15◇穏やかな朝

 その晩は、父の夢も母の夢も見なかった。

 ただ起きてから一番気になったのはアンの状態で、食堂へ向かった際にはアンがオムレツを焼く匂いが漂ってきてほっとした。


「おはようございます、ディオニス様」

「おはよう、アン。昨日は眠れたか?」

「ええ、ぐっすりと。寝過ごしてしまいそうでした」

「それなら寝ていてもよかったのに」

「いいえ。私にはオムレツを焼くという使命がありますので」


 そんなことを言って笑っている姿を見て、昨日砂糖を使った自分の判断は誤りではなかったと確信した。

 身構えて行ったわけではないのに、気遣いができていたと後になって思う。


 アンが使命感を持って焼いてくれたオムレツは、やはり美味しかった。

 オムレツそのものではなく、自動人形ではなくアンが焼いてくれたということに価値があるように感じた。


 それから、取り繕って丁寧な喋り方をせずとも、アンには普通にしていていいのだと気づいて、ほんの少し気が楽になった。


 出かけに見送ってくれたのだが、その時にアンはディオニスの様子を窺いながら言った。


「ディオニス様、台所をお借りしてお菓子を作っても構いませんか?」

「ああ、好きにすればいい」

「ありがとうございます。クッキーを焼きたいと思って。それなら日持ちもするし、今度会えたらザーラさんにもプレゼントしたいです。ディオニス様も甘いものがお嫌いでなければ、お召し上がり頂けると……」


 今のディオニスの生活では、自動人形たちが体調管理に必要な料理を出す。それに変更を加えることがないと、変わったメニューは出てこなかった。

 ディオニスは食事に時間を費やすのを好まず、手早く食べられることしか頭にない。デザートで食事が長引くのは嫌だったから、出さなくていいと言った。嫌いだからという理由ではなく、なくても困らないというだけで。


 部屋で本を読んでいる時も手を止めず、持ってきた紅茶にほとんど手をつけないまま下げさせることさえある。飲み物でも面倒だと思うのに、菓子なんて食べるのはもっと面倒だと。


「普段食べないだけで嫌いなわけじゃない」

「そうですか。それならぜひ」


 本当なら面倒だけれど――アンが作る菓子はどんなものなのだろう。

 自動人形たちならば寸分違わぬ大きさのものを作り上げるけれど、人間であるアンが作るものは予測がつかなかった。それが多少は面白くもある。


「ああ。帰った頃には出来上がっているかな」

「頑張ります」


 アンは、相手が誰であっても優しく接すると思っていたけれど、昨日のような相手ではさすがに無理なようだ。

 そうだとするなら、こうして笑顔を向けてくるディオニスには気を許しているのだろうか。


 特別というほどではないけれど、少しくらいはそれに近いものであるのかもしれない。



     ◇



 授業では、教員の話で理解できないことなどなかった。

 回復魔法の理屈は十分に理解している。面白味のないことばかり繰り返し言われて、ディオニスは退屈ながらにこれ以上学校での地位が下がるのは耐えがたいとの思いから睡魔と戦っていた。


 食堂もあるのだが、昼食はいつもランチボックスを作らせて、それを外のベンチで食べている。その昼食が、このところなんとなく様子が違った。


 何が違うと言葉にするのは難しいが、美味しく感じる。それから、食べやすい。パンにちぎりやすい切り込みが入っていたり、小さくカットしてあったりする。


 もしかするとアンが作っているのか。

 頼んでいないけれど、世話になっているから何かしたいと。


 ディオニスはそんなことを考えながらバゲットサンドを頬張った。皮目をパリパリに焼いた鶏肉にハニーマスタードの組み合わせが美味しい。


 満足して昼食を終え、教室に戻ろうとした。その途中で、何故か木の根元にうずくまっている人間がいて、気づかず蹴飛ばしそうになった。


「いっ」


 思わず変な声が出たが、すんでで蹴らずに済んだ。蹴られそうになった人間はそれでも気づいていない。これは怒ってもいいだろう。


「お前、こんなところで何をしているっ?」

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