第18話

コツ、コツと部屋がノックされた。慌てて涙を拭って起き上がり、扉を開けると、鯖目さんが立っていた。彼は私を光のない瞳で見下ろす。


「起きているな」

「……はい」

「電気がついているから、起きているのかと思ったら確かに起きている。……何をしていたんだ」

「本を、読んでました。スマホの、電子書籍というアプリで……」


 彼は眉間にシワを寄せ、目頭を右手でおさえた。それから、酷く言いにくそうに口を開いた。


「今何時だと思う」

「九時くらいです」

「朝の四時だ」


 わたしは持っていたスマホの画面を確認した。そこにはたしかに朝の四時と表示されている。わたしは本当に驚いて、スマホと鯖目さんを何度も見た。しかし何度見ても時刻は四時で、鯖目さんは静かにわたしを見下ろしている。


「ちがうんです」

「何がだ」

「わたし、本を読んでいて、あっという間でした。だから、おかしいんです。時計だけが先に進んでしまったんです。こんな時間のはずはなくて、……ジョバンニが夢見てたみたいに……カンパネラが、気がついたらいないみたいに、勝手に、世界が……あの、……」


 鯖目さんは深く息を吐いた。


「……銀河鉄道の夜か。あれは意外と長い。夢中で読んだんだな。どこまで読んだ?」

「最後まで」


 鯖目さんの手がわたしの目の下に触れた。彼の冷たい手が気持ちいい。


「眠気はあるか?」

「ちっとも」

「今日は昼寝するといい。さて、……そこまで楽しんでもらっていて言い難いが、スマホを使う時間を制限しよう」


 わたしが頷くと、彼はわたしから手を離し、光のない瞳でわたしの顔をじっと見た。


「君は都合が良すぎる。反抗しなさい」

「反抗……?」

「スマホ制限なんて嫌だと泣いてみたり、私を詰ってみたり……いくら怒ってもいい、我儘を言ってみなさい」

「……我儘なんて、……そんなこと言われたことがありませんから、よくわからないです」

「私は言う」


 我儘、というのは、欲求のことだろう。


(でも今、わたしはおなかいっぱいで、綺麗な服もあって、家もあって、……多分追い出されなくて、……あと他に何が必要なのかしら。……必要じゃないのに、ほしいものなんて……)


 はた、と思いついた。

 けれど、それは本当に我儘に思えた。あまりにも生きていくのに必要がない。ただ、わたしが欲しいだけのものだ。

 彼を見上げる。彼は変わらず、わたしを見て、私の言葉を待ってくれていた。

 

「……鯖目さんは銀河鉄道の夜を読んだことありますか?」


 彼が頷くので、わたしは、勇気を出して口を開いた。


「感想を聞いてくれますか?」

「……もちろん」

「最後まで?」

「君が話してくれるなら、いくらでも」

「……我儘です」

「それはむしろ、……むしろ私の喜びだ」


 彼は目を細めて、天使のように微笑んでくれた。わたしは胸のあたりが熱くなって、つい、頬をゆるませた。 

 

――これが、わたしと鯖目さんの、読書の夜の始まりだった。

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