35◇迫られる選択

 ライエ名誉教授は部屋の外にはいなかった。別室で待たされているか、すでに屋敷から出ているのだろうか。

 ディオニスは黙って廊下を行く侯爵の後ろを歩いた。


 すると、とある部屋からボソボソと声が聞こえてくる。

 それはアンの声ではなかった。少年の楽しげな声だ。


「――って言ってるだろ?」


 アハハと高らかに笑っているが、そこに無邪気さはなかった。

 これはアンの弟だとすぐにわかる。人を馬鹿にした喋り方が侯爵と似ている気がする。


「やめて。もう聞きたくない……」


 アンだ。ディオニスはハッとして耳を澄ませる。

 とてもか細い、弱り切った声――。


 侯爵はそこで足を止めた。

 ディオニスはその重厚な扉のそばに佇む。


「だってさぁ、伯爵って? まったく、どこまで夢見がちなんだか。そんな気持ちの悪い、傷だらけの女なんて、本気で相手にする男がいるわけないだろ? そんなことも知らないんだから、アンって本当にどうしようもない馬鹿だね。まあ、遊びでも構ってもらえただけよかったじゃないか。どうせ、すぐに忘れ去られるだろうけど。あっ、すでに忘れてるか」

「……あ、あなたにわかってほしいとは思わないわ」


 声を震わせながらも、アンは戦っている。

 そんな姉を苛めて楽しんでいる弟。

 やはりこの家は異常だ。


「うわ、アンのくせに生意気。昔はちょっと閉じ込められただけでビービー泣いてたくせに――あっ、閉じ込めた後で蛇も入れたんだったっけ? それともさそりだったっけ? 楽しかったな。また遊ぼうよ、暗闇シリーズで」


 ヒッ、とアンの声にならない叫びのようなものが聞こえた。

 アンのように善良な娘をいたぶるこの親子は、獣と同じだ。人の心など持ち合わせていない。わかり合える日など来ないのだ。


 あまりの怒りに震えが止まらない。

 そんなディオニスを横目で見遣ると、侯爵は荒っぽく音を立てて扉を叩いた。


「ギゼル、アンネリーゼが使いものにならないほど痛めつけるのはやめろ。ほどほどにしておけ」


 すると、中から甘えた声が聞こえた。


「はぁい、お父様!」


 ギゼルは父親にそれほどの恐怖を感じていないようだ。跡取りである息子のことは多少大事にしているのかもしれない。


 ――どっちも死ねばいい。真剣にそう思った。


 そして、侯爵はディオニスに目でついてこいと合図する。ディオニスは扉をぶち破りたい衝動を抑えながら侯爵に続いた。


「ギゼルは汚れるのが嫌いで暴力は振るわないが、ああして精神的な苦痛を味わわせるのを好む。誰に似たのだかな」


 それは冗談のつもりなのか、笑えない。

 今のディオニスに背を向けていられるのが、この男の嫌なところだ。


「お前の返事次第でアンネリーゼの扱いを変えてやろう。ギゼルを部屋から出して一人にしてやる」

「……先ほどの話を受けろというのですか?」

「そうだ。実行すると約束するのなら、報告を待つ間はアンネリーゼのことは心配せずに済むようにしてやる」


 振り向き、侯爵は少しも笑わずにこれを言った。


「実行した場合、あなたは私を切り捨てるだけでしょう? アンとの仲を許すつもりなんて少しもないくせに」


 ディオニスが吐き捨てたら、侯爵は軽く首を揺すった。


「もし失敗すれば切り捨てる。ただし、上手くやれるような優秀な男ならば娘婿にしてもよいということだな」

「一生飼い殺しにすると言っているように聞こえますが?」

「関わりたくなければ断ればいい」

「その場合、アンは犠牲になるというのでしょう?」

「そうだな」


 ここでどう答えるのが正解なのだろう。


 ――誰もいない。

 たった一人で戦わなくてはならない。


 自分よりもアンを優先したい。

 アンを救うためには、今はこう答えるしかなかった。


「わかりました。アンをこれ以上傷つけないでください」


 侯爵はうなずいた。

 この男の中には赤い血の代わりに何が詰まっているのだろう。


「七日後に王宮で仮面舞踏会が開かれる。その時に決行しろ。延期は許さん」


 ディオニスがその手の催し物に出席することは稀だが、招待状は来ていたかもしれない。

 この七日間を、ディオニスは苦悩しながら過ごすしかなかった――。

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