5◇アンネリーゼ
「彼女には、ただあなたのところにしばらく置いてもらうということだけを伝えます」
「それで納得しますか? 独り身の男のところに住み込むのに抵抗はないんですかね」
なんとも思わないのだとしたら、すれっからしだ。そもそも、アンネリーゼとやらは良家の令嬢ではないのだろう。
ライエ名誉教授は目を細め、表情を消している。そこから読み取れる情報はなかった。
――いや、ひとつだけある。もしディオニスがアンネリーゼを侮蔑しようものなら、何があろうとも許さないと、それだけはわかる。
「彼女には彼女なりの事情があります。仮住まいを探している最中でしたので、当座の住まいを提供してくれるあなたに感謝することでしょう。ですから、そんな彼女を傷つけないように気遣うことを学びなさい」
「わかりました」
手の内にはあの細工砂糖がある。とはいえ、ディオニスはこれをひとつだって使うつもりはなかった。
見栄えのよいディオニスが笑って優しい言葉をかけていれば、それでアンネリーゼにとって不愉快なことはないはずである。
完璧を目指す自分はこんなものに頼らない。
「明日、授業が終わってから彼女を迎えに来てください」
「はい。この機会を与えて頂き、ありがとうございます」
失礼なことを散々言われたが、こうして礼節を持って返す。
自分はどこも失礼ではない。ちゃんとした人間だ。
ライエ名誉教授もそのうちにわかってくれるだろう。
その日は互いに笑って別れた。
◇
先入観を持たないためとのことで、アンネリーゼという女性についての詳しい説明はない。
身分や立場でディオニスの態度が変わらないように。
もしかすると、見るからに不器量なのだろうか。美人なら、誰だって優しくするのは簡単だから課題にならない。または、わがままな美人かもしれない。
どちらだとしても、笑顔で接する。顔の造作には目を瞑ろう。横幅も身長も気にしない。
基本的にディオニスが嫌いなタイプの馬鹿だとしても、短い付き合いだと思えば耐えられる。
「よし」
どんな女が出てきても驚かない。イメージトレーニングはばっちりだ。
チャイムの音と共にディオニスは席を立った。
「ディオニス、今日――」
コーネルが馴れ馴れしく話しかけてきたので、ディオニスはサッと無視して校舎から出ていった。
転移魔法を使ってもよいとされているのは屋外だけなのだ。違反は内申書に響く。廊下を走るなというのと同じだ。
ライエ名誉教授の館に到着すると、入り口で自動人形のメイドが待っていた。
「お待ちしておりました」
館の扉を開くと、そこにはライエ名誉教授と革のトランクを持った若い娘がいた。
ディオニスよりもひとつふたつ年下だろうか。背中が隠れる長さの赤毛は柔らかそうに波打っている。顔立ちは整っていると言って差し支えない。紅茶のような琥珀色の大きな目がディオニスに向いていた。
服装は、フリルスタンドカラーのほとんど肌が見えない深緑のドレス。それが清楚な雰囲気の彼女にはよく似合っている。
アンネリーゼがどんな不美人でも驚かないように身構えていただけに、大抵の男が好む清楚な娘であったことにかえって調子が狂ってしまった。
「では、アン。しばらくの辛抱ですからね」
辛抱とか言われた。ディオニスとしてはどう解釈すべきなのだろう。
それでも、アンネリーゼは別段おかしなことを言われたつもりはないらしい。
「フリーデル様、本当によろしいのですか?」
少し高めだが耳触りではない声でライエ名誉教授に問いかけている。
ライエ名誉教授は静かにうなずいた。そして、アンネリーゼの背を押す。
「さあ、彼にご挨拶なさい」
ディオニスはアンネリーゼのことを何も知らないが、向こうはディオニスが何者かは知っているのだろう。緊張した面持ちが向けられた。
けれど、それも最初だけである。
不意に、花が綻ぶようにして笑った。
「初めまして。アンネリーゼ・ロシュトと申します。しばらくお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します」
服装は華やかさに欠けるし、それほど高価なものではない。令嬢ではないとしても、商家の娘だろうか。最低限度の礼儀作法は学んでいるらしかった。
少なくとも、食事の席でキーキーと音を立てながらカトラリーを扱うようなことはなさそうだ。
「ディオニス・シュペングラーだ。こちらこそよろしく頼む」
ディオニスも微笑して返した。こうすれば大抵の女は喜ぶことをこれまでの人生で知っている。
手を差し出すと、アンネリーゼは一瞬固まり、それからおずおずと手袋をした手を伸ばしてきた。若い娘が高貴な見栄えのいい男に対して気後れするのは当然である。
去り際にふとライエ名誉教授に目を向けると、『わかっていますね?』と言いたげな表情を浮かべていた。ディオニスは、『わかっています』というふうにうなずいておいた。
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