第六話 幸福の病

第30話

遠吠えが聞こえる。


「おかあさん、犬は病んでいるのですか?」

「いいえ、こども、犬は飢えているのです」


 ――遺伝 荻原朔太郎


 ガクガクと自分の体が痙攣し、意識が戻る。勝手に揺れる自分の体は、感覚としてはとても遠くにあり、燃えるように熱い。思考には靄がかかっているようで、何もかもがぼんやりしている。


(ええと……、だから、……なんだったかな……)


 ガグガクと勝手に動いてしまう遠くにある自分の体に、丸まれ、丸まれ、と指令を送る。なんとか体を丸めて、膝を抱えて、目を閉じる。


(まるまれ、まるまれ、まるまれば、あったかい……)


 いつかの夜も、こうだった。

 あの日はとても寒くて、わたしは外でひとりきりで、行く宛はなくて……あれ? そうだったろうか? あの日はとても熱くて、わたしは燃えていて、ひとりきりで……どうしたのだったか……。


(こーと、……こーとだ、こーとがあれば、さむくない……)


 目を開けて、まわりを見る。

 海の中にあたたかそうなコートがあった。


(こーと、おとな、の、こーと、おおきい、あったかい……)


 ガグガク、燃えている自分の体に指令を送り、ガグガク、ガタガタしながら、地を這う。手を伸ばし、コートを掴み、地に落とす。


(これ、これ……これがあれば……)


 なんとか、落ちたコートの中に体を収める。


(まるまれ、まるまれ……まるまれ、まるまれ……)


 ぐるぐる、ガグガク、ぐらぐら、ドロドロ……思考は砕けて、身体は遠い。でも目を閉じて、丸まっていれば、いつかはすべてが通り過ぎてくれる。いつだってそうだった。あの寒い日も、あの熱い日も、いつだって、そうだ。


(……だから、こうしていれば、だいじょうぶ)


 だから、……わたしはいつだって、大丈夫。

 ……親がいなくてもコートがあれば、大丈夫。学校に通わせてもらえなくても本があれば、大丈夫。ううん、そんなの、なくても、眠れるなら大丈夫。殴られても蹴られても眠れるなら、大丈夫。ご飯が貰えなくても眠れるなら、大丈夫。意地悪されても眠れるなら、大丈夫。眠れるなら……夢の世界なら……わたしは自由だ。だから、……だから……。

 

(……あたまいたいよぉ……さむいよぉ……あついよぉ……)


 だから、どうか、早く眠らせて。大丈夫にしてほしい。

 ガタガタ揺れる身体が口を勝手に開けるけれど、漏れたのは嗚咽だけで、頭に残るのは吐き気だけだ。目を閉じたまま、眠気を待つ。閉じた目からは勝手に涙が落ちていくけど、気にはしない。


(ねむくなれ、ねむくなれ、ねむく……)


「ルル、起きているか?」


 声がした。


「……先程なにか音が聞こえたが……大丈夫か?」


 鯖目さんだ。

 遠くで燃えていた体の感覚が戻ってくる。


(だいじょうぶじゃないよ)


 目を開けて、コートから顔を出す。頭が酷く痛む。


「……まだ朝には早いから、もう少し寝ていなさい……ルル?」


 なんとか口を開く。されど声は出てこない。


「……寝ているか……」


 手を伸ばし、地を叩く。


(まって、まって……)


 コツン、と小さな音が鳴った。小さな小さな音だった。あまりにも、小さな音だった。


(これじゃ……だめだ……)


 でももう指一本動かない。目を閉じて、丸まって、もうどこにもいけない。


(たすけて、さばめさん……)


「ルル、開けるぞ」


 遠く、たしかにドアが開く音がした。けれどもう、そちらを確認することすら、できなかった。

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