30◇悩み相談
朝、アンと顔を合わせると、笑顔が硬かった。
「おはよう、ございます」
「おはよう」
「…………」
「…………」
――気まずい。変な緊張がある。
仕方がないのでディオニスは謝ることにした。謝るのが苦手なんて言っていられない。アンに嫌われる方がもっと嫌だから。
「昨晩は嫌な思いをさせたかもしれない。悪かった」
さすがに服を脱がされて背中を撫でられたら警戒もされるだろう。
けれど、アンは一生懸命に首を振っていた。
「嫌な思いなんてしていません」
「それならいいんだけど、我慢してないか?」
アンは相手を気遣って我慢するから。
すると、アンは急にディオニスの右手を握った。赤い顔をしているのが、首を振りすぎて目を回したからではないといい。
「ディオニス様に触れられて嫌だったことなんてありません」
男に甘え慣れないアンが、ディオニスを傷つけないように取る精一杯の言動がどうしようもなく可愛い。
「……今日、どこにも行きたくなくないな」
「え?」
「いや、なんでも」
胸の奥が信じられないほど熱くて、アンと離れがたかった。
授業を終えて屋敷に戻ったらアンが待っていてくれるとわかっていても、ずっと一緒にいたい気分だった。気づいたらギュッと抱き締めていた。
出迎えが自動人形だけだった時は、それすらも煩わしく感じるほどだったのに、今はアンが出迎えてくれたら嬉しい。
大事な人がいるだけで世界は変わるものなのだ。
人生で初めて登校したくないと思った朝だった。
劣等生に落とされても学校に行かないという選択肢はなかったのに。
学校まで飛んだ後も、手にはまだアンのぬくもりがあって、顔がにやけそうになるのを仏頂面でごまかす。
そうしていると、前をコーネルが歩いていた。長身だから目立つが、いつもならもっとサクサクと歩いている。何やらぼうっとして見えた。
なんだろうと思っていると、転んだ。子供か。
「痛い……」
手を擦り剥いたらしい。座ったまま手を見つめていた。
他の生徒たちがコーネルをチラチラと見ながら笑って通り過ぎていく。ディオニスはため息をつきながらコーネルに近づいた。
「その年で転んで擦り剥くとか、恥ずかしいヤツだな」
呆れつつもディオニスは膝を突いて、覚えたての回復魔法でコーネルの擦り傷を治してやった。
「わっ! いつの間にできるようになったんだ? 回復魔法、まだ授業でも少ししか教わってないし、そもそも苦手だったんじゃないのか?」
真剣に驚いていた。ディオニスは得意げに笑ってみせる。
「つい最近、色々とあってな」
「そっか。助かったよ」
コーネルも笑って返すが、明らかに何か心配事があるように見えた。家が貧乏だからだろうか。
「で、何があってそこまでうわの空なんだ?」
アンは、ディオニスを他人にまで優しくさせる。
ただし、他人に興味がないはずのディオニスがそんなことを尋ねたからか、コーネルは驚いていた。
「気にしてくれてありがとう。じゃあ、話すけど」
自分で振っておいてなんだが、コーネルはあっさり話すらしい。
しまった、長引きそうだと後悔したが仕方がない。
コーネルは立ち上がり、ディオニスも隣に並んで歩く。白い蝶が不安定な飛行を続けて飛んでいくのを眺めながらコーネルの話を聞いた。
「シンディから好きだって言われてさ」
「ほぉ」
ディオニスの叱咤激励が効いたのかどうかはわからないが、彼女なりに随分と頑張ったようだ。
「あの子はディオニスのことが好きなんだって思ってたから、びっくりして」
「お前な、俺も向こうも散々互いに興味なさそうだっただろ?」
呆れたものだ。ここまで鈍かったのなら、伝えなければ本当に気づかれなかったのだ。シンディの第一歩は案外大きなものだったらしい。
「うん、その、喧嘩するほど仲がいいってヤツかなって。それに、ディオニスに恋人がいるって話をした時にショックを受けて見えたから」
「お前が親が決めた婚約者がいるって言ったからだろうが。俺は関係ない」
「ああ、なるほど」
コーネルのような人間なら、婚約者がありながら自分を慕う下級生で遊べないだろう。シンディを傷つけず、どう断るか悩んでいるのだ。
「傷つけないようにとか考えるだけ無駄だ。断れば傷つくんだからな。本音を言え。駄目なら駄目で長引かせてやるな」
ディオニスも、アンが想いに応えてくれなかったとしたら苦しかったことだろう。だから、シンディの想いが真剣だからこそ、正直な気持ちを伝えてやる方がいいと思う。傷つけないために曖昧なことを言うのは優しさではない。
そこでコーネルが黙った。
「……駄目っていうか」
「駄目じゃないのか?」
「僕の気持ちの上では駄目じゃないかもしれないんだけど、家の都合が駄目っていうか……」
「面倒くさい」
「うぅ」
あっさりと玉砕するかに思えたシンディの片思いは、ひょっとするといい結末を迎えるのだろうか。
「お前、兄弟が多いんだろ? 誰かに婚約者を譲って婿にでも行け」
「簡単に言ってくれるなぁ」
と、コーネルはぼやいた。
この際、家などどうでもいい。
今後、二人がどうなるのかは知らないが、この二人以上にディオニスたちの方が余程厄介なものを抱えているのである。人の心配などしている場合ではなかった。
――なんてことを考えると、せっかく使えるようになった回復魔法が再び使えなくなりそうだ。
気遣い。思い遣り。
これが癒しの力のもとだから、冷たいことを言ってばかりではいけない。
「……俺に何かできることはあるか?」
すると、コーネルはのんびりとした笑みを浮かべた。
「ありがとう。また話を聞いてくれたら嬉しいな」
「ん……」
いざとなったら、この身分を活用してコーネルの両親を脅すくらいしかできないが、せっかくなのでそれもアリかと思った。
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