではないのに、アンはもういないのだということが伝わってくる。
この屋敷はこんなにも広く、冷たい場所だっただろうか。
「アンはどこだ?」
心の痛みに耐えながら自動人形に尋ねる。
人形たちはどんな時でも表情を変えない。人の気持ちに寄り添うようにはできていないのだ。
「お迎えが来て、一緒に出ていかれました」
「迎え?」
息が詰まりそうになった。
抑えきれない感情が這い上がってきて喉を絞めつける。
「はい。アンネリーゼ様のお父上とのことでした」
エーレンフェルス侯がディオニスの屋敷までやってきたというのか。
ライエ名誉教授がここを教えたとは思えないから、独自に調べ上げたと考えるべきだろう。ライエ名誉教授の館に何度も出入りしていたのだから、ディオニスのことも調べられたのだ。
「無理やり連れ帰ったんだな?」
「いえ、アンネリーゼ様は自ら支度をして荷物をまとめてから出ていかれました」
その事実は、ディオニスにとっては何よりも耐えがたいことだった。
「自分から……」
「はい」
淡々と言葉が語られる。自動人形は、主であるディオニスの心も読み取れない。どうしてこれまで人形たちだけの中にいて何も思わなかったのだろう。
――どうしても何もない。ディオニスに関心がなかっただけだ。
これまで苦労をしてきたつもりが、慰めを必要とするほど悲しい目に遭っていなかったらしい。自分の努力で乗り越えられる範囲の困難にしか直面していなかったのだ。案外幸せな生活だったのかもしれない。
けれど、もうあの頃の自分とは違う。
「……ライエ名誉教授のところへ行ってくる」
「晩餐はどうなさいますか?」
「何も要らない」
「畏まりました」
動揺が体を強張らせる。
アンは今、何を思っているのだろう。
ディオニスがライエ名誉教授のところへ飛ぶと、その館はいつもとまったく変わりなく見えた。
「ライエ名誉教授! アンが侯爵に連れていかれました!」
事実を告げながら扉を叩く。力いっぱい叩くと手が痛いけれど、心の方が痛かった。
フィニアが扉を開けた時、すぐそばにライエ名誉教授もいて、今回ばかりはさすがに青ざめている。
「侯爵が?」
何も知らなかったらしい。侯爵の方は、ライエ名誉教授のことを完全には信用していなかったのだろう。
そして、アンは無関係なはずの男の家に匿われており、間違いが起こるのも時間の問題だとでも思ったのだろう。傷がどうであろうとアンを連れ戻すことにしたのだ。
ライエ名誉教授は深くため息をついた。
「私の見通しが甘かったようです。ごめんなさい……」
「アンは自発的に父親についていったと、うちの自動人形が言っていました。でも、もしそうだとしたら、アンは恐怖で逆らえなかっただけでしょう」
そうとしか考えられなかった。
エーレンフェルス侯はアンを恐怖で支配する。いい加減にその関係から解放してやりたいのに。
「迎えに行くつもりですか?」
と、ライエ名誉教授は眉根を寄せた。まるでそれが悪いことのように。
「当然です」
ライエ名誉教授はアンの幸せを願っているのではなかったのか。
憮然としたディオニスは、冷静さを少しも持ち合わせていなかったらしい。
「どのようにして? 相手は無慈悲な人間で、そのくせあなたより身分も地位もあるのですよ」
「それは……」
どのようにして、などということは問題ではない。ディオニスが動かなければ、アンは見捨てられたと思ってしまう。それだけはあってはならない。
その考えが浅はかだとライエ名誉教授は言いたいのだろうか。
「だからこそ、アンは出ていったのでしょうね。あなたに累が及ぶのだけは避けたかったのでしょう」
「俺は、いざとなれば身ひとつになってでも自分の力で這い上がります。アンに護ってもらうつもりはありません」
「……わかりました。アンに会いに行くのでしたら、私も行きましょう。こうなったのも私の責任ですから」
ライエ名誉教授はそう言ってため息をついた。
とはいえ、ライエ名誉教授が侯爵に太刀打ちできるわけではない。何か策はあるのだろうか。
「言っておきますが、策なんてありませんよ」
――ないらしい。
「ただ、王都まで行くつもりなら、転移魔法で行くと疲れるでしょう? 私も転移魔法が使えますから、半分ずつ折半で行く交通のお手伝いはできます。それと、まあ、誰もいないよりはもう一人いた方が秘密裏に始末されないかと」
「…………」
侯爵がまるで魔王のようでも、
「よろしくお願いします」
「ええ、生きて帰れるといいですね」
そっと笑って返された。
どこまでが冗談なのだろう。冗談だと言ってほしかった。
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