14◇これで半分
屋敷へ転移し、すぐ自動人形たちにアンを託そうとしたのだが、やっぱりやめた。ついでだから、そのまま客室まで背負っていく。
体を鍛えているわけではないので力があるとは言わないが、幸いアンは軽い方だ。
思えば、この屋敷の客室を使ったのは、ディオニスが継いでから初めてのことだ。自宅だというのに客室がこういう造りになっていて、壁紙も女性が好むような花柄になっていることを知らなかった。
客室のベッドの上にそっとアンを横たえる。
アンは眠りながら泣いていた。悪戯を叱られた子供みたいだ。
自分の襟に触れると、首筋からアンの涙が伝って濡れている。
少し怒鳴られたくらいで気を失うほどの箱入り娘なのだろうか。それにしては料理もするし、それらしくはない。
もしかすると、何かが過去にあって、その記憶を呼び覚ましたのかもしれないと考えた。
だとするのなら、今日の出来事は結構な心労だっただろう。
――今回のことはアンが自発的に外へ出て起こったことだ。
ディオニスはむしろそれを追いかけて助けた。何も減点の対象になることはしていない。
それなら、気にすることはないはずだ。
このまま朝まで放っておけば、それでいい。
「…………」
ディオニスはアンの濡れた頬を袖口で軽く拭った。それから小さく、くそっ、と毒づく。
それは誰に対してのことだったのかもよくわからない。
一度部屋に戻って砂糖の入った小箱を取ってくると、自動人形のメイドに命じてホットミルクを持ってこさせた。そこに砂糖をひとつ投入する。
――自分は悪くない。
それでも、さっきの出来事ではアンの心にはなんらかの傷がついて、この砂糖にはその傷にも効果があるのかもしれない。
「アン、起きられるか?」
声をかけてみると、アンはうっすらとまぶたを持ち上げた。
そうして、自分がベッドの上に寝かされていることに驚いて飛び起きる。
「こ、ここは……あの、ザーラさんはっ?」
「町まで送っておいた。アンに礼を言っておいてほしいって」
それを聞き、アンはほっとした様子だった。
そこから少しずつ思い出したらしい。
「あの時なんとなく、ディオニス様のお声が聞こえたような気がしたのですが、私、記憶が曖昧で……」
「意識がなかったから当然だな」
「す、すみません。あの、助けて頂いて、ありがとうございました」
アンはスカートの乱れを直しながらベッドの縁に座り直す。
そんなアンにディオニスはホットミルクを差し出した。
「ほら、飲め。少しは落ち着く」
アンはソーサーごと受け取ると、いつもよりも情けないような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑をかけたのはあの馬鹿どもだ」
段々、言葉の節々に〈素の自分〉が出てきている。根っから身に着いてはいない品行方正は綻びるのが早かった。
それでもアンは気にしているふうではない。
「私、大きな声を出されるのがとても苦手で、怒鳴られると体が竦んでしまうんです」
そういえば、あの禁止事項の中に『大声で恫喝しない』というものがあった。
誰でも怒鳴られるのは嫌なものだからと大して気にしていなかったが、ライエ名誉教授はアンの性質を知っていて加えたのだろう。
「それなのにザーラのことを庇ったんだな。あの子がそんなに大事なのか?」
苦手なものに立ち向かうのは大変なことだ。
つい最近知り合ったばかりの子供にそこまでの思い入れがあったのだろうか。
これを言ったら、アンには苦笑された。
「ディオニス様も私たちを助けに来てくださいました。きっとそれと同じで、自分よりも小さな相手を見捨てることなんてできませんよ」
「それは俺があいつらに負けない力を持つからだ。アンは違う。勝てない相手に対してザーラを庇った」
ディオニスにとって、あんなチンピラはなんの脅威でもないけれど、アンは男三人を蹴散らすことなどできないのだ。
これを言った時、アンは初めてそれを考えたかのような表情をした。
「もし私がザーラさんの立場で見捨てられたら、深く傷ついたと思います。だから、自分自身に恥ずかしいことはしたくなかったのかもしれません」
もし、勝てない相手だったら、ディオニスはアンたちを助けただろうか。我が身可愛さに見捨てなかったと言えるだろうか。
絶対に助けた、と胸を張れないところだ。
「……頑張ったな」
ディオニスは、この時ばかりは皮肉でも建前でもなくこれを言えた。
アンは目に浮かんだ涙をごまかすようにホットミルクをコクリと飲んだ。
「甘くて美味しいです」
「それはよかった」
その甘さがアンを癒すだろう。
――これで三個。小箱に収まっている砂糖の半分を消費したのだから、使えるのはあと二個になってしまった。
ただし、それだけの値打ちはあったのだと思うしかなかった。
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