34◇取引
こんなにも広い部屋なのに、急に狭く感じられた。それというのも、侯爵の持つ圧迫感に呑まれているからだ。
侯爵は脚を組み直し、クツクツと笑う。
「他の娘がいくらでも寄ってくるだろうに。そんなにアンネリーゼがほしいのか?」
「はい。他は要りません」
この返答に激怒するかと思えば、侯爵は満足そうだった。それが何故なのかわからず、薄気味悪い。
「そうか。それならば会わせてやってもいい。場合によっては嫁にでも妾にでもさせてやろう」
――本当に、何を考えてこれを言うのだろう。
侯爵にとって、アンをディオニスに与える利点はなんだ。
「何故……」
思わずつぶやくと、侯爵は続けた。薄い微笑を浮べて。
「アンを王太子に嫁がせるつもりだという話は聞いたか?」
「……はい」
「しかし、王太子はそれを懐疑的に見ている。私が恭順の意味で娘を差し出すのではなく、なんらかの企みがあってのことではないかと」
「事実そうでしょう? あなたはアンを道具にしたいのですから」
侯爵の圧を精一杯押し戻すように言い返したが、侯爵はまだ笑っている。気を悪くした様子もない。
「あの弱々しい娘を相手に、寝所で警戒する男はいないと思わないか?」
「何を――」
「アンは王太子に嫁がせるが、それは恭順のためでも男児を産ませるためでもない。私はあの王太子が王になるのを好ましく思わぬのでな、そこを上手く〈調節〉するためだ」
調節、というのが何を指すのか考えたくもない。
あの優しいアンにそんな恐ろしいことができるはずがなかった。
「アンにそんなことをさせたら、親のあなたも侯爵家も連座させられるでしょうっ?」
ディオニスは愕然としながらやっと言ったが、侯爵はどこまでも人でなしだった。
残忍な笑みは自動人形の無表情よりも不愉快だ。
「若い娘を相手に腹上死でもすれば王家の恥だ。死因は隠すだろうよ」
「あなたという人は……っ」
ライエ名誉教授が言った意味がわかった。
ディオニスは自分が褒められた人格ではないことを知っていたが、ここまでの悪党ではなかった。もっと生ぬるい人間だ。
「アンネリーゼは、お前のことが余程気に入ったらしいな。逃げたらお前を消すと言ったら、素直に戻ってきたぞ」
ゾッ、と体中の血が凍ったような、沸騰したような、感情が人生で感じたことのない境界を越えた。制御できない魔力がディオニスの立っている周りの絨毯を焦がしたけれど、侯爵はそれでもどこか楽しげだ。
「それほど想われているお前が、あれを忘れて他の女を選んだら、私からちゃんと伝えてやる。お前の目は節穴だと」
「先ほども申し上げましたが、彼女の他は求めておりません」
歯を食いしばりすぎて奥歯が砕けそうだ。殺意さえ芽生える。こんな家は潰れてしまえばいい。
「口ではどうとでも言えるが、事実はどうだ。アンネリーゼはお前のために自らを差し出した。それがお前は、アンネリーゼのために手を汚すことすらできぬのだろう?」
「何を仰りたいのですか?」
呼吸が浅くなる。この侯爵の術中に嵌っているとわかっていても、蛇に睨まれた蛙も同然だった。
侯爵はゆっくりと、蜘蛛の脚のような長い指で自分の頬骨の辺りをトン、トン、と叩いている。
「もし嫁ぐ前に王太子が死去したなら、アンネリーゼは用済みだ。お前にくれてやろう」
それがどういう意味であるのかを理解したくなかった。
「私に手を下せと? そんなこと、できるわけが……っ」
「お前の魔力は底が知れないというではないか。それほどの力があれば、自然死に見せかけることもできるだろう?」
無茶を言う。
――しかし、結論だけ言うのなら不可能ではないかもしれない。
回復魔法は人を癒すための術だが、過度に活性化させることで逆に臓器に負荷をかけてしまう場合がある。表皮の傷などの外傷とは違い、内部への干渉はそれに注意を払いながら行う必要がある。
もし、手に傷のある相手と握手をするとして、その傷から血管に糸ほど細い魔力を流し、心臓まで干渉することができたなら理屈の上では可能だ。
ただしそれは相手の心臓へ到達するほどの魔力量がなければ無理で、それも小さな針の穴に糸を通すのと変わりないほどの集中力が要る。
そうそうできることではない。ライエ名誉教授にもできないだろう。
試したことはないので、机上の空論かもしれない。そんな危険な論文は残せないだろうし、調べても出てこないと思う。
「魔法が万能だと勘違いしておいでのようですね」
できないと思わせておいた方がいいのに、侯爵はなんの根拠があってか諦めない。
嫌な笑みを浮かべている。
「それならばアンネリーゼに託すだけだ。お前のために承諾するだろう」
「っ!」
アンの傷が治っていないのに連れ戻した目的はこれだったのだろうか。アンが使えないとしても、ディオニスを手駒にするために。
こんな話には乗れない。当然だ。
それでも、だとするならアンをどうやって救い出せるのだろう。
こんな絶望を味わうために出会ったつもりはない。
侯爵はディオニスの苦痛を満足げに眺めていたかと思うと、言った。
「アンネリーゼは上の階にいる。声くらいは聞かせてやろう。ただし、お前からは何も話しかけるな」
侯爵の手のうちで踊らされているだけだ。それでも、アンの無事を確かめたかった。
息をついて体の力を意識して抜く。それからディオニスはうなずいた。
侯爵はディオニスの隣を堂々と通り過ぎ、廊下に出る。
ディオニスからの殺気を感じないはずはないのに、侯爵は一切の怯えを見せなかった。
他人を蹴落として生きてきたのだろう。殺意にはきっと慣れている。
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