第31話
親から愛されなければ人は歪むのだと、古今東西ありとあらゆる物語が教えてくれる。けれど『愛』とはなんなのか、は、物語によって異なる描写がされる。
つまり、『愛』は唯一無二の大切なものだけれど、『愛』は一つの形をしていない……らしい。
(『愛』は、高等なコミュニケーション……らしい)
一方的な思いでは不完全で、かといって両方向であっても『間違い』であることもある……らしい。愛によく似ていて、けれど愛ではないその『間違い』に溺れると、人はやはり歪む……らしい。でも、正しい『愛』に満たされていれば、人はまっすぐに育つ……らしい。
(そんなもの……本当にあるのかな。ありもしないものに名前をつけて、あるように思い込んでいるだけじゃないの……?)
物語の中で語られる『愛』。
見返りを求めないこと。過ちに許しを与えること。相手を受け入れること。相手に受け入れられること。相手に心を許すこと。相手に心を許されること。安全であると、安心すること。
(そんなの、……知らない)
わたしには保護者は常にいる。たらい回しにされ続けても、まだ先があるぐらい、わたしには保護者がいる。
だけど、わたしは、保護者の方々に尽くさなくてはならない。
働かざる者食うべからず。
対価を支払わなくては生きてはいけない。
(……でも物語の中で、子どもは、働かなくても『愛』を受けている。当たり前みたいに『生かされている』。それが『正しい愛』……)
なら、働かなくては生きていけない子どもであるわたしの目で見える世界は歪んでいる。
でも、だとしたら、歪んでいない世界にはどうやったら行けるのだろう。
歪んでいない自分にはどうやったらなれるのだろう。
物語の中では、何もかもが簡単に進んでいくのに、どうして現実はこんなにものろまで、こんなにも停滞しているんだろう。
皿を一枚洗うだけで指が切れて、そうして切れた指はずっと痛み続ける。パンを一枚食べたければ一日立ち続けて、走り続けて、家中をきれいにしなくてはいけない。
とても足りない。
お腹が空いて、痛くて、寒くて、……物語の中なら、幸せになる主人公だったら、ほんの一行で『あれから十年後』に行けるのに、わたしの一分は痛くて、寒くて、長い。
(それでも、いつか、この一分が終わるときが来たら……いつか……もしも……『愛』に近い場所に行けたら……きっと……わたしは……)
うそつき。
だったら、返してよ。
わたしの払っていた対価を返してよ!
わたしの搾取されたものをすべて返して!
ここにたどり着くまでに払ったすべてを!
できないなら、そんなうそはつかないで!
わたしの苦しみのすべてに報いてくれなきゃ、話はまずそれからでしょう!
(わたしはきっと化け物になる)
美しい星を見て、美しいねと笑えない。
あんなところで輝きやがって、ここがこんなに暗いことに気がつかせやがって、大嫌いだ。光なんか知らなければ、暗闇なんて分からずに済むんだ。
……そうやってわたしはそこから逃げ出すだろう。愛なんてない暗がりで痛みと苦しみを抱えて、ようやくほっとするのだ。
(私はもう歪んでいて、正しい場所になんか戻れない)
だから、ここは真っ暗で、どこにも出口はない。
「ルル」
……暗闇の中から、低い声が聞こえる。
「……もしも、時を戻せるなら、私は君が生まれる前に戻って、君を引き取るだろう。そしたら、君は私を嫌いになるだろうな。私は……女性から罵倒された記憶しかない男だから……君もきっと私にうんざりして……二度と会いたくないと言い捨てて、最後は出ていくんだ。……それが、いい。そんな未来が良かった。……もしそうだったら、君は、きっと……もっと背が高くて、もっとふくよかで、もっと高慢で……もっと、ずっと……我儘で……子どもで……」
ふわふわと眠りのベールが剥がされていく。
指先の感覚が戻ってきて、身体の痛みが戻ってきて、暗闇が徐々に明るくなり、意識が浮上する。
「……、……体調が悪い、ぐらい、打ち明けてくれた……」
重たい瞼を持ち上げると、彼の黒い髪が見えた。
「……鯖目さん……」
私の手を握り、祈りを捧げるように俯いていた彼の肩が揺れた。
「……ルル?」
ゆっくり、彼が顔を上げる。青い顔色、目の下のくまは更に濃くなっていた。彼はわたしの目を見ると、深く、深く息を吐いた。
「……起きられたか」
彼の声はいつもと違っていて、震えている。
「よかった。……でも、まだ熱があるから……もう少し休みなさい」
彼は立ち上がると、わたしの額を撫でた。
彼に撫でられてようやく、わたしは自分が汗ばんでいることに気がついた。そうして、自分の腕に刺さっている点滴、つけられている器具から、どうやらここが病院とも分かった。
(どうして……)
でも、よくわからなかった。
(……どうして鯖目さん、こんなに苦しそうなんだろう……)
彼は私を撫でながら泣きそうな目をしていた。
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